ニケとイライザ
イライザは鏡の前に立っていた。
イライザは服の袖口を上におし上げて、長い髪を後ろで束ねると、鏡に写った自分の姿に頷いた。
「さあ、準備は出来たわよイライザ。そうしたら(掃除の後で)庭に出て新鮮な空気を、体中にとり入れるのよ」
イライザはもう一度、鏡に写った自分の姿を見て頷いた。
そこには空色に似た瞳をもち、金色に波打つ長い髪を後ろで束ねた、ひとりの少女が写っていた。
魔女アンジェリカに連れられて、イライザがこの城にきてから七年が経っていた。
イライザは十四歳になっていた。
イライザは時々街で暮らしていた頃のことを思い出して、悲しくなった。
時々、父さんや母さんの顔が浮かんできた。赤ん坊だった妹の笑い声が懐かしかった。
イライザは短いため息をついたあと、城の掃除にとりかかった。
魔女アンジェリカは、ネズミたちにイライザを見張らせていたが、時々自分でも様子を窺っていた。
魔女アンジェリカが、水晶に両手をかざすと水晶の中にイライザの声が聞こえてきた。
──はやく掃除をすませて庭にいきたいわ。もう少しでバラのつぼみが開きそうなの──とイライザはいっていた。
「ひとりごとの多い子だね。時々誰かと話してるんじゃないかと思うくらい、夢中でしゃべってる時があるから、何かあるんじゃないかと勘ぐってしまうが、見る限りじゃなにもなさそうだね。私はしばらく眠るから、お前たち、イライザの監視をおこたるんじゃないよ」
魔女アンジェリカは、足元にやってきた、二匹のネズミに話しかけると〝あっ〟という間に眠ってしまった。
魔女アンジェリカが眠りについたことがわかると、猫は城の中へ入ってきた。
ネズミたちが、かん高い鳴き声を上げながら、ニケの周りに集まってきた。
ニケが一声鳴くと、ネズミたちは悲しい悲鳴を上げて逃げ出した。
「ふん。ちっとも役に立たんネズミだな」
ニケは得意気に、両のひげをピンとのばした。そして階段を、一気に駆けのぼると、イライザの足元にすり寄り、甘えた声で鳴いた。
「ニケ!」
ニケが城の中で姿を見せる時は、アンジェリカおばさんが眠っている時だと、知っているイライザは嬉しそうな顔をニケに向けていった。
「ニケ!アンジェリカおばさんは、お昼寝中なのね」
ニケはもう一度甘えた声で鳴くと、イライザの肩に飛び乗った。
「ニケったら、掃除の邪魔をしないで。はやく終わらせて、庭に出たいんだから」
それを聞いたニケは、得意の魔法を使ってイライザの手にしているモップを踊らせた。
モップ達は、踊りながら、部屋中をピカピカにみがいていった。
「ありがとうモップさん達。これで大好きな庭に出ていけるわ」
イライザは嬉しそうな声で、ニケとモップ達にお礼をいった。
「でも......魔法を使ったことがアンジェリカおばさんに知れたら大変だから......モップさん達、ピカピカにみがいた所を、ほんの少しだけ汚してもらえないかしら?」
するとモップ達は、ピョンピョンとび跳ねながら、少しずつ汚しにかかった。
「ありがとうモップさん達」
ニケが一声鳴くと、モップ達はとび跳ねるのを止めて静かになった。
モップ達はただのモップになって、壁にもたれかかっていた。
「さぁニケ!庭に出て一緒に遊びましょう」
ニケとイライザは飛ぶようにして、城の外へ出ていった。
「あーーっ、なんておいしい空気なの」
イライザは思いっきり両手を上に伸ばしながらいった。
ニケは嬉しそうに草をはんでいた。
「ニケ?その草おいしいの?」
「ふん。草なんて、どれを食っても同じに決まってる。猫が草を食べるのは、毛玉を吐き出す為だ。そんなことも知らんとは、お前はほんとにばかな子供だな」
「ニケったら...ほんと口の悪い猫ね。でも人間の私より、なんでもよく知ってるしそれに誰よりも優しいし......私......ニケが大好き!」
「大好きだよニケ!」イライザはいった。
ニケは猫なので、顔がまっかになったとしても、毛が邪魔してわからなかったが、急にそわそわした後、草むらにゴロンとなって気持ちよさそうに転がりはじめた。
「ニケ、気持ちよさそうだね」
「猫だからな。かゆい所に手が届かんから...こうしてゴロゴロすると気持ちがいいんだ。お前はそんなことも......」と言いかけて、ニケはうっとりとした顔でイライザを見上げた。
「ニケ......あの雲を見て。あの雲はニケにそっくりよ」
「ふん。どの雲のことを言ってる?私には全部同じ雲に見えるが」ニケはいった。
「もっと顔を上げてニケ。真上に浮かんでる雲のことよ」
イライザはニケを抱きかかえると、空に向かって高々と持ち上げた。
「あの雲よニケ。こうすると、ニケにも見えるでしょ」
「あぁ、そうだな。少し......私に似ているな」
ニケとイライザは、しばらくの間空に浮かぶ雲を眺めていた。
それは───
猫とイライザの幸せな、ひと時だった。
けれど時間なんて、あっという間に過ぎていってしまうもの────
ある日の午後のこと。
魔女アンジェリカは、イライザのひとりごとに耳を傾けながら、首を傾げた。
「ニケだと?ニケとはいったい誰だ?この城にいるのは私とイライザだけのはず......イライザがいつも口にしている〝ニケ〟とは、もしや〝猫〟のことなのか?」
この城にいるのは私とイライザの他を除けば、私の可愛いネズミたちと、この城の庭に住みついている猫しかいないはず......と魔女の頭の中で、今までの出来事がめまぐるしく動き回って、そして一つの結論にたどり着いた。
「『ニケ』とは、私の捜している『魔法猫』のことだったのか」魔女アンジェリカは叫んだ。
「ええーーい!いまいましい小娘め!私が長いことあの〝猫〟を捜していたことを知りながら、今まで隠していたとは......。イライザめ私のことを騙し続けた恨み、どうしてくれようか!お前ら二人とも、火の海に投げ込んでやろうか、それとも......。いや、そんなことをしても少しも面白くない。そんなことをしても、私の恨みはちっともはれはしない......。そうだ、このまま気づかないふりをして、私のほうがあの二人を(一人と一匹を)騙してやろうじゃないか」
そして時が来たら────
猫に気づかれぬよう────
あの娘の体をのっとって────
そう考えると、魔女アンジェリカは嬉しさのあまり、笑いを堪えきれなくなった。
「......ニケ。またアンジェリカおばさんが笑ってるよ」
「ふん。あんな女のことなんかほっとけ」
魔女のやつ......私のことに気づいたかもしれんな猫は胸騒ぎを覚えた。
そろそろかもしれない......とニケは思った。
これ以上この城にいては、イライザが危ない。ニケは胸騒ぎを覚えながらも、この城から離れることが出来なかった。
ニケは三日前に四匹の子猫を産んだばかりだった。
この城から出るには、一匹ずつくわえて空を飛んでいくしかないが......もし、飛んでる最中に子猫を森の中へ落としてしまったら......。
そう思うと、ニケは決心出来ずにいた。
イライザは産まれたばかりの見つめながら、ニケにいった。
「ねぇニケ。子猫たちニケに似てないね」
ニケの産んだ子猫は全部黒かった。
「猫の子は父親にそっくりだからな」
ニケは得意気にいった。
イライザは前足と後ろ足に白いたびをはいた子猫を、人さし指でそっと触れた。
「じゃあ、子猫のお父さんて黒い猫だったのね」イライザがいった。
「いや。黒いのもいたが、ぶち猫に白い猫もいたぞ」ニケはいった。
そんなことより......ニケは思っていた。
この子たちを連れて、街までおりていくには......この子たちはまだ小さすぎる。もう少し育つまで待つしかないだろうな......。
ニケは、あれこれ考えすぎて疲れたので、子猫におっぱいをあげるのをやめて、前足を思いっきりのばした。
そして毛づくろいを始めた。
「ニケ。子猫の耳って、とっても柔らかくて......気持ちいいね」
イライザは、すやすやと眠る子猫たちの耳を順番に触っていった。
「イライザ......」とニケがいった。
「なあにニケ?」
「お前は、この城から出ていきたいとは思わんのか?」ニケが聞いてきた。
「どうしてそんなことを聞くの?」
「あの女と、二人っきりでこの城に住むのもそろそろ飽きたんじゃないかと思ってな」
「ううん、ちっとも。最近のアンジェリカおばさんは眠ってばかりだし、お城の掃除はモップさん達が手伝ってくれるし、お城の庭にはお友達の猫さんがいっぱいいるし、それに大好きなニケがいてくれるから。私......このお城が好きなの」
ニケはしばらく黙っていた。
「イライザ......私は......この子たちが大きくなったら、この城から出ていこうと思っている」
「ニケ!」
イライザは驚いて、口元をおさえた。
「お前も私の子猫たちと一緒に城を出て、街で暮らせばよいと考えていたのだが......。イライザ......お前はここに残りたいのか?それとも私について、街までおりていくかこの子たちが育つまでの間、よおく考えてみるんだな」
ニケはそういうと、子猫たちの側にいって横たわった。目覚めた子猫たちが、ニケのおっぱいをまさぐり始めた。
「ニケ......」イライザの顔は泣き出しそうだった。イライザは両手で顔をおおった。
「ニケったら......どうしちゃたの。私......アンジェリカおばさんを残していくなんてこと出来ないよ......。この城に......独りで住むのは......淋しすぎるもの」
イライザがニケに何か言おうとして顔を向けると、ニケは子猫たちと眠りの中にいて、穏やかな寝息をたてていた。
「......ニケ......私どうしたらいいの?」
ニケは何も答えなかった────