猫と魔女
猫が飛びさった空を見上げて、魔女は体中を震わせた。
怒り狂った魔女は「この城に近づく全ての生き物は、石になってしまうがよい」と呪いの呪文を吐き続けた。
魔女は怒りにまかせて、魔法の呪文を一晩中唱え続けた。
道に迷って、城の庭に一歩足を踏み入れてしまった若者がひとり、不幸なことにその場で石にされてしまった。魔女の怒りはおさまることを知らず、そのせいで魔女は一気に生命を吸いとられ、百八十年余りの若さと、美しさを失ってしまった。
魔女は老いた体を引きずりながら、やっとの思いで鏡の前に腰をおろした。
そして鏡に写った自分の姿に、魔法の言葉を唱え始めた。
「アンジェリカ、アンジェリカ、お前は美しい。この街に住む誰よりも美しい」
魔女が最後の言葉を鏡に向かって唱えると、魔女の醜くやせ細った体には、ほどよい肉がつき、顔にはほんのりと赤みがさして、湖の底の様な色をしていた瞳はうす緑色に輝き、長くてちぢれた赤い髪はその色を変えて、銀色に波打ちながら、さざ波の様に揺れて肩に触れ、豊かな胸の上に落ちていった。
鏡の中には、醜くて年とった魔女の姿はどこにもなく、見たこともないくらい美しくて、若い女の姿が写っていた。
魔女は鏡に写った自分の姿を見てうっとりとした後、ネズミ達を呼び出してお茶の用意をさせた。
そしてお昼のティータイムを楽しんだ後、魔女は猫の好きな、またたびの実を練り込んだ手作りのクッキーを、バスケットいっぱいに詰め込むと、急ぎ足で城を出て街へ向かった。
「さて、あの猫をどうしたものか。主人である私に逆らって逃げ出すとは......。見つけ次第その首を絞めつけてやろうか、それとも釜ゆでにしてスープのだしにでもしようか。それとも......」
魔女はひとりごとを呟きながら、猫の気配はしないかと、家の中をうかがった。どの家の中からも、魔女の捜している『魔法猫』の気配は感じとれなかった。
魔女の作ったクッキーのいい匂いに野良猫が近寄ってきた。
「いまいましい猫め」魔女は近寄ってきた猫を腹立だしげに蹴とばした。
猫は悲鳴を上げて草むらに逃げこんだ。
あまり賢くなかった魔女は、猫を蹴とばした拍子に、やっと良い方法を思いついた。
「そうじゃ。このいまいましい猫どもに、私の大事な『魔法猫』を捜させようじゃないか。猫ごときに自分の足を使ったのは、じつに愚かだった」
魔女はそう言うと、近づいてきた猫にクッキーを食べさせて呪文を唱えた。
魔女が呪文を唱えると、クッキーを食べた猫はヒゲをピンと立てて、魔女の捜している『魔法猫』を見つけに駆け出していった。
魔女が捕まえてきた猫たちに、次々とクッキーを食べさせ、呪文を唱えると、猫たちは甲高い悲鳴を上げながらいっせいに走り出した。猫たちの叫び声を耳にした街の人たちは、あわてて家の中に入り戸を閉めると、胸の前で十字をきった。
「うまくやっておくれ、私の可愛い猫たちよ。もし失敗したら、お前たち残らずスープのだしにするからね」
魔女の言葉に、猫たちは甲高い悲鳴を上げた。もうこの街で、魔女のクッキーを口にしていないのは、産まれたばかりの子猫と『魔法猫』だけだった。
魔女はからっぽになったバスケットを手に下げて、猫たちの走っていった方向へ歩き出した。
そのとき、魔女の着ていたドレスの裾が足元に絡みついた。
魔女がドレスの裾に足をとられて、転びそうになったそのとき、通りかかったひとりの青年の腕が、魔女の体を力強く抱きとめた。
「美しいお嬢さん。お怪我はありませんか」
青年の姿は......絵に描いた様な美しさだった。青年の着ていた服には、あちらこちらに赤や青のシミが付いていたが、魔女の目には青年の美しさ以外、なにも映っていなかった。
青年の美しい瞳に見つめられた魔女は、一瞬にして恋におちた。
二百年と五十日生きてきた魔女が、初めて恋をした青年には、美しい妻と、可愛いふたりの子供がいた。
魔女はこっそりと青年の後をつけて、青年の家の様子をうかがった。
家の中から、赤ん坊を片手に抱いた母親が姿を見せた。そして母親の服の裾を掴みながら女の子が顔を覗かせた。
青年はその美しい顔を妻に向けると、妻から赤ん坊を抱き上げて両腕に抱きしめた。
それから女の子の頬にキスをした。
そして妻に優しい笑顔を向けると、その頬にキスをした。その瞬間────
魔女の中で、何かが壊れる音がした。
〝音〟は、魔女の中で鳴り響いた。
魔女は『魔法猫』の事を、すっかり忘れてしまった。
魔女にとって『猫』は、もう塵ほどの価値もなくなっていた。
遠くで魔女の怒りが溢れていくのを『猫』は感じとった。そして魔女の中で、別の悲しみにも似た怒りが湧き上がってきたことにも、猫は気づいた。
猫はあわてて、身を隠す場所を探した。
そして、ここなら安全と思った場所に身を隠すと、疲れた体を休めて眠りについた。
猫の背中に小さな手が触れて、毛並みにそってそっと撫でられた。
猫は眠りながら、ごろごろと喉を鳴らして、母猫に毛づくろいされる夢を見ていた。
女の子はそっと立ち上がると、そっと小屋の戸を閉めて出ていった。再び小屋にやってきた女の子は、猫の側にミルクのたっぷり入った、お皿を置いて出ていった。猫はそっと目を開けて、ミルクの入った皿を見た。
お皿にはミルクの匂いの他に、女の子の微かな匂いが残っていた。
猫は初めて飲むミルクの味に、喜びの声を上げた。
猫はミャーーオ「ありがとう」、ミャーーオ「ありがとう」と鳴いたあと、体を丸めて目をとじた。
猫は母親のおっぱいを吸う夢をみて、騒がしげに口を動かしながら、やがて深い眠りに落ちていった。