サファイアとイライザとベルナール(2)
イライザは重い体と心を引きずる様にしながら、やっと目的の場所へたどり着いた。
バラの繁みの中から、黒猫のサファイアが飛び出してきた。そして黒猫のサファイアの後ろには、久しぶりに見るベルナールの姿があった。ベルナールは、イライザが最初にこの場所で会った時より、少しばかり年をとっている様に思えた。
イライザはまた悲しくなって思わず、ベルナールの姿から顔を背けた。
「イライザ......どうかしたの?久しぶりで会えたのにあまり嬉しそうじゃないね」
「いいえ、そんなことはないわ......会えてとても嬉しいの。でも何故かわからないけど......ちょっとだけ悲しくて......」
イライザは溢れそうになった涙の粒を、人差指で、そっと拭った。
ベルナールは何もいわずに、そんなイライザの姿を見つめていた。
「イライザ......ぼくと一緒に、街で暮らそう。もちろん、黒猫のサファイアも一緒だよ」
「ほんとなの?そしたら毎日、魚の干したのが食べられる?」
黒猫のサファイアは、飛び跳ねながらいった。
「そうだよサファイア。生のお魚だって、毎日食べられるよ」ベルナールは嬉しそうな顔でいった。
「......ごめんなさい......私もサファイアも......この城の中でしか暮らせないの。だから......もう二度とそんなことはおっしゃらないで......悲しくなるから......」
イライザはその場で泣き崩れた。
ベルナールはそんなイライザの体を、そっと抱きしめると「わかったよイライザ......君がこの城から離れて生きられないことは、最初からわかっていたよ......。けれど、どうしても自分の気持ちを、君に伝えておきたかったんだ......この先、いつまで、こうやって君に会えるのか、わからないからね」
ベルナールはイライザの体を離すと、イライザの涙をそっと拭って、悲しい笑みを浮かべた。
黒猫のサファイアは、ベルナールの持ってきた魚の干し物を全部たいらげ、他に何かないかと、バスケットの中に顔を突っこんでいた。
「だめだよサファイア。それは、イライザに持ってきたものだから。君はもう、さっき食べたよね」
ベルナールはバスケットの中から、何かをそっと取りだすと、イライザの手のひらに置いた。
まっ先に歓声を上げたのは、サファイアだった。
「わぁーーっいい匂いだね。これは何?」
「これはぼくが作ったお菓子だよ。イライザに食べてもらおうと思って......ぼくが作ったんだ」
「......」
イライザは手のひらのクッキーを、じっと見つめた。イライザが何も言わないので、サファイアが「ぼくも食べたいな」といった。
「イライザ......食べてみて。とてもおいしいから......」ベルナールはいった。
イライザはベルナールが、自分の為に作ってくれたというクッキーを、そっと口に運んだ。
口に入れた途端、クッキーの甘い匂いと甘い味が口の中いっぱいに広がって、ホロホロと崩れていった。ベルナールがくれたクッキーはイライザを幸せな気持ちにさせた。
「......とても、おいしいわ......」
イライザは、とても幸せな気持ちになっていた。
「サファイアお前もお食べ」イライザはクッキーの半分を、サファイアに分け与えた。
「ありがとうイライザ」
黒猫のサファイアは、一口でクッキーを食べつくすと、満足気な声で鳴いた。
ベルナールはイライザの為に、生のお肉とぶどう酒も持ってきていた。
「......イライザ......ぼくはしばらくここにこられそうにない......。ぼくが頻繁に、ここを訪れたら、君に迷惑をかけてしまうだろうから......」
ベルナールの顔は辛そうだった。
イライザは、もう泣いてはいなかった。
ベルナールの手作りのクッキーを食べて、とても幸せな気分だったから、ベルナールに笑顔を向けながらいった。
「今まで......ありがとう。今度は私があなたの為に、街の近くまで降りていきます。そこに、私の描いた絵を月の初めに、一枚ずつ置いていくので、あなたはそれを売ってお金にしてください。アンジェリカおばさんはあたしの描いた絵を〝きれいだ〟と、初めて褒めてくれたので......少しはお金になると思うんです」
「イライザ......ぼくのことは心配いしなくていいから......それより君は、これからひとりでどうするの?」
「私は......黒猫のサファイアと、ふたりで生きていくわ」
「イライザ......ここにいたら......君は生きていけないよ。いったい誰が君に食料を運んでくれるの?君は......たった独りで淋しくはないの?ぼくは、君のことが心配でたまらないんだ......」
イライザはベルナールの手を、自分の両手で包みこむと、笑顔でいった。
「いいえ、大丈夫よ。食料はサファイアが運んでくれるしここは......私の居場所なの。ここが、私の居場所なの」
イライザの誇らしげな顔を見ると、ベルナールは何もいえなくなった。
イライザは包みこんでいたベルナールの手を離すと城を指さしていった。
「あなたを......これから私の城へご招待します。カモミールのお茶しか、お出しできませんがそれでもよろしいでしょうか?」
ベルナールの顔に、パッと光が射した。
「ええ喜んで......」
黒猫のサファイアは、喜びすぎて、イライザの足に噛みついた。そして今度はベルナールの足に噛みついた。それが済むと、喜び勇んで駆け出した。
「サファイアは、あなたのことが大好きなの......あんなに嬉しそうにしているサファイアは、初めてみるわ」
「きっとサファイアは、ぼくじゃなくて、ぼくのもってくる魚の干したのが大好きなんだと思うな」ベルナールは言って笑った。
「君は何が一番好きなの?」
イライザは答えに困った。
イライザは思わず〝あなたよ〟といいかけて、口元に手をやった。
「私は......さっき食べた甘い香りのクッキーが......」
「そう。それならいつでも君がクッキーを食べたくなったら、サファイアに持たせてあげるよ。サファイアなら、街へ降りてきても大丈夫だろうから」
ベルナールはとめどなく、しゃべり続けた。
もう二度としゃべれなくなると思っているかの様に。イライザは城が近くに見えるまでの間一言もしゃべらずに、ベルナールの話に耳を傾けていた。城が間近に迫ったとき、やっとイライザは口を開いて「あれが私の......城よ。ここへは人は近づけないの。城へ近づけない様、魔法で結界がはってあるから......」といった。
ベルナールは城を目の前にして、立ち止まるとイライザと正面から向き合った。
「それじゃ......この城を、こんな間近で見られた上に、城の中に入れるのは......ぼくが初めてなんだねイライザ......」
「ええそうよ」イライザはぱっと顔を輝かせた。
「ようこそ、私の城へ」
イライザはそう言って、城の扉を開けた。