サファイアとイライザとベルナール(1)
ニケの産んだ黒い子猫は『サファイア』とイライザによって名付けられた。
「サファイアおいで!どっちが先に庭に出られるか競争よ!」
イライザは、スカートの裾を腰までたくし上げて、階段を転がる様にして下りていった。イライザの体は、羽根の様に軽くなっていて、飛ぶようにして下の階へたどり着いた。私は......本当に魔女になってしまったのかしら......とイライザは思った。
こんなにはやく、階段を駆け降りるなんてこと......今までは出来なかった。アンジェリカおばさんが亡くなるとき唱えた呪文────千年の長きにわたる呪い......私は魔女になって千年の時を生きなければならない、そして......。
イライザは、魔女になってしまったかもしれない不安を隠す様に笑顔を作るとまっ先に庭へたどり着いたニケの子猫に手を振って叫んだ。
「サファイア!またあなたの勝ちね!でも明日は絶対負けないからね」
イライザが大きな声でサファイアの名前を呼ぶとイライザが出てきたことに気づいた、庭に住みついた猫たちが次々と姿を現した。イライザは猫たちと一緒に、草の上に寝ころんだ。
イライザ!庭に出るのは城の掃除を済ませてからだよ!という、アンジェリカおばさんはもういないので、イライザは好きな時に、好きな時間だけ庭で猫たちと遊ぶことができた。
イライザの一日は庭の猫たちと黒猫のサファイアと庭で過ごすことに費やされた。
イライザに「城の掃除をするのよ」と言う人はいなかったし、イライザに「もうすぐ日が暮れるから城の中へ入りなさい」と言ってくれる人もいなかったし、バラの繁みでトゲに刺されても、イライザの指に刺さったトゲを「ちょと痛いけど、我慢してね」と言って抜いてくれる人は、誰もいなかったけど、イライザは少しも寂しくはなかった。
黒猫のサファイアは、イライザが「ねぇサファイア......ニケは......あなたの母さんは元気にしてるかな」と言うと、決まって『ニケ』のもとへ飛んでいき、イライザのもとに帰ってくると『ニケ』からの返事を聞かせてくれた。
「母さんは元気にしてたよイライザ。また子猫が産まれたから、会いに来いって言ってたよ」
「......」
イライザは黙ったままで、寂しい笑みを浮かべた。
「イライザ......どうして街で暮らさないの?」サファイアが聞いてきた。
「......私は魔女になってしまったのよ......街の人達は、この城に住む魔女を怖がってるの......アンジェリカおばさんは亡くなったけど......街の人達はそれを知らないから、私のことを本物の(本当の)魔女だと思ってる......」
イライザは押し寄せる不安に耐えきれなくなり、サファイアを胸に抱きしめて泣きだした。
「イライザ......イライザ泣かないで。イライザが泣くと、ぼくまで悲しくなるよ」
「サファイア......ごめんね。今日はちょっと気分がすぐれないの」
イライザはそう言って、部屋に閉じこもった。
黒猫のサファイアは、イライザのことが心配でたまらなかった。黒猫のサファイアは、イライザの部屋の前を、行ったり来たりしていた。
「あぁどうしよう。イライザは今日も一日部屋に閉じこもったままだよ」
そうだ!母さんに相談してみようと、サファイアは考えた。日が暮れて、薄暗くなった頃サファイアは、街へと向かって飛んで行った。
イライザは、窓辺に身を預けながら、サファイアの飛んで行った、森を見ていた。
イライザの目は、薄明かりの中でも、まっ暗やみの中でも、そこに何があるかを、はっきりと見てとることが出来た。
イライザは、また悲しくなって涙をながした。
イライザは、サファイアがいつでも窓から入ってこれる様に、窓は開けておくことにした。森は暗闇に支配されて静かになった。
梟が鳴きながら、城の周りを飛んでいった。
「サファイアは......今日は帰ってこないつもりかしら......」
呟きながら、イライザはテーブルの上に飾った、カモミールの花に目をとめた。
数日前、イライザが庭で摘んできた、カモミールの花は、枯れて、みじめな姿で横たわっていた。テ-ブルに近づき、カモミールの花を手にしたイライザは、ふいに、もう何日も食べ物を口にしていないことに気づいた。
何か食べなくては、と思いながらイライザは城の台所まで下りて行った。
「この城にはもう......何も食べる物がないのね」イライザはテーブルにうつ伏して、ため息を漏らした。
リンゴの実がなるのを待っていたら、その頃には私は死んでるわね......。
スモモの木には、まだ花も咲いてないし......アンジェリカおばさんは、今までどうやって食料を手にいれてたんだろう、とイライザは思った。イライザは今でも、魔女のことをアンジェリカおばさんと呼んでいた。
魔女は......魔女アンジェリカは、私の家族を殺した悪い人。
でもアンジェリカおばさんは、私をこの城に連れてきて、育ててくれた優しい人。
イライザにも、そうでないことは分かっていた。けれど、この城の中で独りぼっちで暮らしていくには、イライザには、アンジェリカおばさんとの思い出が必要だった......。
イライザは、あれこれ考えるのを止めた後自分の部屋へ戻って行った。
「ニケ......ニケ何処にいるの......私を置いて何処に行ってしまったの......ニケ......私......」
イライザは独りごとを呟きながら、ベットの上に倒れこんだ。
そして、そのまま眠りについた。
翌日、イライザは鼻先に漂う〝おいしい〟香りに目を覚ました。窓のそばに置かれた小さなテーブルの上に、半分に切ったパンとチーズとスープが置かれていた。イライザはベットから跳び起きると、テーブルの前に座りこみ、パンを口に運んだ。
「なんて美味しいパンなのかしら」といった後でスープを口にすると、あまりの美味しさに「なんて美味しいスープなの」と言いながらいっきに飲みほした。
「チーズまであるわ」
イライザはチーズの半分を、丸ごと胃袋におさめると、満足そうに微笑んだ。
「ふん。なんとも浅ましい娘だな」
そういって、窓から入ってきたのは、猫のニケだった。
「ニケ......!」
イライザがニケに抱きつこうとすると、ニケは素早い身のこなしでイライザの腕から離れた。
「腹が空きすぎると、ろくなことはない......」
「......ニケ」
「これからは時々サファイアに、食料を運ばせるから、ちゃんと自分の手で料理をしてたべるんだぞ。わかったなイライザ」
「ニケ......」
「それから......イライザ。もう私は、お前とは会わないことにした。お前といたら......命がいくつあっても......足りんからな。......元気でな......イライザ......」
「ニケ......ニケ......そんなこと言わないで......」
「泣くなイライザ。お前はちっともかわらんな......相変わらずばかな娘だ」
ニケはそれだけ言うと、イライザの前でユラユラ揺れながら消えてしまった。
「ニケ......今のはニケの魔法だったの?」でも、パンもチーズもスープも本物だわ......これはニケが持ってきてくれたの?
イライザはニケがまだそこにいないかと思って、辺りをみわたした。だが、ニケの姿はどこにも見あたらなかった。
ニケ......ニケあなたには二度と会えないの......もう一度、この手でニケを抱きしめたいとイライザは涙した。
ニケが城に入るのを見ていた黒猫のサファイアは、あわてて城の中へ入っていった。
黒猫のサファイアは、口にくわえていた小さな虫を、イライザのベットの上に落とした。
「イライザ、ご飯もってきたよ」といいながら、黒猫のサファイアは、いい匂いのするテーブルに顔を向けた。
「イライザ!これ母さんからなの?」と言って、テーブルの上に跳びのった。
「イライザはもう食べたの?残りのパンは、ぼくが全部食べてもいい?」
サファイアは、目を輝かせながら、イライザに聞いてきた。
「ええ......いいわよサファイア。残りは全部......お前がお食べ............」
テーブルの上には、食べかけのチーズ一片とパンのかけらしか残っていなかったが、サファイアには、それで充分だった。黒猫のサファイアは、イライザの食べ残したわずかな量のパンとチーズを食べつくすと、満足気な顔でイライザの膝の上に跳びのった。
「イライザ......さっきから、ほとんどしゃべらないけどどうかしたの?母さんとケンカでもした?」
黒猫のサファイアは、青色の目をくるくる動かしながら聞いてきた。
「なんでもないわサファイア......ニケとはケンカしてないけど......でももう、お前の母さんと私は会えないの............」
イライザの目から、涙の粒がひとつふたつとサファイアの体へ落ちてきた。
サファイアは首をぐいっと、横に傾けて泣いているイライザの顔を見た。
「イライザ、泣かないで......後でぼくが母さんの所へ行ってみるよ。イライザがまた、母さんと会える様に頼んでみるから......もう泣かないで」
イライザは黙ったままで頷いた。
「ねぇイライザ。そろそろ、あの男の人が何か持ってきてくれる頃じゃないかな」
サファイアが嬉しそうな声でいった。
「サファイア......」
「ねぇイライザ。泣いてばかりいないで、庭のはずれまで行って見てこようよ。ぼくはお魚の干したのが食べたいな。あの男の人が、お魚を持ってきてくれたら嬉しいんだけどな。ねぇイライザ、はやく見にいこう」
黒猫のサファイアは、とても待ちきれないという顔をしていった。
「ええ、わかったわサファイア。行ってみましょう」
イライザは、急に重くなった様に感じる体を引きずるようにして、下の階へ下りていった。
イライザが扉を開けると、黒猫のサファイアは、まっ先に跳び出していった。
「イライザ!はやくはやく!ぼく先に行って待ってるからね」
黒猫のサファイアは、はやる気持ちを抑えきれなくなり、昼間から空を飛んで庭のはずれにある〝秘密の場所〟へひとりで(一匹で)飛んで行ってしまった。
「サファイア!昼間から空を飛んじゃだめよ」
サファイアは、イライザの声が届かなくなる位遠くまで飛んで行っていた。
「サファイアが、あの方をそんなに気に入ってたなんて......あの方はとても親切で優しい人だけど、私とは違う......。あの方は街に住む人。あたしは城の中でしか生きられない......どんなに思い焦がれても、私は城の中でしか生きられない......」