少女と黒猫とベルナール
魔女が死んで、長い年月石にされていた動物たちが息を吹き返した。
野うさぎは長い耳をピンと立てて、風の音に耳を澄まして匂いをかいだ。
周りの景色が、何も変わっていないことに安心した野うさぎは、跳び跳ねながら城の外に広がる森の中へと姿を消した。
城の庭へ迷いこみ、石にされてしまった青年が、強ばった体をゆっくり動かしながら、最初に目にしたのは、遠くから自分を見つめる少女の姿だった。
少女の長い髪は、そよ風に揺れて、少女の髪を優しく撫でていた。
少女の空色をした瞳は、大きく見開かれてその瞳は、まっすぐに青年の瞳に注がれた。長い年月、声を出すことを忘れていた青年の喉から、風に似た囁き声が漏れた。
青年は驚いて、自分の喉元に片手を持っていった。遠くで見ていた少女が、青年の元へ走り寄って来た。
「君は......誰なの?どうして......こんな所に?」少女は何も答えられずに、青年の顔を見つめ続けた。
「......もっと近くに来て......君の顔を見せて......」
青年はそう言うと、その場で気を失ってしまった。
イライザは、バラのトゲで傷ついた青年の腕や足に薬を(魔女アンジェリカの作った薬)ぬって、シーツを裂いて作った布を、腕と足首に巻きつけた。
青年が目を覚ますと、もう何処にも少女の姿はなかった。青年は足首に巻かれた白い布を見て驚いた。青年は手の中に〝魔女の薬〟をしっかり握りしめていることに気がついた。
「ありがとう......空色の瞳をした美しい娘......」
青年はそっと、腕に巻かれた布に触れ......くちびるを押しあてた。
「ぼくは......ベルナールは、またあなたに逢いに、ここへ来ます」
ベルナールはそう言って、城の庭から街へ向かって歩きだした。道はベルナールを街へと道案内するかの様に誘い、ベルナールは一度だけ振り向いて少女の姿を捜した。
イライザはバラの繁みから姿を現すと、城から遠ざかるベルナールの後ろ姿を、一心に見つめた。
「さようなら......どなたか知らない方。長い間あなたの自由を奪ってしまって、ごめんなさい......。どうか魔女アンジェリカのしたことを許してあげてください」
そう言うと、イライザは城の中へと入って扉を閉めた。誰もいない城の中を歩き回った後、イライザは『ニケ』がどこかに隠れているのではと思い、名前を呼んでみた。
けれど、ニケの気配は......城の何処にもなかった。
イライザは淋しさで潰れそうになる胸を押さえながら、自分の部屋へと向かった。
イライザは部屋の扉を開けて『ニケ』の名前を呼んでみた。部屋の何処にも、猫の姿はなかった。かすかに残るニケの匂いをかぎながらイライザは、独りベットの上に倒れこみ、そしていつしか眠りについた。
ニケ......ニケ......何処にいるのニケ......帰ってきてイライザは夢の中でニケの名前を呼び、涙を流した。イライザの流した涙を、見えない何かがそっと舐め始めた。
ニケ......ニケなの?......ニケ......
イライザは夢の中で、夢の外で、ニケの名前を呼び続けていた。
──イライザ......魔女アンジェリカは死んだ......お前はもう自由の身だ。はやくこの、忌々しい城から出て行くんだ──
イライザが目を覚ますと、そこにはニケの背中に生えた翼の羽根が一枚落ちていた。
「ニケーーッ、ニケーーッ」
イライザは窓から顔を出して、ニケに届く様にと大きな声で叫んだ。
イライザは昨日の出来事が、夢でなかったことに喜びを隠しきれなかった。
「魔女は......アンジェリカおばさんはもう......この城にはいないのね......。ニケ......私はもう......自由なのね......好きなときに、外に出て庭で一日中過ごすこともできるのね......ニケ......。ニケーーッありがとうニケ!ニケ明日も来てね、あたしずっと待ってるね」
ニケーーーーッニケーーーーッ
ニケーー待ってるからね
待ってるからね
ニケーーッ
イライザの声は、広い空の上で響きわたり、やがて森の中へと吸い込まれていった。
見えない何かが羽を広げて、城の周りを飛び回った後、庭へと降り立ち、そこで姿を現すと三匹の子猫を連れ、街へ向かって歩き始めた。
イライザは、部屋の窓から城の周りを取り囲む様に広がる森を見回した。森は今日も静かで、イライザは遠くでさえずる鳥の声に、耳を澄ませた。イライザの足元で何かが動いた。
イライザは、びっくりして小さな悲鳴を上げた。そして足元に目をやった。
そこにいたのは、ニケの黒い子猫だった。
「あなたは、どうしてここにいるの?他の子猫たちはどこ?ニケは......あなたのことを忘れていったの?」
するとニケの黒い子猫は────
「イライザ!はやく外にでて遊ぼうよ」といった。イライザは驚きのあまり、声を出すことを忘れた。
「あなたは......しゃべれるのね......」イライザはそれだけいった。
「うんそうだよ。だから、お前はここにいろって、母さんに言われた」
イライザの目から、涙が止めどなく流れ落ちた。イライザは流れ出る涙を拭おうともせずに、外へ出たがる子猫を腕に抱き、部屋の扉を開けると下へ下へと、階段を下りていった。城の一階までくると、子猫は外にでたい気持ちを抑えきれずに、イライザの腕の中から飛び降りた。
イライザが入口の扉を開けると、朝の眩しい光が、イライザに襲いかかってきた。
イライザは思わず目を閉じた。再び目を開けると、まっ先に跳びだしていった子猫が「イライザもはやくおいでよ」と鳴きながら、庭を駆け回っていた。イライザは、朝の眩しい光に目を細めて、庭を駆け回る子猫の姿を見ていた。