博識は忘却する
坂道をのぼりきると、右手に村長の家が、その奥にハクシーの家がある。家の前には整備された広い土地があり、祭りの際はそこに屋台が並ぶようになっていた。明日の祭りも、ここが会場となるのだろう。
ロゼは村長の――廃墟のごとき家屋の前を通り過ぎた。壁はところどころひび割れ、外装も剥がれ落ち、ツタのようなものが絡んでいる。壁を這う植物は白い花を大量に咲かせており、綺麗とも無造作とも言えた。窓ガラスは割れっぱなしで、修繕する気配もない。おまけに、三階建ての建物は歪に傾いていた。豪邸というべき広さではあるが、豪邸というべき見栄えではない。
その隣に位置するハクシーの家は、ボゴの家同様、円柱型で狭かった。レンガを詰んだ壁に、平らな岩をのせたような屋根。近くに植物もないため、その見た目は重苦しくなってしまっている。
重苦しさの原因はもうひとつある。窓がないことだ。
厳密に言えば窓はあり、けれどもそれは綺麗に塞がれていた。いわく、雨が降りこむのを防ぐためらしい。
「ハクシーさん、入っていい?」
扉の外から、ロゼが声をかける。ハクシーは基本的に外出しないため、「いる?」ではなく「入っていい?」という尋ね方が正しかった。
ハクシーからの返事はなかったが、これもいつものことである。「入るよー」と宣言し、ロゼは扉を開けた。
狭い室内の中央にあるテーブルで、ハクシーは何やら物を書いていた。村一番の肥満体とそこに巻き付けられた包帯が印象的で、むしろ外面上の特徴はそれしかない。目、鼻、口の部分だけが避けられ巻かれた包帯は、真新しい物から黄ばんだものまである。声はどこか中性的。故に、性別も分からなければ年齢も不詳だった。
「ハクシーさん、こんにちは。また新しい知識をメモしてるの?」
ハクシーは頷き、書き終えた布を右腕に巻いた。ハクシーは物知りだが、それと同時に物忘れがひどい。そのため、得た知識はすべて包帯に書き、身体に纏っているのだ。
包帯を巻き終えたハクシーはロゼを見た。数秒の沈黙ののち、
「……あなた、名前、葡萄酒?」
「ロゼだよ」
覚えられているのか忘れられているのかも分からない言葉に、ロゼは苦笑した。ハクシーは「村人、情報、左足」と呟きながら左足の包帯をほどいていく。包帯にびっしりと書かれているものは、ハクシーではないと読めない謎の文字だった。
「ロゼ、三か月前、町から来た人間」
「うん」
「弁当屋、ステラと一緒、住んでる」
「そう」
「今日、ハクシー、弁当頼んだ? ハクシー、注文した、忘れてた?」
ロゼは首を振った。
「違うよ、今日はお願いに来たの。一緒に北の森に行ってほしいんだ。キノコを探しに行くんだけど、私だと見分けられないから」
「……外、森、キノコ」
ハクシーは窓の外に目をやろうとして――窓が塞がれていることに気づいた。ロゼは笑う。
「安心して、今日は降ってないよ」
ハクシーは身体が濡れるのを酷く嫌っており、雨の日は何があっても外出しない。包帯が濡れて、そこに書かれた文字がにじむのを恐れているためだった。
しばらく無言だったハクシーは、やがてのそりとその巨体を動かした。
「森、ハクシー、行く」
「ほんと? ありがとう!」
ロゼが礼を言うと、ハクシーは包帯の汚れを防ぐため、大きな長靴を履き始めた。そのサイズは明らかに規格外であるうえ、スパンコールで派手にデコレーションされている。デライラの手作りだろうと、ロゼには容易く想像できた。
ハクシーが長靴を履き終えるのを待ち、扉を開ける。一歩外に出たハクシーが、すぐさま後ずさった。
「太陽、光、眩しい……」
「大丈夫? 帽子とかないの?」
ロゼの言葉に、ハクシーは首を振った。
「帽子、ない、大丈夫」
「ほんとに?」
「明順応、錐体細胞、ロドプシン分解」
「……つまり大丈夫なんだよね?」
難しい顔をするロゼに、ハクシーは頷いた。
ロゼとハクシーは横に並び、坂をくだった。長靴が大きすぎるのか、ハクシーが歩く度に靴底がずっこずっこと鳴る。早くも息切れし始めたハクシーに、ロゼは声をかけた。
「ハクシーさん、平気?」
「平気、運動、大事」
「眩しいのも慣れた?」
「……眩しい? ハクシー? 言った?」
「言ってたよ。めーじゅんのー……っていうのが、えっと……プシ……なんとかって」
ハクシーはよろめきながらもロゼを見た。そして、言う。
「めいじゅんのう、それ、なんだっけ?」
ロゼはしばらくぽかんとしてから、「ごめん」と謝った。
「私も分かんないや。ちゃんと聞いておけばよかったね」
「……ハクシー、メモ、あるはず。でも、今、やめる。今度、会う、教える」
「うん。教えてもらうの、楽しみにしとくね」
「めいじゅんのう、教える、……」
ハクシーは青空を見上げ、地面に目を落とし、
「葡萄酒?」
「ロゼ」
二人は談笑しながら坂をおりきった。巨木に背を向け、北へ向けて歩き始める。道中、ロゼが東に目をやった。流れの穏やかな川と、木でできた橋が見える。
「ロゼ、目的地、そっち?」
「ううん。でもあとで、ヒルトさんのとこに行かなきゃ」
ヒルト、とハクシーは何度か呟いた。ヒルトについて思い出そうとしているらしい。ロゼはヒルトを思い浮かべながら、出来得る限りの説明をしようとした。
「えっとね、すごく頭のいい人だよ。男の人で背が高くて、いつも白衣着てるの。村のはずれ……あの川の向こうに住んでて……」
「わかった、知ってる、思い出した」
ハクシーはどこか嬉しそうに言った。
「金属、扱う、得意」
「そう、その人。あとで用事があるの」
「今、行かない? 大丈夫?」
「うん、ヒルトさんとこはあとでいいや。明るいうちに森に入っておきたいし」
ロゼたちはそんなやりとりをしながら、橋の前を通り過ぎた。そのまま北へまっすぐ進むと、住宅の密集した場所になる。ゴーストタウン。そこにある家屋は、石造りから木造まで様々だ。
弁当屋つながりでロゼのことを知っている住人たちが声をかけてきては「ハクシーも一緒とは珍しい」と目を丸くした。外で遊んでいた子供たちも、ハクシーを見る度にどこかおかしな表情を作る。ハクシーは祭りの時ですら、不参加だったりするのだ。
ハクシーは「こんにちは」と言っては、「あれ誰?」を繰り返した。ロゼはその度、住人の名前と特徴を教えた。掃除好きのキキーモラ、村で一番幼いゴースト、泳ぎが不得意だからと陸にいる人魚。ハクシーは説明を聞くたびに「思い出した」と言い、しかし数秒後に「忘れた」と呟いた。
住宅地の端まで来ると、ロゼは獣道を進み始めた。ハクシーもそれに続く。野ウサギか野ギツネが作ったらしい小さな獣道は、北の森に棲む双子、ナルとヘトの家まで続いている。キノコ類には詳しくないロゼだが、オウカンシイタケについては双子の家近くに生息しているものだと記憶していた。
――北の森に行けばすべて揃うはずさ。あそこにゃなんでもあるからね。
ステラの言葉通り、獣道の周囲は知らない植物やキノコであふれかえっていた。
「ハクシーさん。あれってクツシタマツタケ?」
目についた茶色のキノコを指さし、ロゼが言う。ハクシーはしばらく考え、
「キノコ、情報、右腕」
右上腕部にある包帯をするすると取り始めた。絵具で色を塗ったらしいカラフルなイラストと、やはり解読不能な文字で書かれた説明文があらわれる。
ハクシーは包帯とキノコを交互に見て、
「あれ、違う、サンダルマツタケ」
「食べられるキノコ?」
「食べる、ダメ、お腹痛くなる」
「そっか。あっちのは?」
青色のキノコをロゼは指さす。大きなかさと白い斑点が特徴的で、見た目だけでは食欲をそそられない。
ハクシーはほどいた包帯を確認する。そして、「あっ」と小さく呟いた。
「あれ、食べられる、生でも」
「えっ、生でも?」
「ベリーみたいな味、甘い、本当」
ハクシーは青色のキノコに近づき、直径十五センチはあるだろうかさの匂いを嗅いだ。
「間違いない、食べられる、大丈夫」
ハクシーは包帯のせいで太くなった指で、密集しているキノコのうちふたつを引き抜いた。ひとつはロゼに渡し、ひとつは自分が齧る。長い間舌の上で転がしているかと思えば、「ふへっ」と笑い声をもらした。
「甘い、ハクシー、これ好き」
ロゼは、自分の持っている青いキノコをかじってみた。不思議な事に、表面はぱりっとしている。ラズベリーとブルーベリーのタルトみたいだ、と思った。白い斑点の部分は特に、砂糖をまぶしたように甘い。
「すごいね。本当にお菓子みたい」
「森、歩きながら、おやつになる」
「そうだね。ありがとう、ハクシーさん。一緒に来てもらってなかったら、このキノコにも気づけなかったや」
ロゼの言葉にハクシーは一瞬きょとんとしてから、きょどきょどと視線をさまよわせた。
「て、て、照れ……」
「え?」
「なんでもない、大丈夫、なんでもない」
ハクシーが首を振ると、その表紙に頭の包帯が少し取れた。あわてて包帯を巻きなおす。それから数回深呼吸をし、ロゼを見た。
「おつかい、キノコ、種類は?」
「えっとね……アジヘンゲキノコ、オウカンシイタケ、コラゲンシメジ、クツシタマツタケ」
ステラからのメモを見ながらロゼが言う。ハクシーは北の方角をさした。
「ぜんぶ、向こう、ある」
「ナルとヘトの家に近いのね?」
「そう、ツノの双子、すぐそば」
わかった、とロゼはメモ用紙をバスケットにしまった。
「もうちょっと歩くのね。……これ食べながら行こっか」
青色のキノコを指さすロゼに、ハクシーは頷いた。二人でなんでもない話をしながら獣道を進んでいく。時折、ハクシーは包帯をほどいてメモを確認した。
ハクシーはロゼの『過去』についても書き記しているはずで、けれども何も、言わなかった。