弁当屋の少女
白み始めた空を裂くように、黒いカラスが飛んでゆく。
どこから来たのかも分からぬその鳥は町へと向かい、同色の屋根が並ぶ景色に惑うこともなく、ある家の窓辺にとまった。家の主が窓を開け、労をねぎらい、数粒のくるみをカラスに渡す。カラスがくるみをつついている間、主は書き上げた手紙をバスケットに入れ、きっちりと蓋をした。そうして窓から左手を出し、バスケットをカラスの隣に置く。
「お前の分もこの中に入っているから、向こうに着いたら貰うのよ。大好きなガラス玉も入れておいたわ」
カラスは目を閉じ、首を傾げる。その頭を三度撫で、家の主は窓を閉めた。
たん、たん、とカラスは横に飛び、バスケットに近づく。バスケットからは、かすかに葉巻の香りがした。いつものそれとは少し違う香りだが、気にするほどでもない。
カラスは鳴きもせず、両脚で器用にバスケットの持ち手を掴むと、暁の空を再び舞った。
まっすぐ、まっすぐ。
世界の果て、ヒトが恐れる『化け物の森』へと向かって。
毎朝律儀にやってくるカラスの鳴き声が、ロゼにとっての目覚まし時計だった。
ベッドから飛び起き、小さな窓から外を見る。木々の間を縫うように、一羽のカラスが飛んでいった。いつものようにバスケットを運んでいる。それを確認したロゼは黒いワンピースに着替え、階下へと向かった。洗面台で顔を洗い、左目を隠すように眼帯をする。肩より少し上にある髪は黒色だが、右目側の髪は一部、メッシュを入れたように白い。黒色に戻ることはないだろうと、ロゼは髪を梳きながら思った。
厨房からは食欲をそそる匂いが漂っていた。トマトソースにつられたロゼが厨房に顔を覗かせるのと同時、鍋の前にいた中年女性がふと顔をあげた。女の頭は妙に大きく、ロゼの三倍はある。
「おはようロゼ。相変わらず、寝坊を知らない子だね」
「おはようステラさん。何を作ってるの?」
ロゼの言葉を聞いたステラは、「んまままま」と笑った。顔同様、その口もロゼよりはるかに大きい。
「秋が旬、コウテツジツのトマト煮込みさ。味付けは人間好みかもねえ」
「コウテツジツ? あれ食べられるの?」
ロゼは鍋を覗き込んだ。コウテツジツはこの森でしか取れないプチトマト大の木の実で、石より硬いとされていた。銀色の実は見るからに硬質で、ロゼはそれを拾い食いしたこともない。
「んまま。七日間じっくり煮込んだからね、見てごらん」
ステラは鍋の中を泳ぐ木の実にフォークを突き刺し、一口で頬張った。ロゼが「すごい」と声をあげる。
「食べられる銀色の木の実なんて、人間は見たことないんだろう? どうだ、不気味かい?」
ステラの質問に、ロゼは素直に首を振る。ステラは大きな顔をロゼに近づけ、まじまじとその目を見た。ステラがまばたきをする度、不自然に長いまつげがロゼの顔に当たる。
「……もっと怖がったらどうだい。つまらない子だねえ」
その言葉とは裏腹に、ステラは嬉しそうに笑った。傍らにあった皿にトマト煮込みをよそい、焼きたてのパンをそえる。顔が大きいぶん四肢の短いステラだが、その動きは非常になめらかだった。
「味見がてら食べていきな。食べ終わったら、いつも通りボゴのところへ弁当を持って行ってくれるかい。その間にキバの分を用意しておくから」
「うん、ありがとう」
皿を受け取ったロゼは手を合わせ、銀色の実を一口かじる。口に入れた途端、コウテツジツはとろりと溶けた。料理に入っていたのか木の実の味なのか、チーズのような香りがする。ロゼはステラの背中に叫んだ。
「なんだか新しい!」
「ふうん、不味いかい?」
「ううん、美味しい。きっとみんな喜ぶよ」
「んまままま。あたしの作った料理はなんだって美味しいのさ」
ミルクを多めに入れた紅茶をロゼに渡し、ステラはにかりと笑う。分厚い唇の下でわずかに光る犬歯は、人間のものより鋭く長かった。ロゼはそれに怯えることもなく、料理を平らげ紅茶を飲み干す。汚れた食器をステラに手渡し、かわりにバスケットを受け取った。バスケットからはやはり、トマトの匂いがする。
「ボゴによろしく言っといてくれ」
「うん。行ってきます」
まだ薄暗い空の中、ロゼは外に出た。『弁当屋』と書かれた石造りの家からは、焼き魚のような香りが漂ってきている。ステラが次の料理を作り始めたのだろう。
ロゼはバスケットの中をあまり揺らさないよう、注意しながら歩き始めた。弁当屋の隣には高さ二メートルほどの岩が鎮座しており、ロゼは毎日欠かさずそれを見るようにしている。
「今日はイルカの形。本当に不思議な岩ね、どうなってるんだろう」
ロゼは首を傾げながら岩に触れた。一見何の変哲もない岩だが、何故だか毎日のようにその形を変える。ある時はネコに見えるし、ある時はハンマーに見える。ロゼが初めてこの村に来た時は、ドーナツのように穴の開いた岩だったはずだ。
触れても叩いても岩は岩で、柔らかくもなければ叩かれた拍子に形を変えることもない。しばらくの間ぺたぺたと岩を叩いていたロゼは、やがて思い出したように顔を上げた。
「お弁当。ボゴのところに行かなくちゃ」
ロゼは弁当屋に背を向け、森へと歩き出した。川沿いにあるこの村と、村を囲っている森に、厳密な境界線はない。だが、『形を変える岩』より南に進むと、鬱蒼とした森林がしばらく続いている。ロゼは木の根に足を取られないよう注意しながら、獣道すらない森を歩いた。時折足を滑らせたが、ロゼ自身は顔色を変えなかった。
森の中を十分ほど歩くと、急に開けた場所に出る。そこは森の終わりではなく、森の中にある唯一の原っぱだった。『彼』が住みやすいよう植物たちが配慮し、木々が生えなかったようにも見える場所だ。
ロゼが歩くのに合わせて、足元の植物が次々にその花を咲かせた。動物の体温を感知し、開花するという黄色の花。ロゼはそれを、この原っぱでしか見たことがない。この原っぱでしか生息できないのかもしれなかった。
「ボゴー! いるー!?」
歩きながらもロゼが叫ぶ。甘い花の香りが鼻をかすめた。
「ボゴー!」
甘い香りの方へとロゼは近づいていく。その先に彼がいるのは分かっていたし、事実彼はそこにいた。
ロゼに近づいてくる彼は、猫背にも関わらず二メートルを優に超している。のそりのそりと歩くその足元を、小さな野ウサギが跳ねまわっていた。
彼は人の形をしているが、ところどころが人とは異なっていた。肌は、水色とも緑色とも言い難い不思議な色をしている。鼻はなく、機能しているのかも分からない細長い穴がふたつ開いているだけ。同様に目には眼球がなく、やはり穴が開いているだけのようだった。口の両端は誰かに縫い付けられたらしく、黒い縫合糸がまだそこに残っている。そのせいで彼の口は、どれほど頑張ろうとも一センチほどしか開かないようだった。
「おはよう、ボゴ。朝ごはん持ってきたよ」
ロゼが満面の笑みでバスケットを見せた。彼――ボゴはゆっくりと、両手を出す。その中央に、ロゼはバスケットをのせた。
「今日はね、コウテツジツのトマト煮込み。ボゴはトマト好き?」
「……ンボボ」
「そっか、よかったあ」
十三歳らしい、あるいは十三歳らしくない無邪気さでロゼが笑う。ボゴはどこか照れくさそうに、頬を掻いた。少し冷たい風が吹き、ボゴの身体から甘い香りが漂う。
「ボゴ、いつもいい匂いだね」
「ゴゴボゴ、ンゴゴ……」
「ほんとなんだけどなあ」
ロゼはくすくすと笑い、足元を指さした。
「もう少しここにいていい?」
「ンボ」
「ありがとう」
ロゼがそっと腰をおろすと、ボゴもそれに倣った。二人を取り囲むように、黄色の花が咲く。野ウサギはしばらくの間ボゴの周りをうろうろとしていたが、やがて彼の隣で眠り始めた。
ボゴは並み外れた筋肉の持ち主で、ボロボロのオーバーオールから岩のような腕が生えているように見える。なるべく力を加えないよう慎重に、ボゴはバスケットを開けた。中にあったフォークをそっと取り出し、コウテツジツをぐちゃぐちゃと潰しはじめる。決して行儀が悪いのではなく、縫い付けられたボゴの口では大きなものを食べられないためだった。
「美味しい?」
ロゼの問いかけに、口元を赤く汚したボゴは頷いた。
「よかった。ステラさんにも言っておくね」
「ンボボ」
風に吹かれながら、ボゴは木の実を口に運ぶ。ロゼは原っぱの向こうに目をやった。遠くに見える円柱型の小さな家は、ボゴの棲み処だ。屋根に茶色い草が敷かれているだけのそれは、ロゼが住むにしても小さく、ボゴでは足を伸ばして眠れないだろう。それでもボゴは文句を言うでもなく、その家に住み続けている。ボゴが植えたのか自然に咲いたのか、家の周りには水色の花が咲き乱れていた。
「……ボゴはさみしくないの?」
気になっていたことを、そのまま訊ねた。ボゴは滅多と村に顔を出さず、いつでもこの原っぱで膝を抱えている。
ボゴはこくりと頷いた。さみしくはない、と。
「動物がいるから?」
ボゴの隣で眠っているだろう野ウサギを思い浮かべながら、ロゼが言う。ボゴは頷いた。
ボゴは意思疎通こそできるが、言葉は話せない。争い事も嫌いで、小動物や植物と戯れることを好んでいた。
そんなボゴにとってロゼは、『珍しく毎日顔をあわせる人間』だった。同時に、『毎日顔を合わてもつらくない人間』でもある。
ボゴは人間が苦手だが、ロゼにだけは心を開いているようだった。
「それ、持って帰ろうか?」
食べ終えた弁当をバスケットに丁寧に戻すボゴに、ロゼは話しかけた。ボゴはトマトソースの付着した箱に目を落とし、ぶんぶんと首を振る。汚れたものはきちんと洗って返すべきだと考えているらしかった。
そのかわりに、と言わんばかりにボゴは自身の家へと歩き出した。ロゼも後に続く。昨日渡した弁当箱とバスケットを受けとるためだ。
ボゴは小さな家に身体をねじ込み、けれどもすぐに出てきた。ボゴが持つと妙に小さく見えるバスケットを、そうっとロゼに渡してくる。
「……あれ? 中に何か入ってる?」
弁当箱の重さを差し引いても、バスケットは重かった。ボゴが頷き、ロゼはバスケットの蓋を開ける。そこにはいつも通り綺麗に洗われた箱と、甘い香りのする桃がふたつ入っていた。
ロゼの住む村には、通貨がない。住人同士の物々交換が主流だった。大抵の客は『次に調理してほしい食材』と引き換えに弁当を買いにくる。ただしボゴだけは『次に食べたい』ではなく『今が旬』の食材を渡してくることが多かった。
「これ、くれるの?」
「ンボボ」
「ありがとう」
ロゼが大切そうにバスケットを抱えるのを見て、ボゴはぽりぽりと頬を掻いた。
ボゴは一日一食、それも少量の食べ物しか口にしない。弁当を配達するのも当然、一日一回だけだ。
「また明日」とロゼが別れを告げると、ボゴは手を振った。
いつの間にかまた、彼の周りには小動物が集まり始めていた。