こゆきとまこと
はあ。わたしはパソコンを前に、小さくため息をついた。
「何ため息ついてんだよ」
横からかけられた声に、わざとらしくもうひとつため息を落とす。……こいつはなんでわたしの部屋に無断で入ってくるのか。おいこら、勝手に人のお菓子の袋を開けるんじゃない。
「いいじゃん。お前だって、いつも俺のお菓子横からとってくんだし」
まあ、それはごもっともです。でも、それとこれとは話が別だ。
「ねえ、まことはなんでわたしが小説を書こうとしている時に限って来るわけ?」
「はあ。別に狙ってきてるわけじゃねえんだけど」
ふわあっと大きなあくびをしながら言うこいつは、一応わたしの幼馴染である。長年の腐れ縁といってもいいだろう。
「あんた、いっつもわたしの邪魔してくるし、ほんとなんなの?」
「だって暇だし。そんな邪魔ならちゃんと玄関の鍵閉めとけよ」
「締め出してもどうせお母さんに入れてもらってんじゃん!」
「まあ、それもそうだな」
……こいつはなんでいつもこんな飄々としてるのか。こういうところが、小さい頃から本当に気に食わない。
まことは無心でぽりぽりとお菓子を食べている。わたしが一つ要求すると、当たり前のように断られ、これまたいらっとする。それ、わたしが買ってきたやつなんですが。
「で、今はなんの小説書いてんの?」
「なんであんたに言わなきゃいけないの」
ふいっとそっぽを向く。こいつに言う義理はない。
「……これ、恋愛もの?」
「ぎゃあああ!」
すぐそばで声がして、わたしの肩が跳ね上がった。いつの間に移動したんだ、こいつは。とっさにノートパソコンの画面を覆い隠すと、なぜかまことが口元を手で押さえながらこちらを意味ありげに見てきた。お前は女子か。
「やだあ、こゆきさん……。女子の出す叫び声じゃないよ、それ」
「う、うるさいな!ていうか、勝手に見ないでよ!」
睨みつけると、まことはへいへい、と適当な返事をしてベッドに腰を下ろした。
「……ねえ、キスってどんな感じなのかな」
パソコンに目を戻したわたしは誰に聞くともなく、つぶやいた。勝手に人の漫画をぱらぱらとめくっていたまことが顔を上げる。
「どしたの、急に」
「や、別に意味はないけど」
「小説で書こうと思っても、経験がないからなかなか書けない、とか?」
「そうそ……ち、違う!」
ほんとは図星だ。まこともそれが分かっていて言ってるらしく、「なるほどねえ」とひとり頷いている。本当にむかつくやつだ。
まことはふと、何かを思いついたようにわたしの顔を見つめてきた。
「なあ、こゆき」
「何」
「キスしてみる?」
「は?誰と?」
「俺と」
……幻聴か?いや、確かに聞こえた。空耳だったら良かったのに。こいつ、とうとう頭がおかしくなったか。まことの顔を見ても、何を考えてるのかはさっぱりわからない。ぽかんと口を開けているわたしに、まことは淡々と言った。
「小説、書きたいんだろ?」
「いや、まあそりゃそうだけど。それでなんであんたと……」
「たまたまそばにいたから?」
「はあ?」
なんだそれ。理由になってないじゃないか。でも、まことの顔はとてもふざけているようには見えない。少しだけ、どきどきしてきた。まさか。いや、でも本当かも。
ふいに立ち上がってベッドから下りたまことが、すっと手を伸ばしてきてわたしはびくっと震えた。伸ばされた手は、わたしのふたつに結んだ髪を弄ぶ。いつもと同じ気まぐれでやっていることだけど、今日はやけにどきどきする。……心臓に悪い。
「あのう、まことさん。ちょっとやめてくれませんかね」
「なんで?」
「なんでって、そりゃ」
「心臓に悪いから?」
お前はエスパーか!?驚いた顔をしたわたしに、まことは自分の顔を指し示した。
「全部顔に書いてある」
「まじっすか」
「まじ」
髪をいじっていた手がさりげなく頬に移動した。あ、これ、まずい。本能的に悟ったわたしはとっさに口元を手で覆った。
「なにそれ」
「鉄壁のガード」
「自分で言っちゃうか」
まことの手がわたしの両手首を掴んで、なんなく口元から引き剥がす。……ガードの防御力は1だったようです。
「え、ちょ、冗談ですよね、まことさん」
「俺が冗談ですると思う?」
「思う」
「即答かい」
これは非常にまずい。両手は掴まれている。完全に無防備状態である。いうなれば、まな板の上の魚だ。
まことが顔を近づけてきて、せめてもの抵抗に顔を背ける。ふ、と首筋に吐息を感じて肌が粟立った。
「こゆき、こっち見ろよ」
「無理!食われる!」
「なんじゃそりゃ」
顔が熱い。ていうか、全身熱い。なんでわたしがこんな目に合わなきゃならんのだ。目をつむって体を固くするわたしに、まことはささやく。
「こゆきさん……こっち見ないと胸触っちゃうよ」
は、と思わずまことの方に顔を向けてから、後悔する。やつはがしっとわたしの顔をはさんだ。やめろ、わたしの顔はサンドイッチじゃない。
「顔まっか」
お前のせいだ。なんて軽口を叩く余裕もなくて、わたしは目を固く閉じたまま、ただひたすらまな板に乗せられた魚はこんな気持ちでいるのか、というとてもくだらないことを考えていた。
「黙ってりゃかわいいのに」
やつが何かつぶやいたが、混乱の極みにいるわたしにはよく聞き取れなかった。まことの顔が近づいてくるのが気配で分かる。緊張で、呼吸が浅く、早くなる。
あれ。いつまで待っても、何も起こらない。顔を挟む手が離れたのが分かって、わたしはおそるおそる目を開けた。
「……ごめん。泣かせるつもりはなかった」
やつはばつが悪そうな顔で目をそらした。その言葉を聞いて、自分が泣いていることを知った。ぽた、と頬を伝ってカーペットに雫をひとつこぼした。わたしは泣き顔を見られたくなくてとっさに手近なクッションで顔を隠す。
「かえって」
なんだこれ。なんでわたしは泣いてんだ。空気が重い。気まずい。思わず口から飛び出た言葉は自分でも驚くぐらい冷たく聞こえた。
身じろぎする音がして、まことが帰っていくのが分かった。もう、当分ここには来ないだろう。もしかしたら、二度と来ないかもしれない。そう思うと、胸の中が鉛が入ってるみたいに重くなった。
***
しばらく経ってから、やつは来た。いつもどおり人のお菓子を勝手に食べ、人の邪魔をし、だらだらと漫画を読み、思い出したかのように話しかけてくる。ただ、一つ違うのはこちらに全く触れてこようとしないところだった。
いつもどおり過ぎて、逆に気味が悪い。わたしはパソコンに目をやりながら、この前のことをさりげなく聞こうとした。
「この前さ、なんでキスしようとしてきたの」
さりげなく、のつもりが、単刀直入に聞いてしまった。でも、わたしは言葉を慎重に選んでゆっくり話すのがひどく苦手だ。
言ったとたん、部屋の空気が重くなる。実は冗談だったんだぜ、とかなんとか言ってくれればいいのに。無言でまことの横に座ると、黙ったまま目をそらした。情けないやつめ。
「わたし、すっごい恥ずかしかったんだよ。き、キスなんてしたことないし。あんた、無理やりしようとしてくるし。でもさ」
そこで一旦言葉をきる。正直、頭の中の整理がまだついていない。だから、思ったままを話した。
「たぶん……まことじゃなかったら、もっと本気で嫌がってたと思う」
「それ、どういう意味」
「わ、わかんないよ」
食いつくように聞かれてたじろぐ。こんな反応は想像していなかった。まことがすっと手を伸ばして、いつものようにわたしの髪をいじった。悔しいが、なぜか少し安心してしまった。
「こうやって触られて、こゆきは嫌じゃないの?」
あんまり意識したことはなかったけど、本当に嫌だったらとっくの昔に手を振り払っている。もしかしたら、兄弟に触られている感覚に近いのかもしれないけど。
正直にそう伝えると、まことの目がなぜか細められた。
「兄弟、ね。兄弟みたいに思ってる相手に、あんな顔すんの?」
どんな顔だ。
「やっぱり、こゆきは何もわかってない」
「わ、わかってるし」
「……じゃあ、行動で示してみろよ」
わたしの頭の上に『?』マークが浮かぶ。行動ってなんだ、行動って。まことの言いたいことがさっぱりわからない。それとも、わたしの理解力が足りていないのか。
わたしの戸惑う様子を見て、まことはため息をつくと、髪から手を離した。そのとき――自分でも無意識というか、体が勝手に動いたというべきか。わたしは昨日まことにされたみたいに顔を思い切り両手で挟んでやった。
びっくりするまことを見て少しだけ胸がすっとする。
「何なの」
まことの口調はいつもどおりだったが、わずかに動揺を隠しきれてない。わたしは自分でも何をしようとしているかわからないまま、思い切ってまことの頬に唇を押し付けた。あ、意外と柔らかい。
手を離してそっとまことの様子を伺うと、まことは固まったままほんのり顔を赤く染めていた。……やめてくれ、こっちまで照れる。
「びっくりした?」
「した」
「……兄弟だったら、こんなことしないよね」
「確かに」
まことは照れているのか、そっけなく返す。わたしも今更ながら、自分でしたことの大胆さに恥ずかしさを覚える。
「……この前は、ほんとごめん」
「い、いいってことよ」
急にしおらしく謝ってくるまことに今度はこっちが動揺してしまった。
「えーと、その……さっきの答え、わたし聞いてないんだけど」
「俺にも分かんない」
「は?あんた、考えなしにあんなこといったの?」
だとしたらこいつはただの変態か。思わず身を引いたわたしの両肩を、まことがとっさにつかんだ。少し焦ったような顔を見て、変な気持ちになる。今日だけで、わたしが知らなかったまことの顔をたくさん見たような気がする。
「それは違う。まあ、ノリでいっちゃったとこもあるけど」
「ノリで言ったんかい!」
「でも、してみたら分かるかも」
意外と真剣なまことの顔を見てわたしは息を飲んだ。少なくとも、冗談で言ってることではないようだ。
「小説、書くんだろ?」
ああ。そういえばそうだった。ここ数日、あの時のできごとで頭がいっぱいになっていて、小説は全くと言っていいほど進んでいなかった。
これは小説を書くため、と言い訳するように心の中でつぶやく。
「い、言っておくけど、小説の参考にするだけ、だから」
「それは、オッケーってこと?」
「冗談でキスするか、ばか!」
きっとわたしの顔はまた真っ赤だろう。まことの顔が見てられない。馬鹿にされるかと思ったら、いきなり掴まれていた肩を押されて体がベッドに沈み込む。
目を丸くするわたしを、まことが覗き込んだ。
「さっきの話だけど」
「へ?」
「分かんないって言ったのは嘘な」
「う、嘘……?」
「ほんとは、こゆきとしたかっただけ」
小説を書くためっていうのを言い訳に使って。続けられた言葉に、わたしは何も返せなかった。まことはわたしの頬に指を滑らせ、からかうように言った。
「顔、またまっかだな」
「……うっさい」
「こゆき」
「な、なに」
「かわいい」
「――っ」
とつぜんの不意打ちに言葉を失った唇は、あっけなくやつの唇に飲み込まれた。
***
「こゆきさーん、出てきてよー」
わたしのくるまっている毛布を、まことがぐいぐい引っ張る。穴があったら入りたい気分だったが、そこには毛布しかなかったので仕方なくまるまっただけだ。
「がっつきすぎてごめん」
「わああああ!」
しょんぼりとした声で爆弾発言をしたまことに、たまらず毛布をはねのけた。見えたのは、申し訳なさそうな顔……ではなくにやりと笑うやつの顔。
「こゆき、もう一回しよ」
「……誰がするか!」
「だって、こゆきけっこう気持ちよさそ――」
「みなまで言うな!変態!」
でも、結局、男の力にかなうはずもなく。それは酸欠になるまでつづけられたのだった。