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白い刀圭  作者: だいふく
2/2

02


 イョンは男を家へ案内した。そのかわり、池を離れる前に、もう幾つかルゥを採ってもらった。

 男はジエンと名乗った。ジエンは長いこと旅をしてきたらしく、森の中の歩き方にも慣れていた。イョンが尋ねると、もう三年は旅を続けていると答えた。

ジエンは家に着くとすぐに、近くに生えていたヤックを何枚かちぎってきた。

 イョンはジエンを土間の中に入れた。ちょっと待ってて、と言って、イョンは部屋の中にあがった。

「ばあちゃん、旅の人が何日か泊めてほしいって」

 ヒンナ婆さんは、帰ってきて突然そんなことを言うイョンに驚いたようだった。

「別に構わないが、その旅の人はどこだい?」

 イョンがそれに答えようとすると、いつの間にか土間からあがっていたジエンが彼女の頭にぽんと手をのせて、かわりに口を開いた。

「医術師のジエンといいます。突然すみません」

 それを聞いて、ヒンナ婆さんの眉が動いた。

「医術師がどうしてまた、こんな森の中に?」

「この森で、いくらか薬の材料になるものを採ろうかと思いまして。ここに泊まらせていただければ、町からこの森へ足を運ぶ手間が省けますから」

 お金がないとは言っていたが、わざわざこんな場所にある家に泊まりたいとはどういうことかと思っていた。しかしなるほど、そういう理由だったのか、とイョンは勝手に納得した。それはヒンナ婆さんも同じだったようである。

「なら、何日でも泊まるといいよ」

「ありがとうございます。助かります」

 頭を下げるジエンに、ヒンナ婆さんは、ただし、と前置きをして、

「うちはこんな老婆と小娘だけで、贅沢はできなくてね。あんたにもその子の山菜採りを手伝ってもらいたい。それが、宿賃だ」

 ジエンは頷いた。

「もちろんです」

 ヒンナ婆さんはそれを聞くと、笑顔になった。

「ジエンといったか。さぁ、早くこっちへ来て温まりなさい。ほら、イョンも、サラウを持っておいで。スァルを淹れよう」

「うん」

 イョンはいま採ってきたばかりのサラウを籠から二つとって、囲炉裏の傍に寄った。ジエンもそれに続いた。


   ***


 それから二晩、ジエンはイョンの家で寝泊りした。ジエンは朝早く起きて、飯を作り、イョンとともに山菜と薬草を採りに出かける。そして、昼飯を食べれば、町へ出かけ、薬を売ってくる。晩飯をよばれてからは、朝に採った薬草を薬に調合する。そんな生活をしていた。

 今日も、イョンとジエンは町に薬草を売りに出かけていた。

 三日目ともなれば、会ったときに抱いていた警戒も完全に解けている。イョンはすっかりジエンに懐いていた。

「ジエンさん、お腹すいたから、何か食べて帰ろうよ」

 薬屋で取引を済ませたところのジエンに、イョンが言った。ジエンは無精髭の生えたあごをさすって、少し考えた。

「よし、今日は薬も高く売れたし、どっかの飯屋に寄るか。ヒンナ婆さんにも何か買って帰ってやるか」

「うん」

 それは、泊めてくれていることに対してはもちろん、わざわざ自分のために薬草を探してくれているイョンへの、労いのつもりであった。イョンの嬉しそうな顔を見て、ジエンは微笑ましくなった。娘のいる父親はこんな気持ちなのだろうなぁ、と思った。

「ジエンさん、私、おいしい飯屋知ってるから、そこに行こう」

「ああ、案内してくれ」

 ジエンはイョンに手を引かれ、角にある飯屋の暖簾をくぐった。中に入った途端、香辛料の刺激的な香りが匂ってきて、すいた腹に染み渡った。

 長机についた、大工か何からしい男が、金茶色に染まった飯を頬張っているのを見て、ジエンは思わず唾を飲み込んだ。

「ああ、こりゃあうまそうだな」

 そう呟くと、イョンは大きく頷いた。

「あの豚飯がおいしいんだよ」

 イョンがそう言うので、ジエンはそれを三つ頼んで、そのうちの一つを、ヒンナ婆さんのために包んでもらうことにした。椅子に座っていると、若い娘が器を運んできた。

 底の深い器には、甘辛く仕込んだタレをたっぷりと吸った飯が湯気を立ててよそわれており、その上に、こんがりと焼いた豚肉がのっていた。豚肉は、飯にかかっているものと同じタレに漬け込まれており、肉汁が溢れ出ている。

 豚肉を齧ると、強い香辛料の刺激と、その中に微かに甘みを感じた。しかも、その一口によって、飯を掻き込みたくなる。試しに少し口に入れてみると、これもまたうまかった。豚肉と飯を同時に頬張ると、もう手が止まらなくなる。

 気がついたら、器の中はすっかり空で、二人は食後に出された茶を啜っていた。

「いや、こんなにうまいとは思わなかった」

 そんなことをジエンが言っているときであった。イョンの表情が突然曇った。

「どうした」

 聞くと、イョンはジエンの背後を指差した。振り向くと、そこには子連れの男が座って、飯を食っていた。何も変哲のない親子の姿。だが、イョンはとんでもないことを言った。

「あの男の人、もうすぐ死ぬ」

 からかわれたのかと思ったが、ジエンには、イョンが冗談を言っているようには見えなかった。

「なぜ、そう思う?」

「あの人、身体中に、黒い靄が見える。あの靄が見えた生き物は、みんな死んじゃう」

 ジエンは、目の前の少女の言っていることが、にわかには信じられなかった。それだけ、衝撃的なことを、イョンは言い放ったのだ。しかしもちろん、そんな靄など、ジエンには見えない。見えない以上、ただ信じることは到底出来ない。

「その靄はいったい何なんだ?」

 端から否定することはしない。信じられない話ではあるが、イョンが嘘をついているとは思えないのだ。

イョンは、首を横に振った。

「私もよくわからない。でも、あれはよくない靄なの。あの人、病気だと思う」

 ジエンは、少女の目を見た。透き通った瞳は、真実を語っている者のものだった。イョンは、嘘を言ってはいない。ジエンは信じることにした。

(だとすると、イョンは病の影……いや、死の影が視えているということか)

 そんな馬鹿なことがあるわけがない。ジエンはそう思いたかった。もしそんな眼を持った者がいるのなら、医術を学べば万病を治す医術師になれる。いままで、腕のいい医術師はいくらでも聞いたことはあるが、病を視ることができる者など一人もいなかった。

 ジエンは、目の前の少女を見た。

 仮に、そんな眼をこの少女が持っていたとして、今までどれほどの死と相対してきたのか。道を歩くだけで、死が視えてしまう。たとえ視たくなくとも、それに抗うことはできないのだ。目の前で死を目撃したこともあるかもしれない――いや、自分の眼の異常さに気付いているのだ、間違いなくある。

 医術師として、ジエンは多くの死と相対してきたし、幾人も救ってきた。しかし、イョンはそれ以上の死を視て、そして救うことができずに今までを過ごしてきたのだ。

それがどれほど辛いことだったろう。きっと、ジエンには想像ずることもできない。

「ジエンさん」

 イョンの声で、ジエンはふと我に返った。イョンは心配そうにジエンを見つめていた。

「ジエンさん、そろそろ帰ろう」

「あ……ああ」

 振り向いて、先ほどの親子連れを見る。まだ、豚飯を食っているところであった。父親は時折、乾いた堰をしていた。


   ***


 ジエンとイョンが豚飯を持って帰ると、ヒンナ婆さんはとても喜んだ。冷めているのが残念だ、などと言いつつも、老人とは思えない食いっぷりで、ジエンは驚かされた。


 その晩、ジエンは他の二人が寝付いてから、家の外へ出た。もうすぐ冬がやってくる。夜は冷たい風が吹きつけてくる。

 空には雲は一つもなく、星の海の中に、月が浮かんでいた。

(死の影……か)

 ジエンは、自分がどうしてよいかわからずにいた。

 町からの帰り道に、傷のある木があった。イョンは、それにも、数日前から靄が見えると言っていた。その木をよく見てみると、確かにその傷を中心として妙な色合いに変わっていた。間違いなく病気だった。

 もちろん、イョンが言ったそれが出任せだったということも考えられる。しかし、ジエンはやはりそうは思えなかった。

「ジエンよ」

 後ろから声をかけられてジエンが振り向くと、ヒンナ婆さんが立っていた。

「起こしてしまいましたか。すみません」

 ヒンナ婆さんはそれに返事はせずに、ジエンの横に座った。

「イョンから、眼のことを聞いたね」

 いきなり核心をつかれ、ジエンは驚いた。

「どうして、それを?」

 ヒンナ婆さんははぁ、とため息をついた。

「態度を見ていたらわかるさ。伊達に長く生きてないよ」

 ジエンは何も言えず、黙ってヒンナ婆さんの顔を見た。

「あの子は辛いだろうさ。何人もの死を視てきた。視たくもないものを、ずっと視てきたんだ。あんたにその苦しみがわかるかい?」

 ジエンは首を横に振った。ヒンナ婆さんは頷いた。

「そうだろうさ。私だってわかりはしない」

「あなたは、あの子の眼のことをどう思っているのですか」

 虫の音が夜に響き渡る。ヒンナ婆さんは空を見上げた。

「死なんて、視えない方がいいんだよ。視えたところで、救うことができなければ辛いだけさ」

 吐き出すような言葉だ。ジエンはそう思った。ヒンナ婆さんも、このことでずっと悩んできたのだろう。しかしどうしてやることもできない。そんなもどかしさが、滲んでいた。

「それは、どうなんでしょうね」

「どういうことだい?」

 ヒンナ婆さんは怪訝そうな顔をした。

「私は、イョンから眼のことを聞いたとき、とても驚きました。同情もした。しかし、もし私にそんな眼があれば、どれだけ多くの人を救うことができただろう。そうも思いました。私には、医術があるから」

「それでも、救うことのできない命はあるだろう」

 ヒンナ婆さんの言葉に、ジエンは頷いた。それからヒンナ婆さんの目を見た。

「それでも、手段は尽くせます」

 医術とは、そういうものだ。救えないのは自分が未熟だったから。刀圭の大きさは決まっていて、すくえるものは限られている。いかにその匙が大きかろうと、それより大きなものはすくえない。だから、医術師は自身の刀圭を大きいものにしようと努力するのだ。

 ジエンも何度零したかわからない。すくいきれなかったものもたくさんある。それでも、医術は人を救えるのだ。

 ヒンナ婆さんは吐息を零した。

「そうかい」

「ええ、そうです」

 会話が終わって、ヒンナ婆さんは家の中へ戻っていった。それから少しの間、ジエンは虫の音を聞きながら夜空を見上げていた。

 もうすぐ冬がやってくる。風が冷たかった。

 ――イョンに、医術を教えよう。

 ジエンはそう考えていた。


   ***


 それからまた三晩が過ぎた。

 ジエンは、ヒンナ婆さんと話した次の日から、イョンに医術の知識を教え始めた。ほんの些細なことではあったが、山菜採りの間に見つけた薬草の知識を与え、町へ出かけたときには薬屋の品のことを教えてやる。医術師は、薬師でもある。まずはどういう症状にどういう薬が効くのかを理解しなくてはならない。

 イョンは物覚えがよく、この三日で、アジャクの森にあるであろうあらゆる薬草の知識を身につけていた。


 その日も、ジエンはイョンに薬草の知識を教えながら山菜採りをしていた。

 二人は、いつも探している場所とは少し違う場所に来ている。同じ場所ばかりで採っていては、日を重ねるごとに採れる量は減っていくし、次の年にもあまり採れなくなってしまう。

 ジエンは、葉の裏が赤みを帯びた草を見つけた。アジャクの森では初めて見る。すぐにイョンを呼んだ。イョンはその草を見て、目を光らせていた。

「イョン、これは、トァンといって、煮出した汁が熱によく効くんだ」

「こんなの、初めて見た」

「それもそうだ。この辺じゃ殆ど見ない薬草だからな。もっと南の方へ行けばたくさんある」

 イョンはへぇ、と言って、トァンを根から引っこ抜いた。それをジエンに見せて、

「そのままだと、薬にならないの?」

 ジエンは頭を振った。

「ああ。そのままだと薬の力が強すぎて、人の身体にはむしろ毒になる。そういう薬も、世の中にはある」

「ふぅん」

 イョンはどうも納得がいっていないようであった。じっとトァンの葉を眺めていたが、ジエンが行くぞ、と声を掛けるとすぐに籠に仕舞ってついてきた。


 十分に山菜や果実、薬草が採れたので、ジエンとイョンは家に戻ってきた。

「ただいま、ばあちゃん」

 イョンが籠を抱えて家の中に上がっていった。ジエンもそれに続こうとしたとき、イョンが突然籠を取り落とした。

「どうした、イョン」

 ヒンナ婆さんは座ったまま寝ていた。イョンは寝ているヒンナ婆さんを指差して、身体を震わせていた。ジエンがそれ以上何か言う前に、イョンが口を開いた。

「靄が……」

 死の靄。イョンにしか視えないそれが、ヒンナ婆さんの身体に浮き出ていると、イョンは言うのだ。言ってしまえばつまり、ヒンナ婆さんはこのままだと間もなく死ぬということになる。

「どこだ」

 ジエンは自分でも驚くほどに冷静だった。医術師として、動揺する以前にしなければならないことがある。

イョンは唇を震わせながら、小さな声を出した。

「う……で」

「腕か」

 右か左かはわからないが、これ以上イョンに酷な思いをさせたくはなかったジエンは、それ以上何も聞かなかった。

 すぐに寝ているヒンナ婆さんの傍に寄り、両方の袖を捲り上げた。

「ん……おや、どうしたんだい、ジエン」

 ジエンが腕を持ち上げたときに目覚めたらしく、ヒンナ婆さんは眠そうに言った。ジエンは穏やかに言う。

「ヒンナ婆さん。あなたは、病かもしれない」

 今までもそうして告げてきた。ヒンナ婆さんは何も言わず、イョンのほうを見た。それから申し訳なさそうに言うのだ。

「ああ、イョン。またおまえに辛い思いをさせてしまったね」

 イョンは何も言えない。ただ、膝から崩れ落ち、その場で涙を零した。ジエンは黙って、ヒンナ婆さんの両の腕をよく診た。そして、右腕の肘あたりが真っ赤に変色しているのを見つけた。

「赤皮病……!」

 ジエンは思わず声をあげた。

 その病は、ジエンの生まれるずっと昔から存在していた。この病に罹った者は、文字通り、肌が赤く変色し、それがどんどん全身に広がってゆく。そして十分に広がったところで高熱を出し、死に至る。未だにその原因はわからない。動物の肉を食えば罹るとも言われているし、ある種の草からうつるとも言われる。治療の術を見つけたものはおらず、治るか治らないかは五分と五分というところである。ジエンも幾度かこの病を診てきたが、その半分は命を落とした。

 ヒンナ婆さんは、正面に座るジエンの顔を見た。それから、その手をとった。

「赤皮病なら、助かるかはわからない。老いぼれの私のことはいいから、イョンのことを頼むよ」

「何を馬鹿な……!」

 目の前の命を捨てろ、そうヒンナ婆さんは言ったのだ。そんなことが、医術師であるジエンにできるはずもなかった。

「あなたは私が必ず助ける! だから、イョンのためにも生きるんだ!」

 ヒンナ婆さんの手を握り返し、ジエンは声を張り上げた。イョンの泣き声が聞こえる。

「必ず、助ける」

 搾り出したジエンの声に、ヒンナ婆さんは少し笑った。

「ああ、そうかい」


   ***


 それからは手早いものだった。ジエンはすぐに暖をとって部屋を暖かくし、湯も沸かした。イョンはずっと泣いていたが、今のジエンに構っている暇はなかった。

 ヒンナ婆さんの場合、普通の赤皮病の者とは大きくことなるところが一つあった。それは、病の判明した時期である。

 ふつう、赤皮病に罹った者は、それに気付くのに、もっと多くの時間を要する。それこそ、熱が出るまで気付かない者もいる。熱が出てしまった者が、助かることはない。ヒンナ婆さんの場合、それがわかったのが発症して数タンほどである。熱が出るまで、かなりの猶予がある。

 どうすればよいか、ジエンはひたすらに考えていた。

(どうすれば、ヒンナ婆さんを助けられる……)

 しかしいくら考えても答えは見つからない。赤皮病の正体がわからぬ以上、有効な手段など到底思いつくはずもない。

 ふと、ジエンはイョンの眼のことに思い至った。

(イョンの視える靄とは、一体何なんだ)

 死の靄。病の靄。そんなことはジエンもわかっている。しかしそういうことではないのだ。その靄は、病の何なのか。ジエンはそのことを考えた。

 ヒンナ婆さんはまた寝ている。ジエンはその傍に座っていた。ヒンナ婆さんの腕を見ると、赤い部分が少し広がっているように感じられる。

「なあ、イョン。ちょっと来てくれ」

 思いついたことがあって、ジエンはイョンを呼んだ。土間のところで泣いていたイョンが顔をあげた。

「なに」

「いいから、来てくれ」

 イョンは腫れた目をこすりながら、立ち上がり、鼻を啜りながらジエンの傍に座った。

「おまえが見た靄は、どこにあった」

「ここ」

 ふしぎそうな顔をして、イョンはそれに答えた。イョンが指差したのは、まさに肌が赤くなっているところだった。それは、ジエンの思ったとおりだった。

(やはり、そうか)

 イョンの視ているものは、ただの靄ではなく、病の気、とでも言うようなものだ。つまり、その靄は、病気に罹った箇所が発する、瘴気のようなもの。ジエンはそう考えた。

(瘴気が視えるということは、そのもとの部分も視えるということだ)

 もう、ジエンの頼みはそれくらいしかなかった。

「イョン。その靄より奥のところって、視ることはできないのか」

 イョンは首を振った。

「わからない。今まで、そんなにじっと視たことない」

「なら、今よく視てくれ」

 ジエンが言うと、イョンは頷いて、ヒンナ婆さんの腕に視線をやった。目を凝らして、じっと見つめていたが、ふっとイョンが目を閉じた。

「どうした」

 しかしイョンはそれにはすぐに答えなかった。少しの間をあけて、イョンは目を開いた。

「草……。そう、草の根みたいな」

「草?」

 言っている意味がわからず聞き返すと、イョンは大きく頷いた。

「そう、草。草の張った根みたいなのが、ばあちゃんの腕にある」

 それが、赤皮病の正体。イョンは、赤皮が人の身体に根を張っているというのだ。

「そうか」

 ジエンは、それで思い至った。赤皮病の正体に。

 それが確定的なものではない。しかし、ジエンはそれに賭けるしかなかった。


   ***


 ジエンの考えた治療法は、赤く変色した部分を切り落とすことだった。

「本当に、大丈夫なの?」

 イョンにそのことを伝えるととても不安そうにしていた。ジエンはわからない、と言うしかなかった。ジエンにも、そんな経験はないのである。

 ジエンは、赤皮病は黴のようなものが身体に入り込んで罹るものだと考えた。赤皮病の、広がってゆく性質は黴によく似ていたし、なによりイョンの言った言葉が決め手だった。黴も根を張るのである。ならば、そこをなくしてしまえさえすれば、赤皮病は広がらない。

 今まで、誰も罹った部分を切り落とそうなどと考えた者はいなかった。治療で人の身体を切り落とすなど、むしろ真逆の行為だからだ。しかしジエンはそれを今から試すのである。

「ヒンナ婆さん。今から切ります」

 ヒンナ婆さんは小さく頷いた。怖いのだろう。ジエンは小刀を火で炙っていた。それで身を切ることで傷口を焼き、必要以上に血が出ないようにするのである。

 イョンは目を瞑っていた。

 火から小刀を取り出し、その切っ先をヒンナ婆さんの右腕に当てた。

「――ッ!」

 熱いのだ。叫び、暴れまわりたくなるのを、ヒンナ婆さんは必死に耐えていた。その様子を見ながら、ジエンはさらに刃を入れていく。ゆっくり、確実に赤い部分が取り除かれるように。

 ほんの短い間が、とてつもなく長く感じられた。ジエンは呼吸すら忘れて、ただ傷口を見つめていた。


 ジエンは、小刀を床に置いて、大きく息を吐いた。

「終わった」

 その言葉を聞いて、イョンが目を開いた。

「ほんと!?」

「ああ、なんとか。ヒンナ婆さんも、耐えてくれてありがとう」

 ヒンナ婆さんは弱々しく頷いた。今はもう喋ることも辛いのだ。

 ジエンは、焼けて抉れたヒンナ婆さんの右肘のところに、トゥリ(火傷に効く葉)を何枚か重ねて、その上から布で縛った。

「抉れたままでしょうが、しばらくこれで様子を見ましょう」

 ヒンナ婆さんは小さく頷いた。





   ***


 それから数日が経った。ヒンナ婆さんの身体に、再び靄が視えることはなかった。

 ジエンの見立ては正しかったのだ。赤皮病は、赤くなった肉を削ぐことで、根本を絶つことになるため、治すことができる。ジエンの医術は、ヒンナ婆さんを救ったのだ。


 もうすっかりヒンナ婆さんは元気になり、うまそうなスシュトを作っている。

 三人で囲炉裏を取り囲んでいるなか、ジエンは口を開いた。

「明日にでも、ここを発とうと思います」

 イョンは目を見開いた。

「どうして」

 ジエンは甘辛い肉を咀嚼し終えてから返した。

「もうここに十日は泊まっている。これ以上は迷惑だろう」

 ヒンナ婆さんも、それを聞いて頷いた。イョンは信じられないというようにヒンナ婆さんの顔を見た。

「なんで、ばあちゃん」

 その抗議に、ヒンナ婆さんはなんでもないことのように答える。

「もともとの約束が数日だ。命を助けてもらったとはいえ、約束は守ってもらわないと」

「でも……」

 イョンが何か言おうとしたが、ヒンナ婆さんはそれを遮って言葉を続けた。

「ただし、イョンも連れていっておくれ」

 それには、イョンだけでなくジエンも驚いた。まさかそんなことを言われるとは思ってもみなかった。

「なぜですか」

 ヒンナ婆さんは、微笑んだ。

「この子の眼のことは、私よりもあんたのほうがよくしてくれるだろう。私はこの子の眼と、あんたの医術に助けられた」

 だから、とヒンナ婆さんは言った。食事中にも関わらず、両手を床につき、頭を下げて、

「この子を、素晴らしい医術師にしてやってはくれないか」

 ジエンは言葉に詰まった。あの夜のことを思い出したのだ。あのように言っていたヒンナ婆さんが、今、自分に対して頭を下げている。

イョンは何を、と言わんばかりの顔をしている。

「私がいなくなったら、ばあちゃんはどうするの!」

「なあに、若い頃に町の者に恩を売っている。いくらでもたすけてくれるさ」

 ヒンナ婆さんは笑って言った。しかしイョンがそんなことで納得するはずがない。

「でも……ばあちゃんが心配だよ」

 イョンの心は揺れているのだ。医術を学びたいという気持ちもあるが、自分をここまで育ててくれたヒンナ婆さんを独りにはできない。その二つがイョンの中でぶつかりあっていた。

 しかし、ヒンナ婆さんはイョンのその葛藤を見抜いていた。

「イョン。おまえのその眼は、たくさんの人を救える。目の前の人を助けられる術を学びなさい」

 穏やかに、しっかりと娘の目を見つめて言った。

「ばあちゃん……」

 イョンは呟き、そして息を飲み込んだ。

「わかった」

 それを聞いて、ヒンナ婆さんは改めてジエンの方を向いた。

「イョンをよろしく頼んだよ」

強く、母親のような口調でそう言った。その言葉に、ジエンは大きく頷いた。

「イョンは必ず、誰よりも優れた医術師にしてみせます」

 ヒンナ婆さんは、嬉しそうに笑った。

 それから三人は、たくさん食べた。


 その次の日の朝、イョンとジエンは旅立った。









   ***


 二人の医術師が旅をしていた。

 一人はもう四十になろうかという男。無精髭の生えた顔には皺が目立ち始めていた。

 もう一人は若い女。その眼は、他の者には見えないものを視ることができた。

 師弟関係にあるこの二人はどちらも、いずれ、当代きっての名医術師と呼ばれることになる。

 二人はまだ、旅をする。


 その刀圭で、すくえぬものがなくなるまで。

 徹夜で書いた、締切への最後の抵抗。

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