01
アジャクの森への道を、イョンは背中に籠を背負って歩いていた。町へ買出しに行った帰りだった。
彼女の家は、町から一タン(およそ二時間)ほど歩いたアジャクの森の中の開けた場所にある。往復するだけで二タンというのは、まだ十三の少女が一人で行くには些か長い道のりである。しかし、森の中の茅葺の小さな小屋には、彼女のほかにはヒンナという名の齢八十になろうという老婆一人が住んでいるのみで、いかにその老婆が元気だとしても、町へ行くのは身体への負担が大きい。だからイョンが行くのである。
イョンにとって、アジャクの森は自分の庭のようなものである.
人の通ることが滅多になく、道という道もないこの森であるが、しかしイョンからしてみれば木立の一つ一つが道標となる。
右に曲がれば家の方へ向かう木の傍についた。枝を大きく広げた、腰くらいの高さに傷のある木だ。イョンはその木に対して違和感を覚えた。
(おや、この木、もうすぐ寿命らしい)
町へ行くときにはおかしなところはなかった。無論、今も異常はない。ところがイョンの眼で見れば、その木はいつもとは違って見えたのである。
(病にでも罹ったかな。若い木なのに可哀想に)
そう思ったところで、イョンには何も出来はしないし、するつもりもない。森のことは自然の摂理に任せるものだと、同居のヒンナ婆さんから教わっている。
ただ、イョンにとって唯一困ることといえば、いままで目印にしていた木をもうじき変えなくてはならないということであった。
***
太陽が傾き、少し肌寒くなってきた。
「ただいま、ばあちゃん」
小屋の中に声を掛けて、重い籠を足元へ下ろす。なにせ数日分の食料だ。イョンの肩がふっと軽くなった。
「おお、お帰り、イョン。さあ、早くあがって、スァル(ヴェガの樹液を湯に溶かし、そこに酸味のある果汁を絞ったもの)でも飲みなさい」
「うん」
奥から顔を覗かせたのが、ヒンナ婆さんである。声は歳相応にしわがれているが、腰はしゃんとしているし、皺が特別多いというわけでもない。
ヒンナ婆さんは囲炉裏で湯を沸かしてくれていた。囲炉裏の傍にはヴェガの蜜の入った小瓶もあった。
イョンは棚から湯呑を二つ取り出し、その中にヴェガの蜜を少し垂らした。この琥珀色をした樹液は、蜂蜜のように甘い。そこに、薬缶から湯を注ぐのである。ヴェガの樹液は水には溶けにくいが、熱い湯にはすぐ溶ける。注ぎ終わった時にはすっかり溶けきってしまっていた。
それから、イョンは土間に置きっぱなしの籠の中からサラウ(すもものような果実)を一つ持ってきた。彼女はそれを小刀で半分に切り、湯呑の中に搾った。果汁が種ごと垂れ、サラウの酸っぱい香りがした。
「はい、ばあちゃん」
「ありがとうよ」
差し出された湯呑を受け取り、ヒンナ婆さんはスァルを少し口に含んだ。イョンも熱いうちに、スァルを飲んだ。
ああ、うまい。冷えた指先まで、身体の底から温められているようだ。サラウの酸味の中に、ほんのりとヴェガの糖蜜が香る。この風味が堪らないのである。
「ばあちゃん、晩飯は何にする?」
スァルを啜りながら聞くと、ヒンナ婆さんはうーんと顎をさすってから、
「そうだねぇ、確か前にカミェさんから貰った鹿の干し肉が余っていただろう。あれと、あんたが買ってきてくれた野菜でスシュト(肉と野菜を、ヴェガの蜜と香辛料で甘辛く煮込んだもの)でも作るかい?」
それを聞いて、イョンは嬉しそうに頷いた。
スシュトは、イョンの好物だった。
***
ヴェガの樹液と湯をたっぷりと入れ、火にかけた鍋の中に、干した鹿肉と、さっき買ってきたばかりの野菜、それから酒や塩、ヤシャクという香辛料を入れて半タン煮込む。好みでヴェガの量を増やしたり、サラウなどの果実を入れて味を調節するが、ヒンナ婆さんがいつも作るのは甘めに煮たものだ。
ただ、普通と少し違うのはヤシャクの葉を数枚加えることである。本来、ヤシャクは実を乾燥させてすりつぶしたものが、使われるが、ヒンナ婆さんは葉も使う。これを加えることで、スシュトに独特の風味が加わり、味が締まるのである。
部屋中に良い香りが充満してきた。イョンは自分の腹の虫が唸るのを聞いた。
「ばあちゃん、もう食べていい?」
待ちきれずにイョンが聞くと、ヒンナ婆さんは首を横に振った。
「もう少し、味が染みるのを待ちなさい」
スシュトは、具材に味が染みないうちに食べると、あまりおいしくない。だからスシュトは一晩寝かせたものが特に美味なのである。
「今のうちに、櫃の中からファム(小麦にヴェガの蜜をこねて焼いたパンのようなもの)をとっておいで」
イョンはうん、と頷いて立ち上がった。スシュトにはファムがよく合うのである。
土間に置いてある櫃からファムを三枚ほど取り、すぐに囲炉裏の傍に戻った。イョンは、スシュトが出来上がるのが待ちきれないのだ。
ヒンナ婆さんは、鍋の底を大きな匙でかき混ぜた。
「少し早いけど、もう食べるかい?」
イョンは大きく頷いた。直ぐに立ち上がり、棚から器を三つと匙を二つ取ってきた。そして、器の一つにファムを入れ、残りの二つをヒンナ婆さんに渡した。
ヒンナ婆さんは受け取った椀に、匙ですくったスシュトをよそった。木の器の中から甘い湯気が立ち、イョンの鼻腔をくすぐる。微かだが鼻にくる辛さに、思わず唾を飲み込んだ。
ほら、とヒンナ婆さんがスシュトの器をイョンに寄越した。イョンはそれを丁寧に受け取り、ファムを一枚手に取り、そこに浸した。ファムのかりっと焼かれた生地をスシュトに浸して口に含むと、なんとも言えぬ幸せな気分になるのである。
「いただきます」
イョンは十分に汁を吸ったファムを口に運んだ。口の中に甘さが広がった。ヤシャクのピリッと舌にくる感じもよい。鹿の肉もまた美味い。獣臭さが、甘辛く煮たこととヤシャクの香りですっかりなくなっている。やはり、ヒンナ婆さんの作るスシュトは最高だ、とイョンは心の中で唸った。
しばらく二人は黙々と飯を食べていたが、半分ほど食べたところで、イョンが口を開いた。
「そういえば、町からの帰りに、木が病に罹ってたよ。あの、傷のある木」
ヒンナ婆さんは驚く様子もなく、へぇ、と言った。
「また、視えたのかい?」
「うん」
イョンは小さく頷いた。それからファムを少し齧った。
「町に行くときはなんともなかったんだけど、帰りに、傷の回りに靄が視えたの」
その靄は、イョンにしか視えないものである。ヒンナ婆さんや、町の人々の目には決して映ることはない。
「イョン」
ヒンナ婆さんは少し悲しそうな顔をしていた。
「どうしたの?」
何故ヒンナ婆さんがそんな顔をするのかわからず、イョンはそう尋ねた。ヒンナ婆さんは何も答えず、イョンを抱き寄せた。きつく、きつく抱き締めた。イョンは、痩せて皺だらけになった両手から、母の温もりを感じた。
***
ヒンナ婆さんはもともと腕の立つ産婆だったという。随分前に引退したとかで、イョンは直接その仕事を見たことはない。しかし、今でもときどき近くの村や町で難産があると、呼ばれていくことがある。そのときは、イョンは留守番だった。今、二人が特になにもせずに暮らせているのは、その頃の蓄えがあるからなのである。
とはいえ、それでも収入がないというのは些か不安もある。イョンは時折、アジャクの森でとれた山菜や果実を町へ売りに行っている。
イョンは、その収穫のために森の中を徘徊しているところであった。
今年は寒さが訪れるのが早く、果実が熟すのが早いため、今が丁度盛りである。かわりに、山菜はあまり採れないのだが。
(サラウは結構採れたな。あと、ルゥの実(甘い、林檎のような果実)ももう少し採れたらいいのだけど)
しかしルゥはこの森にはあまり生えておらず、まだ動物に食べられたり、既にもがれたりしていないものを探すのはなかなかに大変なのである。今日も、三本を見つけて、うちの二本は既に実が地面に落ちていたり、猿なんかに食べられてしまっていた。
(確か、池の近くに一本生えてた。そっちの方に行ってみよう)
池といっても、そこまで大層なものではなく、大きな水溜り程度のもので、鹿などの水飲み場になっている。普段、イョンはあまりそこに行くことはない。動物たちの憩いの場を荒らすことはあまりしたくないからだ。
横から生えた枝を手で払いながら、獣道を進んでゆくと、少し開けた場所に出た。イョンの目の前には、小魚が群れをなして泳いでいる水溜りがあった。辺りをきょろきょろと見回すと、池の向こうに一本、周りよりも高い位置で枝を広げている木があった。ルゥである。
枝の先には幾つか赤いものもぶら下がっている。
(よかった、あった)
近づいて見てみると、イョンでは手の届かないところにどの実もなっていた。もともと、下の方の手の届くものだけ採れればいいと思っていたイョンだったが、一つも採れないのは困る。
仕方なく、背に負った籠を地面に置き、ルゥの隣の比較的足の掛け易い木を掴んだ。ぐっと握った手に力を込め、身体を引き上げる。木の幹を足で蹴って、なんとか登っていく。
ようやく、赤い果実の一つに手を伸ばせるところまできた。足を枝に絡ませ、左手をぐっとルゥの実に伸ばす。前に倒した体を支えるのは右手だ。
(やった、採れる)
何事かを為すとき、それを終える直前に気を抜くのは命取りである。イョンはまさに、果実を掴む寸前、すっかり採れた気になっていた。
「――ッ!」
不意に、イョンの視界が逆さまになった。枝を押さえ、身体を支えていた右手を踏み外したのだ。
この高さだ。頭から落ちれば死んでしまうということもあり得る。
(駄目だ……!)
イョンは思わず目を瞑った。その一瞬で、死をも覚悟したのだ。
身体に強い衝撃を受けた。しかしそれは、どうやら地面にぶつかったためのものではないらしかった。むしろ、抱きとめられたような、そんな感触を受けた。
恐る恐る瞼を上げると、そこには無精髭を生やした男の顔があった。
「大丈夫か?」
何者かわからない男に抱かかえられている。その状況が、イョンの頭を混乱させた。手足をじたばたさせると、男は、ああすまないと言ってイョンの身体を地面に下ろしてくれた。
「……あの、ありがとうございました」
イョンは頭を下げて、礼を言った。相手が何者かわからずとも、救ってもらったことには違いないのだ。いいさ、別に、と男は手を振った。
男は背が高かった。三ロン(一ロンはおよそ六十センチ)ちかくあるだろう。しかし特別体格がよいというわけではない。若い男が少し身体を鍛えた、それくらいの感じがした。無精髭を生やしてはいるが、精悍な顔つきである。旅装束を着ている以上、旅人なのだろう。足元には大きな包みが置いてあった。
「しかしどうして、あんなところに登ってたんだ」
男の問いに、イョンはルゥの果実を指差すことで答えた。
「なるほど、あの実を採りたかったのか」
それから男は、ルゥの実の一つに手を伸ばした。イョンでは届かなかったそれに、男の手は簡単に届いて、枝からもいだ。そしてそれをイョンに手渡した。
「ほら」
イョンはそれを黙って受け取った。
「なんだ、俺のことを警戒しているのか。なに、そんな心配はいらん。俺はただの医術師だ」
と言われても、医術師がこんな森の中をうろうろしているわけがない。町にも医術師はいるが、イョンが会ったことがあるのはこんな男ではなかった。
「っ……」
思案を巡らせていたイョンの右腿に痛みが走った。その痛みのもとに目をやると、大きな擦り傷ができていた。さっき枝から落ちたときに擦り剥いたらしかった。
男もどうやらそれに気付いたようで、
「なんだ、怪我をしているのか。どれ、ちょっと待ってろ」
そう言って、足元に置いてある包みを開いた。その中から栓をした竹筒と布を取り出した。
「さあ、脚を出しな」
イョンが黙って脚を差し出すと、男は竹筒の栓を抜き、中の液体を傷口に垂らした。血が綺麗に洗い流されると、すぐに布を傷口に当てて縛った。その一連の動作はこなれたものだった。
「とりあえずはこれでいいが……。この辺にヤック(傷に効く草)はあるか?」
ヤックは、イョンも普段から使う薬草だ。この辺りにしか生えていない草で、分厚い葉を傷口に当てることで傷の治りが早くなる。
「家の近くに生えてます」
そう言うと、男は頷いた。
「なら、家に帰ってそれを傷口に当てておくといい。数日は取り替えることだな。あと、傷口を洗うときは一度沸かした水にしなさい」
イョンは、はい、と大人しく頷いた。この男が嘘をついているようには見えなかったし、なにより、傷の処置の仕方がまさに医術師のものであった。
男は包みから出したものを戻すと、すっくと立ち上がった。
「さてと、これで俺のことは信用してくれたか?」
イョンとしては頷くしかなかった。ここまで助けてもらっていて、信用できないと言うのは流石に失礼である。もし人攫いなんかだったとして、わざわざ傷の治療をしてくれるはずもない。
「じゃあ、ここからは情けない話なんだが」
そんな前置きを男がしたので、イョンは首を傾げた。
「向こうの町の宿に泊まる金がない。何日か、嬢ちゃんの家に泊めてくれんか」
本当に、旅人にしては情けない話であった。
***
イョンは男を家へ案内した。そのかわり、池を離れる前に、もう幾つかルゥを採ってもらった。
男はジエンと名乗った。ジエンは長いこと旅をしてきたらしく、森の中の歩き方にも慣れていた。イョンが尋ねると、もう三年は旅を続けていると答えた。
ジエンは家に着くとすぐに、近くに生えていたヤックを何枚かちぎってきた。
イョンはジエンを土間の中に入れた。ちょっと待ってて、と言って、イョンは部屋の中にあがった。
「ばあちゃん、旅の人が何日か泊めてほしいって」
ヒンナ婆さんは、帰ってきて突然そんなことを言うイョンに驚いたようだった。
「別に構わないが、その旅の人はどこだい?」
イョンがそれに答えようとすると、いつの間にか土間からあがっていたジエンが彼女の頭にぽんと手をのせて、かわりに口を開いた。
「医術師のジエンといいます。突然すみません」
それを聞いて、ヒンナ婆さんの眉が動いた。
「医術師がどうしてまた、こんな森の中に?」
「この森で、いくらか薬の材料になるものを採ろうかと思いまして。ここに泊まらせていただければ、町からこの森へ足を運ぶ手間が省けますから」
お金がないとは言っていたが、わざわざこんな場所にある家に泊まりたいとはどういうことかと思っていた。しかしなるほど、そういう理由だったのか、とイョンは勝手に納得した。それはヒンナ婆さんも同じだったようである。
「なら、何日でも泊まるといいよ」
「ありがとうございます。助かります」
頭を下げるジエンに、ヒンナ婆さんは、ただし、と前置きをして、
「うちはこんな老婆と小娘だけで、贅沢はできなくてね。あんたにもその子の山菜採りを手伝ってもらいたい。それが、宿賃だ」
ジエンは頷いた。
「もちろんです」
ヒンナ婆さんはそれを聞くと、笑顔になった。
「ジエンといったか。さぁ、早くこっちへ来て温まりなさい。ほら、イョンも、サラウを持っておいで。スァルを淹れよう」
「うん」
イョンはいま採ってきたばかりのサラウを籠から二つとって、囲炉裏の傍に寄った。ジエンもそれに続いた。