序章
この作品はとある事件を参考に書いておりますが、ほとんどが作者の想像です。
実在の人物とは関係ありません。
後味の悪い物が苦手な方はすぐにご退出ください。
「うわ〜。このヤドカリ超きれぃ〜」
リカちゃんは手の平に真っ白な殻を宿ったヤドカリを乗せてはしゃいでいる。
少し肌寒い秋の日、天気も曇りだった。
海に来るには相応しくなかったのかもしれない。とはいうものの、彼女となら何処へ行っても楽しいと分かっていた。黄色いワンピースに身を包む彼女はこのモノクロの海岸の中で、唯一色を持つ存在として輝きを放っている。その笑顔は悩みなどとは一切無縁なように、見るもの全てを幸せな気持ちにさせる。
「大丈夫、大丈夫!次があるって!」
オフィスでもいつも明るく元気な声で僕を励ましてくれるリカちゃん。僕は何度彼女の笑顔に救われたか分からない。
彼女と一緒なら、きっと明るい未来を歩めるに違いない。僕と彼女と、可愛い娘。絵に描いたような幸せな家庭を想像した。
今日は思い切って誘って本当に良かった。
「ヤドカリってさぁ、気に入った宿があると、他のヤドカリを追い出してでも手に入れるんだって」
僕はそんな彼女に少し意地悪したくなって怖い話を始めた。
「漢字では『宿借り』って書くんだよ。追い出されたヤドカリは裸で追い出されて、次の宿を当ても無く探すんだって、怖いよねぇ」
ネットで仕入れた知識だから真偽は分からない。でも、みんなが知らない彼女の怖がる顔が見てみたい。そんなちょっとした悪戯心だったのだ。
しかし、僕の予想した反応は得られなかった。それどころか、彼女の様子が少しおかしい。顔を伏せたまま動かない。
「ふーん。怖い?それが怖いんだ。でもね……」
少しの沈黙の後、彼女が答えた。いつもの明るい彼女とは違う、静かな、低い声だった。表情は長い髪に隠れてよく見えない。
「だって仕方ないじゃない。生きるためなんだよ。弱い者は追い出され、強い者が生き残る。ただそれだけのこと……。それにね……」
彼女がこちらを向いた。その瞳は、曇天の空を映した海の色よりも暗く、濁っており、いつの間にかその存在までが、周囲のモノクロの風景に溶け込みつつあった。
僕は彼女から目を離すことができず、ゴクリと唾を呑み込んだ。
僕は彼女の明るさの奥に潜む深い闇の扉を開いてしまったのかもしれない。
生暖かい風が僕たちの間を吹き抜けた。
彼女は黒く濁った目で僕をじっと見つめて言った。
「人間の方がもっと残酷なんだよ……」