52.憎悪の種
クレイスに取り憑いた、という言葉がしっくりくるその黒い霞を睨み付ける。
『私達』はその霧状の物の正体を知っている。
知っているからこそ、信じられない。信じたくない。
最早その術を使う者はこの世に存在しないはずなのだ。
私達がその命を賭し、奴を葬り去った際にこの世界から失われた。
「何故だ! 何故その術がこの世に残っている!?」
クレイス、いやクレイスに取り憑いた黒い闇は何も答えない。
返答代わりだと言わんばかりに空から無数の黒い魔力の槍が降り注ぐ。
飛び退き、身を翻し、その全ての攻撃を回避する。
幸いその切っ先の雨を一度たりとも受ける事無くそのまま着地し、態勢を立て直す。
魔法攻撃の殺傷能力はかなり高いようだが、当たらなければどうという事は無い。
……この破壊力は、クレイスの抱えた心の闇の深さが原因だろう。
魔法槍の衝撃で、まるで小さな隕石でも降って来たかのようなクレーター跡となった地形を見てそう痛感する。
――あの靄の正体は、人の感情である。
感情というのは人の目で見る事は出来ないが、それが可視化されているのはクレイスに施された術の影響による物である。
私達はかつてそれを便宜上、『憎悪の種』と呼んだ。
あの術は外部からはまず見分けが付かず、人知れずに心の奥底に巣食う。
そして人の持つ強い負の感情……怒り、憎しみ、恨み、悲しみ……に反応し開花する。
本人にも気付けないレベルでゆっくりと、種に水を与えるかのように徐々に徐々にその感情を増幅させる。
やがてその負の感情に囚われ、その感情を周囲に撒き散らし、その感情のみを生きる糧として行動し続けるのだ。
「……これでは勝負にならんな」
己が手に握られた、既にその命を使い果たした剣に一瞬だけ目を落とし、その剣を地面へ転がす。
乾いた音を立て、持ち主を失った剣は地へと転がった。
クレイス、いや。アレをクレイスと呼ぶのはやめよう。
クレイスに取り憑いた憎悪の種は、彼の胸中を表すようにクレイスの全身に深く纏わり付き、
再びこちら目掛け、魔力で練り上げた黒い槍を飛来させる。
詠唱も魔法陣も使用してはいない、故にこの魔法は無詠唱呪文である。
魔法陣や詠唱による補助を行っていないにも関わらず、その威力は大地に爪痕を残す程である。
彼の心に巣食う強大な負の感情を糧にして膨大な魔力を生み出し、
その魔力に物を言わせて威力を底上げしているのであろう。
感情を燃料にして魔法を使用していたら、感情が消え失せてあっと言う間に廃人になってしまう。
勿論、以後感情を利用して魔力の供給は不可能になるが、クレイスにはその様子がまるで見られない。
……これは、重症だな。
憎悪の種は他から一切の邪魔が入らなかったせいで、クレイスの負の感情を育て放題だったという訳か。
彼の心の奥底に溢れかえった負の感情の深さは、私達に到底測れる物ではない。
憎悪の種を消し去る術は、『私達』ですら知り得ない。
だが憎悪の種を無力化する術はある。
――それは、魔力の供給源を経つ事。
それも比較的簡単な方法がある。
種が寄生した者の負の感情を糧に暴れ回るのであれば、
その感情そのものを始末してしまえば良いのだ。
と言っても感情を消す、なんて事は出来ない。ではどうするか?
――種を宿した者が死んでまえば、それ以上暴れる事は無い。
当然だ、死人に感情などありはしない。
宿主が死ねば、栄養源を絶たれた寄生虫もまた死なざるを得ないのだ。
幸い、クレイスは既に先程の攻撃で瀕死だ。
いかに憎悪の種の攻撃が激しくとも、何処かに隙は必ず生じる。
その間隙でクレイスに一撃を入れれば、息も絶え絶えな状態ではクレイスの身体は耐えられないだろう。
「深遠よ、我が敵を貫け――」
再び呪文が唱えられ始める。
先程と同じ呪文だ、再びあの闇の濁流がこちらに牙を剥く。
向けられた殺意を前に、私は決断する。
「クレイス、その闇から貴様を引き摺り出してやる。だから死ぬなよ――!」
殺すだと? ふざけるな!
『私達』がどう思うかなど知らん。
種に取り憑かれた者はいわば被害者だ、その被害者を消して解決するだと?
私は、そんな事の為に戦ってきたのではない!
「――ブラッディランス!」
詠唱が終わる。
クレイスの折れた刀身から、再び黒の濁流が押し寄せる。
彼が抱えた心の闇。憎悪、憤怒、悲哀。
ありとあらゆる負の感情が溶け込んだその一撃が、明確な殺意、殺す一撃として放たれた。
直撃すればそれこそ魔王や勇者と呼ばれる存在ですら怪しいかもしれない。
だが、私は逃げない。
憎悪の種は一つ残らず殲滅する、これはこの世界にあってはならない物だ。
防御の為に魔法障壁を展開すべく、その闇の波動に向けて手をかざす。
その時、空から飛来する朱色の一閃。
まるで私を庇うかのように目の前に飛び込み、地面へと突き立てられる。
襲い来る闇を容易く切り裂き、その魔力の波濤はそこを境に二つに両断される。
破魔の槍、ガジャルグ。
あらゆる魔を打ち払うと言われる伝説の武具である。
闇の奔流が止み、空から土埃を巻き上げながら一人の竜人が降り立つ。
「お邪魔虫は置いてきたぜー、助けはいらなかったりするか?」
「いや、助力は有り難いな。魔力の無駄遣いは避けたい所だ」
「ちびっこには色々聞きてぇけど、先ずは目の前のコイツをぶっ倒すのが先だな」
「相手が相手だ、しっぽ巻いて逃げ出すかと思ってたのだがな」
「ハッ、冗談! このあたいが強い奴目の前にして大人しくしてる訳ねぇだろ」
マントの下からチラリと見えるドラグノフのしっぽに視線を向けながら言ってみたが、一笑に付されてしまう。
朱槍を地面から引き抜き、種目掛け槍を構え、戦闘態勢を取る。彼女の闘志は十分なようだ。
「クレイス、貴様に根ざしたその負の感情。この私の手で毟り取ってやる!」
――憎悪の種との戦いが、始まる。




