架空職業・監視屋ときお『顔がコワれた話』
超巨大国際都市、東京。通称帝都。
ここには『仕事屋』と呼ばれる者たちが人知れず潜んでいる。
『監視屋』『護り屋』『奪い屋』『運び屋』『修復屋』…。
あるものは異能で、
あるものは知恵で、
あるものは技術を使い、
彼らは帝都に蔓延る悪意と戦う。
渦巻く光と闇の中、『仕事屋』は確かに存在している───。
診断メーカー『仕事屋さんになったー』から触発され、Twitter上で投下したストーリーを、編集、加筆したのものです。
Twitter上では『#架空職業』のタグ付きで投下しています。
【診断結果】
TOKYOは監視屋です。性別は男、桃色の髪で、変態的な性格です。武器は不明。よく一緒に仕事をしているのは掃除屋で、仲が悪いのは奪い屋です。
http://t.co/T57mAsrH
監視屋ときお
張り付いたような笑顔が特徴的な、長身の監視屋。髪はピンク。謎が多く、不気味な噂が絶えない。そら豆に手足と一つ目がついたような不思議な生物『メマメ』を使役する。壊れた玩具のような、ほのかな狂気を身にまとっている。
護り屋ヒロマル
扇に呪詛を書き法術を行使する霊言扇舞法・木船田流の正統後継者。和装で長髪の20代後半。ぶっきらぼうだが情に厚い。ときおの事を気にかけており、口では毒を吐きつつも何かと世話を焼く。
アズサ
ヒロマルの実妹。法術よりもコストと威力が明確な銃器での戦闘を好む、ヒロマルのサポート役。情報収集やアイテム面でヒロマルを支える。カエルグッズ収集家で、あらゆるものがカエルモチーフ。
運び屋眼鏡
黒縁眼鏡にカジュアルスーツの運び屋。悪魔のペン『フラウロス』を使役する。髪の毛で左目を隠しており、その秘密を双子の妹メイと共有している。ヒロマルと仲がいい。
その日は別に、予感めいたものがあったわけじゃない。
いつものような日の、いつものような午後。
ただそこに何かがあったとしたら、それはこう呼ばれるものかもしれない。
──縁、と。
その日ヒロマルはいつものように仕事を終えて、行きつけの酒屋に向かう途中だった。
少々長引いたその仕事のせいで、しばらく店に顔を出していなかったからだ。
いつものように酒を頼み、いつものツマミで、いつものように過ごすはずだった。
ただ一つ違っていたのは、いつもは通らない道を選んだことだ。
別に理由があったわけじゃない。
ただなんとなく、何気なく、その道を歩きたくなった。
知らない道を歩くのはなかなか楽しい。
買い物帰りの主婦を狙った野良猫とすれ遠い、恰幅のいい魚屋の店主の前を通り過ぎ、ちょっと時代遅れな服屋のディスプレイを横目に、ヒロマルは夕暮れの街を歩いていく。
そしてふと、古ぼけた立て看板の横の路地に目を止めた。
そこは今いる場所より少し薄暗い。
網の目のように細道が連なるこの街では珍しくない光景だ。
だが、何故か気になった。
考えるよりも先に、体は路地へと吸い込まれていった。
路地は奥に行けば行くほど、闇が沈殿しているように思えた。
無意識に、歩調が速くなる。
なんだ、これは。
胸騒ぎがする。
ほぼ駆け足になり始めたヒロマルは、視界の隅に何かが動くのを捕らえた。
慌てて引き返すと、そこには見覚えのある生き物がいる。
ぶううんと唸る工アコンの室外機の横に、手のひらサイズの不思議な豆。
──メマメだ。
まさか、とヒロマルの胸がざわめく。
急いでメマメに近づくと、メマメは驚いたのかひゅっと室外機の裏に隠れてしまった。
「待て、俺の事覚えてないか?」
果たしてメマメに意志が、記憶力というものがあるのかわからなかったが、声をかけてみる。
するとそろりとメマメが顔を出した。
そしてヒロマルの顔を確認すると、ピョンと飛び出して、両腕をパタパタと動かし始める。
とりあえず覚えられていたようだ。
「お前の主人はどこにいる?」
ヒロマルが尋ねると、メマメは何度かジャンプした後、走り始めた。
ヒロマルはメマメの後を追った。
意外と速い。
気を抜くと見失ってしまいそうだ。
何度か角を曲がったあと、さらに暗い路地へとメマメは駆けていく。
ヒロマルは迷わずそこに飛び込んだ。
そこは空気も淀んでいた。
様々な臭いが混ざり、それらが体中にまとわりつくような不快感がある。
そしてその奥。
長身をなんとか隠すような姿勢で、ぐったりとしたメマメ達の主の姿があった。
「──監視屋!」
ヒロマルは思わず叫んだが、ときおからの返事はない。
だが、近づこうとすると片手で制された。
もう片方の手で目深にかぶったフードの端を掴み、中が見えないよう顔をそらす。
ヒロマルは心の中で舌打ちをした。
かなり重傷だ。
ヒロマルは羽織を脱ぐと、内側に収納された扇子を全て取り、懐に押し込んだ。
何をしようとしているのか察したのだろうか、ときおはヨロヨロともたつきながらも立ち上がろうとする。
「馬鹿、逃げるな」
軽くなった羽織をばさりとときおの頭にかけると、そのまま顔を覆うように巻き付ける。
もしかしたら息苦しいかもしれないが、少し辛抱しろと半ば無理やり押さえ込んだ。
ときおは抵抗しているようだが、その力はごくごく弱い。
とんでもないものを拾っちまったな、と思う反面、最初に見つけたのが自分で良かった、などとヒロマルは考える。
監視屋の中でもコイツは特に敵が多い。
他の誰かに見つかっていたら、即行で殺されていてもおかしくないのだ。
とにかくここを離れなければ。
このまま長居をするのは得策じゃない。
誰と殺りあったのかは知らないが、彼をここまで追い詰めたのなら相当な実力者だ。
出くわしてしまったら、負傷したときおを背負って勝てる自信はなかった。
だが、ヒロマルのアパ一卜はこの近辺ではない。
ときおの住処なんぞヒロマルには知る由もない。
この近くで、一時的に避難できるような場所。
ふと、ひとつだけ思い当たる所があったが、ヒロマルは顔をしかめた。
出来ればあそこには行きたくないのだが…
「背に腹は変えられない、か」
ヴヴヴヴヴ。
いつもバイブレーションだけのアズサの携帯が、自らの振動で小さくテーブルの上を移動している。
アズサはなんとなく嫌な予感、と思いつつも出ないわけにいかず、夕食の支度を中断して携帯を取り上げた。兄からだ。
「はい、もしもし?」
『すまんアズサ、緊急事態だ』
ああ、やっぱり。
「もう、今度は何?」
仕事内でも仕事外でも何かと兄はトラブルに巻き込まれやすい。
こうした連絡は妹としてある程度慣れっこだったが、夕飯時はやめて欲しいものだ。
『今マンションの下まで来てる。少し手伝ってくれないか』
「ちょっと…家に来るのはやめてって言ってあるじゃない。あんたのせいで今年はもう2回も引っ越してるのよ?」
『すまん』
「もう…裏口ね?」
『ああ』
本当に困った兄だ。
アズサは火の元の確認をすると、上着も羽織らずに玄関へと向かった。
「何があったの?」
「とりあえず話は後だ。こいつを運ぶの手伝ってくれ」
ヒロマルの横にぐったりとした男の姿を見つけ、アズサは一瞬言葉につまる。
「彼は…」
「監視屋だ」
ヒロマルは素っ気なく言い放つ。
「とにかくこいつをいったん寝かせたい。お前の家の奥に、使ってないソファーあったよな?」
「あるけど…病院には?」
「連れていけない。こいつは、普通の医者じゃ治せない」
「…修復屋でも?」
「患部を見ないで修復できるやつがいればな…」
ヒロマルは苦笑する。
「わかったわ」
とりあえず、特殊な状況下だということは。
「助かる」
ヒロマルはアズサに微笑みかけると、扇子を広げた。
「術を使うの?」
「んなでけえ奴、二人がかりでも重いだろ」
彼はどうやら、全く動けないらしい。
そうね、と同意の言葉を口にして、アズサは術が完成するのを待った。
「うん、やっぱり使ってなくても掃除はするべきよね。私えらい。女子力高い」
ときおを運び込んだ後、アズサは自画自賛する。
「確かに綺麗だが…」
「なんか言った?」
じと目で睨むと、ヒロマルはバツが悪そうに顔を背けた。
部屋の隅にはいまだダンボールが積まれたままになっている。
女性一人で住むには少々広すぎるアズサの家は、ひと部屋は完全に物置と化している。
契約更新どころか季節が一回りする前に引越しを余儀なくされる時もあるため、季節外れの服やすぐに使わない資料はこうしてダンボールに入れたままにしていた。
このソファ一は備え付けのものだったが、アズサの趣味に合わないためここにしまいこまれていた。
まさかこんなふうに役に立つとは。
「…」
アズサはときおを見つめる。
応急処置のつもりだろうか、その顔にはヒロマルの羽織が乱暴に巻き付けてあり、表情は全くわからない。
「監視屋って、あの『監視屋ときお』よね?」
「あぁ」
「よく助けたわね。あんなに嫌っていたじゃない」
アズサはときおとの面識はほとんど無い。
そのため彼についての情報の殆どは兄からだったが、その大半は仕事を邪魔されただの一度ぶん殴りたいだの、彼に対する愚痴ばかりだった。
「仕方ないだろ、見つけちまったんだから。あのまま見捨ててたら夢見が悪い」
なるほど、兄らしいなとアズサは思う。
普段てんで頼りないのに、こういうところは兄貴気質なのだ。
「で、何があったの?」
アズサは本題に戻したが、わからん、といきなり肩透かしをくらった。
「わからんって…」
「倒れてたところを連れてきたんだよ。だから何があったのかわからねえんだ。こいつも今声が出ない状態だし」
「そういえば、彼の顔どうなってるの?」
「!触るなっ!!」
「きゃ…! 」
何気なく羽織に触ろうとして、ヒロマルに腕を掴まれる。
「な、なに…?」
「いいか、こいつの顔を見るな。絶対だ」
ヒロマルのただならぬ雰囲気に、アズサは圧倒される。
掴まれた腕がビリビリと痺れた。
「痛い…」
「あ…すまん。つい…」
我にかえったのか、ゆっくりとヒロマルの拘束が解かれる。
「ちゃんと、説明して」
アズサに問われ、ヒロマルは黙り込む。
話していいことなのかどうか。
ここで話すべきことなのかどうか。
しばらくアズサとときおを交互に見やっていたが、やがて決心したようにヒロマルは顔をあげた。
「そうだな…お前が知らないということは…御上の『Databass』にも無いという事だしな…」
「…」
「監視屋には…顔が二つあるんだ」
「…他にも仕事してるって事?」
「いや、比喩じゃない。いつもの顔の下に、もう一つ顔がある。そのままの意味で」
「こんな時に冗談はどうかと思うわよ」
「俺は大真面目だ」
きっぱりと言われ、今度はアズサが黙った。
もう一つの顔?
「いつもの顔は、仮面と言うか…蓋みてぇな役割をしてるんだ。今は多分…それが壊れて、下の顔がむき出しになってる」
「下の顔って、どうなってるの?」
「見たら狂う」
「は…?」
「俺は異次元顔面って呼んでるがな。本人日く、『人の理解を超えている』んだってよ。見たら最後、戻って来れない、ってな」
アズサは今度こそ閉口してしまった。
すんなりとは受け入れ難い内容に、だが兄を見る限り全て本当の話だ。
確かにこの業種には異能者が多い。しかし彼はあまりにもそこからすらも離れてやしないだろうか。
──ふと、『規格外』と言う言葉がアズサの頭にうかんだ。
『変態』『異端児』『規格外』。
それが監視屋ときおが語られる上で当たり前のように出てくるフレーズだった。
こういうことか、とアズサは痛感する。
「…これからどうするの?」
「眼鏡を呼んである。もう少ししたら来るはずだ。それで、俺のセーフハウスに運ぶ」
「…大丈夫なの?」
「ん?ああ、眼鏡にはぺンがあるしな。移動もさっきより楽だろうさ」
アズサの問いはときおではなくヒロマル自身の身を案じて出たものだったが、伝わらなかったようだ。
やがて眼鏡がマンションに到着し、とうとう本当の意味を知ること無くヒロマルは去った。
──人の理解を超えているもの。
それはときおの顔ではなく、ときお自身ではないかと、アズサには思えて仕方なかった。
──あれから三日後。
アズサは郊外の住宅地に来ていた。
ここの一角に、ヒロマルの『セーフハウス』がある。
セーフハウスとは簡単にいえば、隠れ家である。
保護対象者を匿ったり、もしくはヒロマル自身が追っ手などから隠れるための家。
なんとなくそれ以外にも使ってそうな気もするが、アズサは目をつぶる事にしている。
自分の家に来られるよりはずっとマシなのだ。
「ここね」
アズサはその家を見上げた。
幾つかあるセーフハウスの中でも、ここは長期滞在を目的とした家だ。
「お、来たのか」
中に入ると、ヒロマルが意外そうな顔で出迎えた。
「あんたの事だからまともな食事してないと思って」
そう言いながらキッチンへ上がり込み、途中買い込んだ食料品を広げ出す。
「ありがてぇ」
ヒロマルは純粋に喜んだが、実はこれは、アズサがここに来る口実でしかなかった。
アズサには2つ、気になることがあった。
ひとつはヒロマルの安否。
ときおの危険な能力を知ってしまった以上、放っておく事は出来なかった。
もし仮にときおのその『異次元額面』に何かあったら、間違い無く兄は一人でなんとかしようとする筈だ。
兄が酷く無茶をする質なのを、アズサはしっかりと心得ていた。
そしてもう一つは、ときお自身の事。
普通の医者ではどうにもできないあの状態で、果たして元に戻れるのだろうか?
「...彼は?」
食料を冷蔵庫に入れながら(予想はしていたがほぼ空っぽだ)、アズサは訊ねた。
「ああ、向こうで寝てる。…あれからずっとだ」
「ずっと?」
「ああ」
「…見に行ってもいい?」
「構わないが…どうした?」
ヒロマルが怪訝な顔をする。
そりゃ、あんな状態見ちゃったら心配の一つや二つするでしょ、と言うと、それもそうだな、とヒロマルは頷く。
ある程度片付けたところで、アズサはときおの部屋に案内してもらった。
そこはベッドの他には質素な棚と、小さなテーブルしか無いようなこじんまりとした部屋だった。
ときおははじめて見た夜と同じように頭に羽織を巻き付けたまま、静かに眠っていた。
ゆっくりと上下する呼吸の動きだけが、今の彼の運動の全てだった。
「…」
アズサはじっと彼を見下ろす。
事情を聞いた今でも、正直ときおの顔の話は信じ難い。
人の顔の下に、人智を超えた何かがあるなど。
「ずっとこうなんだ。寝返りすらしてねえ」
隣に来たヒロマルが言う。
「どうにかできないの?」
「無理だ。休ませる以外に、方法がない」
その時、微かにときおが身じろいだ。
「…っ…」
「監視屋?」
返事はない。
その代わり指先が微かに動いた。
シーツの上を、探りながら、ぎこちなく。
「...アズサ」
ヒロマルが声をかける。
「私が?」
「俺のゴツイ手じゃダメだろ、この場合」
「…そうね」
アズサはあまり納得がいかなかったが、ヒロマルに促され、ときおの手を取った。
昔、風邪で熱を出すと、ヒロマルはよくこうしてアズサの手を握ってくれた。
小さなアズサに、その兄の手はいつも心強かった。
けれどそんな子供騙しのような事が、ときおにも必要なのだろうか?
「っ、」
ややあって、ときおが握り返してくる。
躊躇いがちに、そっと、祈るように。
その瞬間、アズサは悟った。
これは、私の手じゃない。
彼が握っているのは私の手じゃない。
彼の記憶の中にいる、別の誰かの手を、私の手を通して握っているのだ。
──おそらくは、愛しい人の手を。
「ヒロマル…」
「少し、付き合ってやってくれ」
兄は何か知っているのだろうか。
懐かしむような、優しい、それでいて哀しげな目で、ヒロマルはときおを見つめていた。
アズサは黙って、少し冷たいときおの手をギュッと包んだ。
「俺は何も知らない」
居間に戻ったヒロマルはそう告げた。
アズサはこれに近い台詞を最近何度も聞いている気がする。
「監視屋とは付き合いは長いが、俺が出会った頃はもう今のアイツだった。その前に何があったかなんて、俺にはわからん」
「…」
「だが…そうだな…多分…。…俺と、同じだろうな…」
そう言ってヒロマルは遠くを見つめるような目をする。
──ヒロマルは昔、最愛の人を亡くしている。
それはけしてヒロマルの責任ではなかったが、今でも兄の心の奥底に傷が残っていることをアズサは知っている。
そして、もしかしたらときおも。
先程彼がすがった誰かは、もうこの世にはいないのかもしれない。
「──この業界じゃ珍しくもない話だ」
そうヒロマルは笑ってみせたが、アズサは笑えなかった。
──それからさらに三日。
ときおはいまだ眠り続けている。
アズサは食事は全て二人分用意してくれていたが、今のところ一人分しか減らずにいる。
ヒロマルは今日も一人で食事を終えて、監視屋の様子を見に行った。
相変わらずときおは死んだように眠っている。
微かな呼吸の音がしなければ、まるで人形のようだった。
だが、こいつは人だ。
少なくともヒロマルはそう思う。
その体にこの世の理解を超えた何かを抱えていたとしても。
ヒロマルは、アズサがときおに対し畏怖の念を抱いている事をなんとなく感じていた。
無理もないと思う反面、そうじゃない、と歯痒く思う気持ちもある。
まるで人外のように語られる彼だが、きちんと人間くさい面がある事を、ヒロマルは長い付き合いで知っていた。
ときおだって何も食べなければ倒れるし(同度か強制的に飯屋に連れていった)、人並みに性欲もあるし(グラマ一が好きらしい、分かり易い)、人を思いやる気持ちも…ある。
ヒロマルは前にも一度、ときおの顔が崩壊した場面に居合わせたことがある。
その時彼が言ったのだ、
『近づクな、気が狂ウぞ』──と。
『見ルな』と。
それは確かに、ヒロマルを守るための言葉だった。
それ以来、ヒロマルの中でのときおの印象は変わった。
おそらく彼は、その力をむやみやたらと使いたい訳じゃないんじゃないか。
もしかしたら疎ましくさえ思っているのではないか。
そう考える。
けれどその気持ちを隠したがっているようにも見える。
わざわざ悪態をつき、恨みを買い、孤独になる事で、その力からもその気持ちからも人を遠ざけているような、生き方。
だから放っておけないのだろう。
心の中に同じ傷があるだけじゃなく、食事にも睡眠にも興味がない…
生きることにすらも執着がないような、危なっかしいその命が。
「ウ…」
思考を深く巡らせていると、小さなうめき声が聞こえた。
「監視屋?」
ヒロマルは慌てて声をかけたが、ときおは苦しげに身をよじるだけだ。
うなされているのか?
表情が見えない分、判断に困る。
「かん…っグッ!」
もう一度声をかけようとしたところで、いきなり体を引き寄せられ、首を鷲掴みにされた。
ギリギリと指が、ヒロマルの首筋に食い込んでいく。
ヤバイ。このままだと落ちる。
「てめ…離せっ…この…俺だ!ヒロマルだ!!」
目一杯抗議すると、その手がばっと離れた。
それと同時に、思いっきり咳き込む。
ちくしょう、なんて力だ。
ヒロマルはときおを睨むが、向こうは気づいていない。
そもそも顔が布で覆われた状態でヒロマルの顔が見える訳がなかった。
自分の置かれた状況がわかっていないようで、羽織の中で首を傾げているようだ。
「…街中でぶっ倒れてたの、覚えてるか?」
「…」
頭が逆の方向に傾ぐ。
「俺が倒れてたお前を拾ってきたんだよ。ここは、俺の隠れ家だ」
「…」
もそもそと顔に手をやる。
「顔面はぶっ壊れてるようだから覆ってる。見るのはマズイんだろ?」
「…」
ややあって、ふう、とため息が聞こえた。納得したのだろうか?
『…馬鹿ダなオマエ…』
いつもよりも曇ったときおの声が零れた。
「声、出るんだな」
少しホッとしたようにヒロマルが声をかける。
『放ってオキゃあイイだろウに…』
「仕方ないだろ」
拾っちまったんだから、とアズサにしたような言い訳をヒロマルはここでも展開する。
放っておけない、なんて本人には口が裂けても言えない。
「ここは文字通り『隠れ家』だ。お前を襲ったやつもそう簡単に見つけられないだろうさ。観念して、しばらく大人しくしてるんだな」
『…横暴ダな…』
そう愚痴るものの抵抗する気はなさそうだ。
もしくは、それだけの体力がまだ回復していないのか。
「…なんか食うか?っつ一か、食えるか?」
『…わかンね』
少なくとも6日間は何も食べてないのだから腹は減ってるはず…とここまで考えて、そういやこいつ一週間ぐらい平気で食事を忘れる奴だった、と思いなおす。
「とりあえずなんか持ってくる。食えたら食え」
そう言ってヒロマルは返事も聞かずに部屋を出ていこうとする。
『──────。』
背中で、ため息と小さな言葉が聞こえた気がした。
「は?なんか言ったか?」
『…イヤ。なンでもナい』
誰にも届かずに消えたその言葉。
ヒロマルならもしかしたら、その意味も聞き取れたかもしれない。
そっと紡がれた、ときおの本音。
『──俺はまダ、逝けナいンダな』
そして二日後。
アズサが再び隠れ家に訪れると、ときおは居間のソファ一に座っていた。
「起きたのね」
「ぅン?誰?」
「俺の妹」
「…ヘェええ工工え」
「なんだその反応は」
「オマエ兄ちゃんだっタの」
「悪いか」
「イや別ニぃ?」
「はじめまして、ね。アズサよ。…それ、見えてるの?」
ときおの格好を見てアズサが問う。
ときおはターバンのようなものを頭から目元までグルグル巻きにしていた。
「イやゼンゼン」
「そう。不便そうね…しばらくそのままなの?」
「ソ一だな一。まだ"固まってない”かラな一」
そう言ってターバンの上から目をさする。
布と肌の境目から、何かよく分からない色がちらりと見えたが、アズサは気にしない事にした。
おそらくあれが『異次元顔面』なのだろう。
『固まっていない』というときおの言葉もとりあえず横に置いておく。
理解するのは無駄な気がした。
そもそも理解も出来ない気がした。
「じゃあ、手で食べれるもの作るわね」
「ぅン?」
「飯作ってくれるってよ」
「ほ一。コンビニベント一かラの解放?」
「うるせぇ」
ヘラヘラと茶化すときおと縦ジワ付けっばなしのヒロマルのやり取りに、アズサは思わずクスリと笑ってしまった。
「なんだいきなり」
「あ、ごめん…なんか、兄弟みたいだなって思って」
「おいおい冗談でもよせ。こんなのが弟なんて死んでもゴメンだぞ」
「兄チャンってヨり小姑だもンな?」
「お前顔治ったら覚えてろ」
「ヤダこわーィ」
口は笑った形のまま、ときおは大げさに怖がって見せる。
それがさらにヒロマルのシワを深くしていく。
だが険悪なムードではなくお互いわかった上でのやりとりのようだ。
ヒロマルの話を聞くにもっとギスギスした仲なのかと思っていたが、どうもそうではないらしい。
男特有の友情ってやつかしら。
女では実現不可能なそれ。
──なお続く二人のやりとりを眺めながら、アズサはキッチンに立った。
「気が利くナぁ。どっ力の誰かサンとは大チガい」
「うるせえ」
サンドイッチをパクつきながら感想を述べるときおに、ヒロマルも食べながらつっこむ。
テーブルに並べられたのはサンドイッチやおにぎりといったものの他に、一口サイズのおかず。
いずれも手で食べやすいよう工夫されている。
「こんな兄チャンがいルと苦労スるダろ一?」
「全くその通りよ」
「少しは否定しろアズサ」
「なんか言った?」
ギロリ、と睨むと途端にヒロマルは黙った。
それを見てときおがケラケラと笑う。
アズサは調理の最中もときおを観察していたが、こうして起きているのを見ると最初と印象がだいぶ違う。
どんな性格破綻者かと思っていたが、今、目の前にいるときおはいたずら好きの子供のように思えた。
実際の年齢は、アズサとそう変わらないだろうか。
テーブルではやれお前は米を食えだの痩せすぎだのと毒づくヒロマルを、のらりくらりとかわすときおがいる。
と、アズサはそこでその肩になにか乗っているのに気づいた。
そら豆のようなボディに小さな手足がついたようなそれは、アズサと目が合うと一つしかないそれをぱちくりさせた。
これが彼が使役しているという『メマメ』だろうか。
ぱちり。ぱちり。
二、三度瞬きを繰り返したそれは、今度はときおの頬を小さな手でぺちぺちと叩き始めた。
だがときおは食事に集中しているのか、メマメの方を向くことなく、空いていた方の手でクリクリとメマメを撫でた。
撫でられたメマメは気持ちよさそうに目を閉じる。
やがてときおの手が離れてもうっとりとしていたが、突然はっと気づいたように目を見開いた。
『違う違うそうじゃなくて…』とでも言いたそうな。
そして再びぺちぺちし始める。
ぺちぺち。なでなで。うっとり。違う違う。ぺちぺち。
そんなやりとりが2ループしたところで、とうとうアズサは吹き出した。
笑うなという方が無理だ。
「ぷっ…くく…」
「どうした急に」
ヒロマルは眉をひそめたが、ときおにはわかったらしい。
「アぁ…可愛いダろ?」
メマメを撫でながらときおが言う。
「ええとっても…それがメマメ?」
「アぁ」
「よせアズサ。そいつで油断させて隙をつくのがこいつのやり口だ」
ヒロマルの制止に、ときおは笑みを浮かべたままだ。
否定しないところを見ると、そうらしい。
「…可愛いッて、武器になるンだよネぇ」
「...なるほど」
彼が不気味がられる理由がわかった気がする。
「ところで監視屋、お前本当に襲撃者に心当たりはないのか?」
「わかンね。ここら辺のヤツじゃないンじゃナい?」
「お前なぁ…」
「シカタね一ダろ、恨みなンて浴びるホど買ってルし」
物騒な話をさらりと言う。
「それにしたって顔ぐらい…監視屋?」
突然ぐらりとときおの体が傾いた。
そしてそのままボスンとソファ一にぷっ潰す。
「えっ?!な、なに?!」
アズサは慌てたがヒロマルはまたか、といった表情。
「寝てるだけだ。ほっとけ」
「え?」
「顔が壊れてるせいなのかいつもこうなのかわからんがな。突然糸が切れたみたいにどこでも寝やがる」
確かにときおから安らかな寝息が聞こえてきた。
いちいちベッドに運ぶのも面倒だと愚痴るヒロマルに、毛布ぐらいかけてあげなさいよとアズサがたしなめる。
アズサが部屋からタオルケットを持ってくると、ときおの傍にメマメがいた。
「あなたも寝るの?」
声をかけるとメマメはぴょこんとジャンプし、ときおの手のひらに潜り込んだ。
条件反射なのか、ゆっくりと手が握られる。
アズサは先日のことを思い出した。
ときおの大切な人。
──メマメはその人の代わりも、務めているのかしら。
それから三日後。
朝焼けが始まる前の、早朝。
まだ白い月が残る空の下で、ヒロマルは朝練をしていた。
今やっているのはいわゆる型稽古である。
ヒロマルの使う霊言扇舞法・木船田流は、陰陽五行思想と真言密教に基づいた法術だ。
世界は五つの気から成り立つとされ、正しく述される言葉や文字は、それらに影響を与え、またその加護を受ける事が出来る。
そして正しい言葉と文字は、正常な心と体に宿るとされる。
木船田流での『正常な心と体』とは、身体、精神において5つの気全てがバランスよく保たれている状態を示す。
どれが欠けても、どれが過してもいけない。
型稽古は、長時間続く精神力と術に耐えうる肉体を作るとともに、自身の気のメンテナンスもかねている。
個であること。
それと共にこの自然の一部でもあること。
全てのものが混ざり合い、調和し、一つになる。
均衡のとれた肉体と精神は、それ自身が一つの世界とも言える…。
「セイが出ルね」
いつの間に起きていたのか、窓辺に腰掛けたときおが声をかけてきた。
この頃のときおは、ネックウォーマ一のようなニッ卜帽を深めにかぶり、片眼だけを出していた。
どうやら目の辺りは治りが遅いらしい。
「起きたのか」
「アぁ。マだ夜明け前なンだネぇ」
「ああ」
ときおはいまだに昼夜関係なく、突然パタリと寝ていきなりむくりと起きる生活をしている。
だんだんと起きている時間が長くなっているようだが、普通のサイクルではまだ生活出来ない。
「ソ一言えばオマエ、道場主ダッたッけ」
「そうだ」
ここにいる間は妹に任せっきりだが。
「ジャあサぁ、チョっと付き合ッテくンナい?」
「何?」
「寝てバッかりで体が鈍っテるカラ………さ!!」
【バッ】
「!!」
なんの前触れもなく、ときおの拳が飛んできた。
ヒロマルは咄嗟に防御するが、かなりの衝撃が腕を伝う。
「てっめっ!」
「ヒヒッ」
抗議の声をあげている間にも次の攻撃が迫る。受け止めようとするが───速い!
「このっ…!」
なんとかよけると、今度はこちらから仕掛ける。
が、ときおは体をひねる事でスラリとかわした。
───こいつ!!
「お前!それをどこで覚えた?!」
「忘レた」
身もフタもなく言い放ち、ときおは蹴りを繰り出す。
間違いない、ヒロマルは確信した。
これはデタラメな喧嘩スタイルじゃない。
どこかのちゃんとした、武道の技だ!
正直ヒロマルは驚いていた。
長い付き合いの中でも、ときおが肉弾戦をしているのを一度も見たことがない。
高い場所から傍観し、いざとなったらメマメをけしかけ、逃走する。
これがときおの通常のスタイルだったからだ。
まさかこんな技術を持っていたは。
ヒュ、と風を切る音がして、顔のすぐ横を手刀が過ぎる。
細身だがときおはかなり立っ端がある。
そのため手足が長く、それはリーチの長さに繋がっている。
頭一つ分ほど背の低いヒロマルには、これは少々不利な状況だった。
加えてときおにはスピードもある。
一気に懐に入りー撃を食らわせることは出来るかもしれないが、それをやってしまうとときおがどうなるかわからなかった。
ヒロマルはときおがどこまで回復しているのか見当がつかない。
こう見えてギリギリで動いている可能性もあるのだ。
とにかく、自身の体調異変に無頓着な奴だから。
──結果、攻防戦は一方的な展開になる。
「、うっ」
ヒロマルの体勢が崩れる。
──しまった!
「…?」
だがヒロマルが予想した展開にはならなかった。
ヒロマルがバランスを崩すと、ときおは間をとり、構え直したのだ。
なぜだ?攻撃の絶好のチャンスだった筈なのに。
からかっているのか?それともまだそこまで回復してないのか?
それとも何か──待っている?
ときおが再び地を蹴った。始まる応酬。
そのさなかヒロマルは考える。
コイツは一体、何がしたい?
先ほどの行動からして、おそらくこいつはこちらを傷つけるつもりはない。
だとすると…
再び手刀が飛んでくる。
ヒロマルはそれを受け流すと、ときおのボディへ拳を打ち込む。
が、やはりまたかわされる。なら次は───
──ここだ!
ヒロマルは顔のすぐ横に腕が来るような防御の姿勢を取る。
そこに、示し合わせたかのように蹴りが放たれた。
「オっ」
待ってました、とばかりときおの目が輝いた──気がした。
隙の出来た半身を狙って拳を振るうと、今度はときおも防御する。
ぱん、と肌に肌が当たる音が響く。
その後数分の間、ヒロマルはときおの蹴りを何発かくらった。
その代わりときおにも、何発か打撃をくらわせた。
しかしそれも、次第に減っていく。
二人の呼吸が、リズムが、次第に揃っていく。
ときおは今度こそ笑った。
それはいつもの張り付いた笑いではなく、『楽しい』と形容出来るそれ。
──ああ、これか。これを待っていたんだな、お前は。
──それは、『応』。
二人の気が響き、重なり、反響し、混ざり合い、一つになる。
形成される、調和の世界。
武術と言う名のそれは、朝焼けの中、静かに展開していく。
響きわたる音は、音楽のように。
二人の影は、舞うかの如く。
「アー…」
「監視屋!?」
突然ぱたり、と後ろに倒れたときおに、ヒロマルは慌てて駆け寄った。
しかし顔をのぞき込むと、満足そうにケタケタと笑っている。
「やッパしンどいワぁ」
「ち、心配させんなバカ野郎」
そう言ってヒロマルは寝転がったときおの横に座る。
「...監視屋」
「なンだ」
「お前本当に、どこでそれを習ったのか覚えてないのか」
「…正確二は、教えテもラッテねぇンだ。名乗らナかっタし、オレも聞かなカッた。ずっと『オッサン』て呼ンでた」
「…お前のそのスタイル、1人思い当たる人がいる。関西の…」
言いかけたところで、手で制された。
「別にキョーミない。どこのダレだろ一がオレにとっチャ、『オッサン』は『オッサン』だ」
「…そうか」
ときおがそういうのなら、それでいいのだろう。
ヒロマルは言いかけた名をそっと心にしまった。
二人の横を、さらさらと風が通り過ぎてゆく。
朝の光に照らされて、夜露を宿した緑の葉がキラキラと揺れている。
遠くで聞こえる鳥の声。
気持ちのいい朝だ。
「…」
「…監視屋?」
「…」
「あっ、てめ!」
気づいた時は遅かった。
ときおは草の上で横になったまま、安らかな寝息を立てていた。
「あ一…」
このまま庭に転がしておくわけにもいかない。
ヒロマルは大きなため息をひとつつくと、懐から扇子を取り出した。
そして三日後。
なんの前触れもなくヒロマルはふと、目を覚ました。
まだ真夜中と言っていい時間。
2週間前のあの時とは違い、予感めいたものがあった。
ベッドから起き上がると、ときおの部屋を確認もせずに玄関へ向かう。
玄関の扉を開けると、見知った背中が目に映る。
やはり。
「監視屋」
声をかけると、ときおは歩みを止めた。
「…ヨく気づくナぁ」
「黙って出ていくつもりだったのか」
「ぐっスり眠ってルヨうだッタかラサぁ」
振り向きもせずにときおは答える。
「顔はもういいのか」
「アぁ…だいぶナぁ」
ゆらりと振り返ったときおの顔は、ところどころひび割れてはいるものの、その目はしっかりと開いていた。
ロウソクの炎のように揺らめく瞳。
「だが行ってどうする。襲撃犯の素性も何もわからないんだろ」
「居場所なラわカる」
「何…?」
「対峙したトキ、メマメを何匹か追尾さセた。行動範囲や目的も、アる程度目星がついテる」
ヒロマルはときおを見つけるきっかけになったあのメマメを思い出した。
室外機の横にちょこんといた、あいつ。
あれは尾行中の一匹だったのか。
「お前…」
「ククッ、ここにイる間、メマメで情報収集しテたンダよ。そうスルると治りガ遅くなるンだが、オマエのこの隠れ屋はなかなかイイモノみタイだかラな」
なるほど、回復が遅れてもここなら安全が保障されてる。
うまいこと利用された訳か。
「どこの誰か見当がつかない、と言っていたあれも嘘か」
「あノ時点デはホントウ」
ケタケタとときおが笑う。どうだか。
「…襲撃犯、一人でやるつもりか?」
「ソコまで世話にナる気は無ェ。そレに…」
ときおがニイイ、と笑みを深くする。
「やラレたら10倍返し、ッてイウだロぅ…?」
その言葉に、ヒロマルは深くため息をついた。
この姿、アズサに見せてやりたい。
現在彼女はどうやらときおに対しそれこそ弟のような感覚で接しているようだが、本来のときおはこうなのだ。
幾多ある不気味な噂も、全て事実な訳はないが、全てデタラメな訳でもない。
そもそも『こいつならやりかねない』と思わせるような雰囲気をときおは持っているのだ。
正直襲撃犯に同情する。
こいつに喧嘩を売ってしまったのだから。
「…わかった。好きにしろ」
「ソりゃドーモ」
「本当にふざけたやつだ。お前との腐れ縁も今回限りにしたいもんだな」
「ソレが出来なイカら腐れ縁なンダろ?」
「うるせ。早く行け」
「ヒヒッ」
コワイコワイ、と言いながらときおは再び歩き出す。
「ジャあナぁ、世話にナっタな。…ヒロマル」
「!」
いつものようにときおはヒラヒラと手を振りながら、闇に消えた。
「バカ野郎。俺は確実に、お前より年上だぞ。呼び捨てにするな」
ときおが消えた空間へ、ヒロマルは1人愚痴る。
だがその顔は、どこか満足げだった。
数日後。
「こんにちは」
「あら眼鏡。どうしたの?」
「ヒロさんにお届け物です」
「ヒロマルに?…あら、贔屓にしてる呉服屋からね。あいつ何か買ったのかしら…相談も無しに…ヒロマルー!」
アズサが呼ぶと、奥からヒロマルが顔を出す。
「どうした?」
「あんたに荷物よ。一体何を買ったの?」
「呉服屋から…?何も頼んでないが…」
「…とりあえず開けてみたらどうでしょうか」
眼鏡に促され、外装を開ける。
するとその中にいた『ソレ』とぱちりと目が合った。
「…メマメ?」
メマメは嬉しそうに手をパタパタさせると、ポンと音を立てて消えた。
「…つまりあいつから、というわけか…」
ヒロマルが縦ジワを深くする。
「…とりあえず見てみるか」
幾重にもなった包みを開けるとそこには…
「ちょっと、これ!」
出てきたのは、見事な細工の施された羽織だった。
知識が無くてもわかる、それほどに高価な品。
「…弁償のつもりかしら…」
ときおの顔に巻き付けた羽織は、廃棄処分になっていた。
「…」
「どうしたのヒロマル。苦虫噛みちぎったみたいな顔して。もうちょっと喜んでもいいんじゃないの?」
「喜べるか。こんな、着れもしないもの。あの野郎」
「!…あー…」
「どういうことですか?」
着物の知識のない眼鏡が首をかしげる。
「あー、えっとね、着物には『格』があるの。簡単に言うとランクね。洋服と違って、着物はある程度格を合わせないといけないのよ。何十万もする高級ブランドのジャケットに数千円のシャツを合わせるような着こなしは出来ないの」
「へえ」
「ヒロマルが持ってる着物はとてもじゃないけどこれに見合うようなものはないわ。着ていくような場所もない」
「なるほど…宝の持ち腐れ、と言う奴ですか…」
ときおらしい、皮肉たっぷりのプレゼント。
「あいつ、やっぱり一度ぶん殴る」
ヒロマルはぐっ、と握りこぶしを作ったのだった。