08.結婚と云う幸福の尺度■境界融合論。
世界の変革を望む全ての方々に捧ぐ。
二一時過ぎを指している――私は腕時計の針を確認した。後は帰宅するのみだ。
断言しよう、其の行為は血迷いであると!
九月二一日:午前四時に床に就き、四時間後の八時に目覚めた。本日は実に素晴らしい一日と為るだろう。その様に期待する私が居る。何と云っても古い友人の結婚式なのだ。無事に挙式を完遂して頂きたい。
夜勤の躯に辛いのは夜が就寝時間帯だと何時迄も思い込みが抜け切らない事だ。此の勘違いが安らかな眠りを妨げる為に、日中は何時間も寝る事が儘為らぬ。三・四時間の浅い睡眠で鞭を打つ過酷な日々を余儀無くされている訳だが、其の睡眠時間で労働を熟せるかと云えば事実に反する。十分に睡眠時間を確保出来なければ、体調は何時しか崩れ行く。体調管理は基本だと下らぬ事は云わないで欲しい。其の根底を支えるのが体内時計である。狂った時計は当然の如く宛てに為らない。如何して体調を管理し得ようか。夜勤を全うしよう者なら、先ず昼夜逆転が日常だと刷り込みを掛けねば為らない。呼吸と云う運動に思考を隔てない様に、其の然とした状態に躯を転換させよ。非常を常に、常を非常にする覚悟が必要である。私には残念乍ら覚悟足る覚悟が見当たらない。装うだけの非常に薄っぺらい人間だ。此れは眼を背けたい事実であり、私が私を嫌悪する最大の理由だと見做して居る。如何にでも為れるモノなら是非とも如何にか為って呉れ。
気怠く風呂場に足を運んだ。定まらぬ意識でふら付く足取りで。トランクスとタオルを一枚ずつ入口の脇に置き、躯を揺らし乍ら服を脱ぎ捨てると、冷たいタイルに爪先が触れた。三七度のシャワーが皮膚を濡らす。浴槽に溜まる湯は最早無い。全てを流し切るのだ。
久し振りに背広を羽織った。直近だと三ヶ月前と云った処だろうか。其の際は無難なリクルートスーツだったが、結婚式に着て行く服装に疎い私はチョッキを内に着込むビジネススーツを纏った。躯の線に沿う採寸の為にシュッとした印象を与えるが、其の反面体型維持に努めねば、今後に着用する機会は一生廻って来ないはずである。其の様な努力は嫌いでは無い;寧ろ歓迎すべきなのだ。其のリクルートスーツは私の躯に合わない為に恰好悪いが、オーダーメイドのビジネススーツならば、私の為に存在している物だから喜んで袖を通すと云う訳だ。何よりも着心地が良い。其れだけで満足しなければ何と云う。結婚式などにホイホイと参加する立場に無いのだから、少々気取るにしても罰は当たるまい。自信無さ気で猫背に為るよりは断然と増しだ――と考え乍ら、矢張りスーツで私自身を飾ろうとする其の趣向は、俳優の滝藤賢一が主演を務めた『俺のダンディズム』と云うTVドラマ番組の影響が大きいのだと実感している。
『俺のダンディズム』とは、課長に昇進した冴えない主人公である段田一郎が一話毎にビジネスアイテムの歴史や背景を学び、身に付ける事で自信を獲得して行くと云う物語だ。彼の顔芸を駆使した喜劇風味だが、如何して中々知識欲を掻き立てて呉れるのである。実際に購入すると為れば値の張る品々である為に、作中でも切手コレクションを換金する場面が挿入されている。課長と云えども、妻も娘も居る身分としては制限が付き物なのだろう。更に主人公が喫茶店で視る『ダンディズム講座』を私達も楽しめる。パンツェッタ・ジローラモが講師の本人役で登場し、ダンディならではの振舞いを披露する様は何とも滑稽だ。折に触れて腕や腰の角度で魅せるダンディライン為る恰好には失笑して終う。真面目な演技であるにも拘らず、笑いを誘うとは此れも亦才能なのだろう。羨ましい限りだ。講座は一一回に分けられ、どの動画も二分未満なので手軽に視聴出来る。暇が有れば一見して頂きたい。お勧めしよう。
而して挙式会場は奇しくも中央区だった。地下鉄堺筋線堺筋本町駅の一七番出口から、大阪国際ビルディングは以前勤めていた会社が構える一つ手前の通りに聳え、レストランミッテが其の二階に位置しているのだ。招待状と同封された地図を片手にデジャビュを感じるも、能く能く考える迄も無く見知った光景に、未練は無いが、懐かしさを抱いて居た。一階の紀伊国屋書店の脇にある階段からは這入れないと看板が云うので、ビルディング内のエレベーターで私は渋々と二階へ昇った。扉が開いた先に覗かせたのは旧友の見知った面々であった。何ら変わらない。何時視ても彼の時の感覚が甦る。残念乍ら中学や高校の面子は殆ど姿を現さず、仕事で関西圏に居る奴等と態々鳥取県から遣って来た一人を含めた計五人のみが勇ましくも此の敵地に乗り込んだのだ。私達を取り囲む有象無象は新郎が勤める会社の関係者や新婦の其れだろう。受付で御祝儀を手渡した後、立ち飲みでコーヒーを啜りつつ、周りを見渡すが知らぬ顔が並ぶ事よ。旧友と談話を交わし挙式の開始を待ち侘びた。東京で学生をしていた輩は地元の鳥取県に戻り働き、一方で東京に転勤した者も居たので、私が居なくても世界は廻るのだと愕然とした。否、其れで良い。其れが普通なのだ。私と云う存在など……嗚呼、否定的だ。
午前一一時前に扉は開かれた。黒い衣装に赤のマフラーを首から垂らした牧師が入口で出迎える。私は静々と会場に這入り、例に漏れない二列の長椅子が縦に並ぶ教会紛いの講堂を眺めた。天井から舞台に天使の羽根が舞い落ちる。振り返った壁一面には蛞蝓の這った線が何本も描かれ、何時しか全ての線は心臓に辿り着く。循環させる為の血管だったのだ。席に着き暫く待機していると、本日の主役の片割れである新郎が緊張した面持ちだが然し徐に登場した。一歩ずつ刻む様に牧師の前まで距離を詰めて行く。タキシードのアイボリー、カッターシャツとブートニアの純白が色黒な彼を清らかに染め上げている。中央通路の最奥まで辿り着くと其の踵を返し、背筋を伸ばした私達と対峙した。其の口はへの字に結ばれ、確りと分け整えられた前髪から受ける表情の印象は此れまで彼から感じた一切の其れとは異なっていた。懐かしさは疎か、精神的な距離までもが遠く、酷く淋しい他人に感じた瞬間に私は無意識に境界線を引いた。残念乍ら、此の開いて終った距離はもう一生縮まる事は無いだろう。会場に居る者達は大方が新郎新婦の勤める職場関係者であり、私は其の誰も知らない。中学生時代に世界が広がったソフトテニス部を共に盛り上げた仲間は誰も居ないが、私だけが此処に居る。高校生時代に知り合った友人は遥々と地元から足を運んだと云うのに。此れが大人に成ると云う事なのか、絶対に認めない。
俯く黒い翁と共に登場した新婦も亦純白を身に纏っていた。肩まで覆うベール越しに、癖の付いた揉上げが妖しく揺れる。下唇を噛む様に口を結び、切り揃えられた前髪に隠れた眉間で少々顰め面の膨よかな女性だ。紅潮する頬は化粧だけの所為ではあるまい。有象無象は片手でスマートフォンを掲げ、一斉にシャッターを切り始めた。此の舞台を永遠の物にしようと撮影する事に一心不乱である。其の様に私は如何しても眉を顰めずには居られない。敢えて云えば写真が嫌いだからだ。写真を撮る者も大概は嫌いだ。勘違いして呉れるな。写真其の物が疎ましい訳では無く、私が映る全ての写真が煩わしいのである。写真を撮る際には、楽しくも無いのに如何して笑顔を作らねば為らないのだ。抑々の疑問なのだが、撮られるとドッと疲れる。レンズを覗く者は其れでもシャッターを切ろうとする。其の厚かましさはピカイチと云えよう。忌々しいぞよ。
さて、結婚式の次第は以下の通りである。奏楽から始まり新婦が入場すると一同が起立する。一同で歌いたくも無い讃美歌三一二番を歌わされ、牧師が聖書の一部を朗読する。祈祷し結婚の勧めを謳い、一同が起立の下誓約し、指輪が交換される。再び牧師が祈祷し、新郎新婦は結婚誓約書に著名する。結婚が宣言されると、一同で亦歌いたくも無い讃美歌四三〇番を歌わされ、祈祷に後奏と恙無く進み、遂に新郎新婦は退場と為る。其の所要時間は三〇分程度の呆気無い物だった。
牧師は両手を天に掲げ愛を賛美した。コリント人への第一の手紙第一三章からの引用を高らかに謳う。
愛は寛容であり、愛は情け深い。
また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない、
不作法をしない、自分の利益を求めない、
いらだたない、恨みをいだかない、
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、全てを忍び、全てを信じ、
全てを望み、全てを耐える。
私は純粋に牧師の言葉に耳を傾けた……彼の独特な抑揚に乗せ発せられる言葉は勢いが良く、希望に満ち溢れている。そんな未来を予感させる物だった――が、非常に残念である。其れは言葉で縛る事に他為らない。言葉に頼る事で此の世に有る物だと錯覚させられるからだ。愛と云う幻影に、誰が云ったか愛と云うレッテルを貼り付けた。そう云う刷り込みが此の世の中には反乱している。跋扈しているのだ。
私は全てを放棄し、全てを懐疑し、全てを絶望し、全てを擲つ者である。全てを忍ばなくても良いし、信じなくても良い、望まなくても良いし、耐えなくても良い。如何してそんなにも抱え込まねば為らないのだ。ヒトは浅ましく嫉み高ぶり誇り、不作法であり己の利益を求め、苛立ち恨み、不義を喜び、真理を喜ばない。何故に事実に眼を向けず、綺麗事ばかりを羅列するのか。仮に理想であったとしても、其れを他人に押し付けるべきでは無い。其れが高ぶりだと自覚して呉れ。結局の処、愚か者は自分が何を語っているのか分からないのだ。此れは無知の知に通ずる。無知自体が悪では無い。其の状態に陥って居るのだと云う自覚を抱けない事、即ち“無知の不知”が悪である。私が態々云うに及ばない:烏滸がましい事だ。
挙式は終わった。司会に誘導されるが儘に会場の外へと出ると、花弁が手渡された。此れでも喰らえ! 其の花弁を新郎に投げ付けて遣った。集合写真を強要され、皮肉にも中央に立つ私が居た。一層と苦笑いが際立つ。
披露宴が始まり、御待ち兼ねの昼食だ。此の為にとは云わないが朝食を抜いて来た。テーブルに添えられた私の名前が記されたカードを見下ろした。此の席が私の物か……座席に朱色の袋がある。如何やら引出物の様だ。座席に下に置き、私は腰を下ろした。同じテーブルを囲うのは旧友達だ。結婚式のマナーを語るウェブサイトでは隣の席の人に挨拶をしろと云うが、全くそんな事には為らなかったのだ。余計な心配をして終った。
お色直しを終えた新郎新婦が空中階段に登場した。新郎が新婦の手を取り優しく誘導する。新婦は水色のドレスに着替え、新郎はアイボリーのタキシードは相変わらずチョッキとネクタイを水色に変色させただけであった。
漸く食事が運ばれて、キタァー! 八つに区切られた此の一皿を八寸と云うのだろうか、工夫に凝った八品が私の視界を彩る。では、どれから食べようか↓
①┃②┃③┃④
━━━━━━━━━
⑤┃⑥┃⑦┃⑧
①赤ピーマンのムースと帆立貝の雲丹和え、②南河内産栗と秋芋 煮牡蠣添え、③蟹のブイヨンと地卵のアングレーズ、④トマトとラズベリーのエキス、⑤日本酒と豆腐のガトー 白海老とモロヘイヤ、⑥蛸とツブ貝のガルムナリネ、⑦昆布〆め鮮魚とヨコワ、⑧無花果と鰻とフォワグラのユール。
全品一口サイズなので、ヤミィ~♪、ペロリと平らげた。蕎麦しか食べない此の舌には美味過ぎて贅沢過ぎる!
次からは一品ずつ運ばれる。メニューには以下の様に記されてあった。
天然鰤のミ・キュイ 冬瓜 雲丹のブルイエ 軽い泡立ち、山葵のフランと枝豆のヴルーテ ラングスティーヌのスイート唐辛子 生姜のリゾットをあわせて、鮮魚のカルタファタ包み 黒豆タプナード 海苔とズワイ蟹の味わいをあわせて、赤紫蘇のグラニテと紫蘇のソルベ “スウィート キッズ”、国産牛フィレ肉のロッシーニ“mitte style”、艶姿の新婦から皆様へ 幸せのウエディングベル、特製パン、コーヒーまたは紅茶。
持て成される全ての料理が美味い。舌の肥えてない私には味の幅が狭く、何でも美味く感じるのだ。マーベラス! 舌の上で味が弾けた。蕎麦を啜る日々が霞み、料理で感動した瞬間であった。
焼き立てのパンは何個でも貰える――はい(挙手)、お代わりを頂けますか?
此の様に食事を摂り乍ら披露宴は取り仕切られた。新郎の勤める会社の社長や上司が檀上し挨拶を述べる。新婦側も同様である。彼等は一様に新郎新婦を称えた。当たり前か、祝いの場で貶める輩は其の場に相応しくないのだ。スクリーンに映像が投影された。此の場に出席出来なかった者達の“祝い”の言葉である;私の口から出るのは“呪い”の言葉である。其の中に私達旧友の顔は無かった。矢張りアウェー感が半端無い。先にも触れたが、旧友で一つのテーブルを囲んでいる為に棲み分けを余儀無くされるのだ。良いだろう、元々馴れ合う心算は無い。今日限りの事だ……そう考えたら、亦淋しさに襲われた。
シャンパンやビールを呑んで美味しい料理を食べ、私は独りで良い気分に浸って居た。新郎新婦の居る此の場こそに幸せが充満する。其の象徴に対して素直に祝福したいと思った。其の瞬間だけは少なくとも間違いなく純粋な私で居られた。然し黙って居ると逆に心配されたりする。其の理由は成人式に起因するのだが、手短に云うと私は真逆の当日悪酔いして周りに迷惑を掛けて終ったのだ。其れ故に私には酒を呑ませるなと云う事に為った訳である。複数の酒で悪酔いすると身に沁みたので、今ではビールしか呑まない様にしている。他が呑みたくなった際にはアルコール度数が低い物を選ぶ。此れで悪酔いしなくて済むのだが、其の味わいは実に味気無い。私はビールが嫌いなのに、如何して飲みたいと云えようか。赤ん坊のおしゃぶり、大人の煙草と似た様なもので、ビールなどと云う物は安心感を与え、其の場を乗り切る為の小道具として利用されているに過ぎない。飲むなら珈琲が良いのだ。
新婦の父親が檀上し――おや、トランペットを掲げているではないか。長年嗜んだ趣味らしい。其の父親がトランペットで曲を演奏し、母親が歌うと云うのだ。用意は周到で、其の曲の歌詞カードが配布された。受け取った紙に視線を落とすと、一と二と数字が羅列しているではないか。お察しの通り、私達に二番を謳わせようと云う魂胆である。いやはや、其の歌詞が途轍も無く臭い。結婚が今生からの別れの如く謳う古臭い価値観を抱いて居るに違いない。此れを歌えと云うのだから、幾ら新婦の御両親の要望でも致し兼ねる。私の拒絶反応を余所に、お世辞にも上手とは云い難いトランペットが奏でる旋律に、母親は其の歌詞を乗せ始めた。如何にも為らない現状に、最早抵抗は許されなかった! 観念した私は謳いたくも無い歌詞を口遊んだのだった……。
終に披露宴は新郎新婦のキャンドルサービスを以て幕を下ろした。
会場から放り出された私達五人は新郎と二次会を開けないものかと会議していたが、矢張り勤務先の上司や同僚達が優先された。然し事情を伺うと、何次会かは知らないが、一九時から飲み会が開催される事が判明したので、其れまで時間を潰す事にした。其の手段は得意のカラオケである――否、私が得意と云う訳では無く、精神的貧乏人が貴重な時間を無駄にする陳腐な実例だと云う意味である。私は其処に呪いを込めた。而して一九時前に飲み会の会場を訪れたが、私は仄かに芳しくない雰囲気を嗅いだのだった。新郎の挨拶で始まり、気軽な飲み会にしましょうと云い乍らも、其の挨拶が全く以て堅苦しい! 私は開きたくも無い口を開き、其処に茶々を入れる破目に為った。
私達は新婦と同席し、馴れ初めを訊いた。新郎に対する第一印象は興味深い事に否定的だったと、スクリュードライバーを片手に語る。猫背でナヨナヨしていたのが気に喰わなかったらしいが、其の最悪の印象が或る時を境に一転して終うのだから、実に面白い。何と目元に落ちた影だと謳ったのだ。意味が分からない!? 詳しく訊くと、彼女は新郎を鬱陶しく想い乍らも、彼の傍に居る心地良さを感じて居たと白状した。成程、其れが結婚の条件なのかと、何処かで聞いた台詞に納得するものの、其れでは影の件は一体何だったのかと追及すれば――或る飲み会の際に、新郎の被っていた帽子が目元に影を落としていたのを視て恰好良いと思った……と、惚気たのであった!
指針が二〇時半に指し掛かると私達は腰を上げ、帰り支度を始めた。突然の参加にも拘らず、快く受け入れて呉れた感謝を述べた次の瞬間、其の発言は過失だったのだと後悔する感情に激しく揺さ振られた。其れと同時に、財布の口に添えた手は凍っていた。幹事が要求した会費は如何見積もっても糞高い。提供された料理の質やサービス、滞在時間を考慮したとしても、一見の私達に対して一律で請求出来る金額だとは到底考えられないからである。其の額にして四〇〇〇円也!!! 二〇人弱は居たであろう会費として考える以前に、提供された料理の質を踏まえれば、飲み放題食べ放題であっても二〇〇〇円が限度だろう。其の料理とは揚げ物ばかりの冷凍食品であると云わんばかりの開き直った冷め様であった(苛)! 此の居酒屋の経営態度や幹事の態度迄もが、私の眼には確かな悪だと映し出された。一方的な云い分を許しては為らぬぞよ。互いの意思疎通無しには物事など解決出来ないのだ。店側は客が抱く四〇〇〇円分の価値を見出さねば、没交渉に陥りクレームが寄せられるだろう。其れ故に、店側の事情に因る金額設定ではなく、客が決める云い値にすべきである。客に満足を提供出来ぬ店が如何にして存続出来ようか。此の出来事は終わった事であるが、今後も経験するはずの為、忘れずに居たい。
財布から未来が消え去り、絶望だけが残った。私を追い込めて、そんなにも楽しいのか!?
コホン(咳払い)、貧乏ならば命を懸けねば為らない。有限である命とは寿命であり、寿命は年齢で測定されるからだ。年齢は一年で増加し、一年とは三六五日や八七六〇時間、五二五六〇〇分、三一五三六〇〇〇秒と云い換えが、当然の如く可能なのだ。故に命は時間である。
其処で現代に於ける金の生み出し方は、雇用関係を前提に踏まえれば、拘束時間が物を云う。一日八時間の勤務を五日間繰り返し、残業が当然だと見做す会社では週に四〇時間以上も縛り付けられる。而して約四週間を遣り過ごすと一ヶ月の勤務を全うし、遂には給料が雇用先から支払われるのだが、一ヶ月に一六〇時間以上の時間を掛けねば為らない。詰まりは一六〇時間以上の命を削る訳だ。金を得る為だけに! 何と虚しい事か。
其れ故に、私は貧乏ならば命を懸けねば為らないと云ったのだ。
梅田から南海本線高石駅まで徒歩で移動した場合、信じられるだろうか、約五時間も掛かるのである。電車だと――JR大阪駅環状線内回りから八駅一七分、新今宮駅南海本線区間急行に乗り換え三駅一三分、羽衣駅で各駅停車を待機した後、一駅二分で高石駅に到着する迄の所要時間――四六分しか掛からない距離だと云うのに!!! 因みに、私の地元である鳥取県へ帰るにしても、拘束バスでは約三時間半しか要しない。電車料金五六〇円に対して、私は皮肉にも約五時間の命を削ったのだ。
人類は行動範囲を広げ過ぎた。其の広げ過ぎた人類の子孫である我々は先祖を呪う。命を金に換える事を余儀無くされる現代人は金の価値が数字で変動する度に右往左往する脆弱な存在に成り果てた。地獄でも金が物を云うのに、此の世で金を使って如何する。仮に使うにしても遣え。此の差異を説明出来れば苦労はしないだろう。上に命は時間だと記したが、金に換えた命は物事の効率化を促す。
一時間一〇〇〇円のアルバイトを五時間する場合で考えてみる。無事に乗り切れば五〇〇〇円が手渡され、此の五〇〇〇円を所持金として料金五六〇円分の電車に乗って移動すると、四六分が掛かると云った。五六〇円は五〇〇〇円の約九分の一の金額だが、命に換算すると約七時間に相当する。徒歩で約五時間の命を削った私は、電車で移動した場合の私と比較すると、約二時間も早く死ぬのだ!!! 此れは既に絶望すべき事実である。
最後に、帰路の途中で異界に迷い込んだ事に触れて置きたい。真に単純な話ではあるのだが……。
南海本線と南海高野線のターミナルは二線共になんば駅だが、徒歩で移動すると、なんば→新今宮→天下茶屋と停車駅が被る。然し次の停車駅は本線ならば粉浜駅であり、高野線でならば帝塚山駅である。詰まりは岸里玉出駅を過ぎた辺りに境界が存在するのだ。実際に過去二度も徒歩で帰宅した経験を持つ私だが、三度目となる今回は移動時間帯が深夜だった事も相俟ってか、視える景色が随分と様変わっていた。見覚えの無い街角に、私は不安で押し潰されそうだった。幾ら街灯が道を照らしたとしても、私の眼には“未知”にしか映らない。南海本線の線路に沿っていると思い込んで居た不幸を知らせたのが、帝塚山駅の駐在さんであった。深夜のお勤め、お疲れ様です(ビシッ)!
お蔭様で異界に閉じ込められずに済んだ訳だが、私の云う異界とは結局の処“未知”なのだ。普段見知った光景でさえ時間帯が異なれば、見知らぬ風景に異界が生じる。秋には樹木から葉が落ちる様に、砂漠化は徐々に拡大している様に、一〇〇〇年後の未来には人類の建造物も崩壊しているかも知れない。
南海高野線帝塚山駅から本線粉浜駅に移動する其の途中で、私は確かに境界に触れた。其の境界に在った物が明治天皇聖躅碑と云う石碑だ。帝塚山古墳を囲む近代的な家屋が密集した(?)住宅街の中央付近に位置し、阪堺電軌阪堺線に通ずる抜け道の住吉区帝塚山西二丁目一〇番地に、其の石碑は立てられている。
異界が開かれる時間帯は夕暮れや丑三つだと云われ、其の場所は病院などの廃墟や海に川が流れ込む浜辺、山の峠や神社は云わずもがな、今回の例には辻が当て嵌まるだろう。細い道路だが十字に交叉している。然し乍ら時間帯が如何にも異なる。当日に記したメモを頼ると、二二時半頃に高野線帝塚山駅を、午前零時には南海本線堺駅を通過し、二時には遂に帰宅しているのだ。二二時半頃にも拘らず異界に迷い込んだと為れば、私の抱いた“未知”と云う感覚と不安とが混ざり誘ったのかも知れない。
「あら、今晩は♪」
私はハッとして俯いた視線を持ち上げる。街灯に照らされた赤煉瓦の壁を這い、幻想的な窓格子が現れたかと思うと、其の先に浮かんだのは黒髪の煌きであった。逆光の闇は彼女の表情を隠すが、私は愛らしい雰囲気を嗅いだ。異国其の物の建築を直接輸入したかの如き屋敷が聳える。其の窓から、彼女は私を見下していたのだ。
「はい、今晩は。素晴らしい雰囲気のお家ですね」
「そうね。でも、私が造ったんじゃないから」
「では誰が?」
「お父様が」
「良いセンスをお持ちですね。きっと貴女にも受け継がれているはずです」
「そうかしら。視た目に寄らず私、結構ガサツよ」
彼女の声の調子が一気に低くなった。興が醒めたのだろうか。
黒髪を指先で弄り乍ら、気怠そうに云う。
「貴方、此処の住人じゃ無いでしょう。匂いで分かるわ」
「確かに僕は鳥取県の出身ですが」
彼女は頭を振り、呆れた仕草をした。溜息まで吐くとは許すまじ。
「違うわ。そう云う事じゃないのよ――もう良いわ、さっさとお行きなさい」
手の甲であしらわれ、此れ以上の会話は無駄であると私は諦めた。歩を進めると辻に差し掛かり、其の脇に石碑を発見した。此れこそが明治天皇聖躅碑だったと云う訳である。何時しか此の石碑は道祖神の代わりを果たす様に為り、境界の線引きを担って来たのだ。其の境界線を越えた先が私の迷い込んだ異界であった。
此の感覚を手放さなければ、何れ私はシャーマンになっている事だろう。ではシャーマンに成って何をするのかと云えば、異界を旅して一冊の本に纏める。此の世だけでは無く外の世界を開拓し、人類の築いて来た世界観を根本から破壊し、此の世の柵を引き抜き、界と云う界の流れを統合し、新たな理に命を吹き込むのだ。人類は新たな段階に到達するだろう。此の閉塞感を打開するには崇高な意志を持たねば為らぬ。
進化や革新とは精神的な活動の跳躍である。
面前の階段を一段でも多く登れ。常に下段から崩れ落ちているのだから、振り返っている暇は最早何処にも無いのだ。