06.ヒトを止め故郷を想う◆宇宙地図。
日本で流行するはずの無いデング熱が流行っている様だ。何日か前の昼のニュース番組で三〇人以上の発症者が出たと報道していた。政府は蚊に刺されない様にと警告を鳴らすが、自慢では無いが私は毎晩蚊に刺されているのだ! 涼しくなったが、未だ寝苦しい夜である。
実は私には蚊を察知する能力が有る。眼の端に黒い影の残像が映ると、決まって居るのだ。仏教的には殺生は厳禁だが、一匹仕留める度に一匹ずつ何処からとも無く湧いて出て来る此の不思議! 此の上無く不快である。特に扇風機が回して居る時には大人しい癖に、タイマーで羽根の回転が止まった途端に、好機と感付き、私の太い血管に突き刺し、無銭飲食を働くのだ。私が自慢出来る事と云えば、血管が太い位だろう。勿論他人から褒められれば、良い気に為らないはずがない。其の経験を他人に話したくて仕様が無い者だから、黙って居られないのだ。まあ、此れが愚か者の行いだが、話したくても話す相手が居ない不幸の下に居るのが、他でも無い私だ。
子供の頃は何も持って居なくても、周りに友達を作る事が出来た。然し今を視よ! 周りには誰が居る? 独りだ。誰にも分からないだろう――此れが孤独だ。年齢を重ねるに連れ、金が掛かり、金を使わない事が出来なくなる。其れは世間が金を求めているから、払わなければならない現状を変えられない。例えば金が無いのに、無銭飲食をしてしまった事例を考えたい。働けよと声を上げる方々を思い浮かぶ。彼らには働けば金が対価をして支払われると云う概念が根付いているに違いない。然し働くにしても段階を踏む必要がある事を思い出せ。応募し面接を受け会社に認められなければ、労働は叶わない。安易に働く事は出来ないのだ! 此処で無銭飲食である。無銭である事が悪ではなく、働く許可を得て居ない事が悪ならば、如何して飲食した後に代金の相当分の労働力を提供しては為らないのか。此方には働く意思が有るにも拘らず、許可を与えないのは其方ではないか! 悪とはどちらの事か。今一度、問い質したい。
働かない事が悪ならば、人手が足りなくなった際に、店頭で呼び込める体制を如何して社会は作らないのか。面接を受けて、特定の会社だけに入室許可を求めるのなら、此の姿勢は働く事では無く、或る特定の団体に所属せよと云う事である。真に働けと云うのであれば、視界には前者の様な世界が広がっているはずであるが、悲しいかな現状は後者なのだ。許可制だと云う事か。
酷く話が逸れてしまった。蚊の話だったのに……。
酷く驚いた。何故なら何時もは蚊だったはずなのに、如何して今回は選りにも選って蜚蠊なのだ!! 奴を視界に捉えた瞬間に、身の毛立つ程に躯が動かなくなる。何処から現れたのか、エアコンの上部から飛び立つ一部始終を私は視た。網戸の隙間から侵入した可能性が高いが、エアコンの外部に出ているチューブから侵入して来たなど、余りにも考えたくない可能性だ。一つ幸いな事があった。其の蜚蠊は宙を舞いはしても、私の領域と知ってか、畳を這う事はしなかったのだ。問題はどの様にして撃退するかである。私には良い案が思い付かなかった。目を瞑って視ても、近寄って来ているのではと気になるし、此方に飛んで来れば団扇で叩き落としてやろうかと準備はしていても、動きが素早い分、其の様に怖気付いてしまう。私は情けないのだ。
話を逸らす。此の蜚蠊への拒否反応は如何にして形成されたのだろうか。蜚蠊の方が我々祖先よりも優れた時代があったと云う事なのだろうか。虐げられた時代が! 蜚蠊は姿を変えずに生き残ったらしいが、どの時代にまで遡れば良いのだろう。学の無い私には分からない話だ。誰か教えて欲しい。
蜚蠊は如何やら壁紙を滑って登れない様だ。剥き出しの木製の格子を伝い、触覚を機敏に働かせ、前進して行った。私の存在には気が付いているらしく、避ける節を何度も見せる。触覚が世界を把握しているのだ! 恐ろしい。窓枠の隣には襖で仕切った押入れがあるのだが、奴の進行方向が正に其の方向なことも幸いして、私は「飛んで火に入る夏の虫」作戦を決行した。作業は至って単純だ。襖を少しだけ開けて置けば良い。其れだけである。而して奴はまんまと中へ這入って行ったのだ。其の瞬間を見計らって、すすすっと閉じた。遂に奴を閉じ込める事に成功した私は勝利に喜んだのも束の間、何と出る隙間も与えて居ないと云うのに、奴は不敵にも押入れから脱出してしまった! 襖の隙間を目視で確認した甲斐も無く、奴は私の目の前を忌々しくも横切った。羽根で独特な音を奏で乍ら……。奴も結局は蟲だと云う事だ。電球の光を目指して、ウロウロとしていたのだから。そして興味深い事に同じ行動を取るので、私はシメシメと襖を開け隙間を作った。其の隙間に奴が亦這入り込んだ事は想像するに易い。斯くして現在に至る訳だが、襖の向こう側に奴が居るかは最早シュレディンガーの猫と被る。
疑問は閉じ込めたにも拘らず何故出て来られたのか、だ。勿論きっちりと襖は閉じた。心算では無い。其れでも脱出された。揺るぎない事実である。其の事実を疑わずに考えると、可能性としては此の部屋にはもう一匹侵入者が居たと云うのだ! 然も行動が一緒なので、奴等は思考せずに身を置いている環境下に反応する事でしか、行動出来ないと視た。唯一関心した事は彼れ程までに触覚を震わせて、世界を把握しているのだと云う事。壁紙に滑っている仕草からは幾ら発達した触覚でさえ、脚を使って登らないと分からないと云う事が分かる。詰まり視覚は優れていないに違いない。視覚に頼らない空間把握力には羨ましからざるを得ない。
私は視覚を疎ましく思っている。視る事で疲れる事が多いからだ。五感を封じる事が出来れば、多分時間をも凍結出来るはずだ。時間が無くなれば、死が無くなり、命も無くなるだろう。飽くまで死するモノを命と呼ぶならばの話であるが。
話は変わる。金持ちと貧乏人には異なる点がある。誰もが同じだと、気持ちが悪い事此の上無い。そう云う事ではないのだ。貧乏人は貧乏人の儘であり、金持ちは金持ちの儘である。此の差は何なのか。其れは知恵だ。金の使い方と云う知恵の有無が両者を分ける。此れは既に定めに近い。無知以外に絶望的な状況があるのだろうか、否無い! 金の消費は工夫しなければならない。其の工夫を施せないのが貧乏人なのだ。抜け出せない所以でもある。私は後者で金の使い方を知らない。
金の使い方を知らないと云う思考自体が頂けない。使い方と云う事は使う前提での表現だ。使えば金は其の分無くなる。私達現代人は金を使わない事が出来ない。ならば、どの様にすれば、為るべく金を使わない様に生きられるのかを模索すべきではないのか。仮に手持ちが無い状態でも適用できる方法が好ましい。
使わない様に生きなくても、手持ちが増えれば余裕が出来、楽になれる……果たしてそうだろうか。現実は其の様な構造に必ずしも仕組まれていない。幻想だ、妄想だ。凡人は懐が温まれば喜び、其の分を食費に使う事しか考えられない。上等なモノを喰う。正しく精神的貧乏人の思考である。豚が牛になるだのと、其の程度の下らなさにイライラするのは私だけでは無いはずだ。腹を満たすのに態々高級レストランに足を運ばなくて良い様に、食欲を満たす事が出来れば、何を腹に入れたって同じだ。故に、その点に限っては金を掛ける事が愚の骨頂。阿呆。食費の出費を工夫しなければ、他の面での工夫や改善は期待出来ない上に、能力も向上しないのである。是非とも思考力や改善力を身に付けたいものだと口にするのは簡単だが、何に置いても実行力を必ず要する。忘れるべからず。
最近、雨天が多いのは周知の通りである。御負けに瞬間降水量に半端が無い。更に天気予報も当たらないのでは何時降るのかも定まらない。正直参っている。午前は晴れて陽射しが強かったのに、午後の夕方頃には雷が鳴り響き、私をビク付かせた。勿論其の後は大降りである。突発的な降雨の印象が強い。ゲリラ豪雨と云う奴か。天候が気に為るのは自転車を通勤に利用しているからだ。傘を差し乍ら、或いは音楽を聴き乍ら自転車を漕ぐ危なさを認識した世の中になったのは喜ばしい変化だが、常に移動手段を自転車に縛られている身分としては雨に濡れるのに慣れては居ても、雨天自体は歓迎しない。合羽を羽織れば済む話では無い。私は着心地の悪い合羽が大嫌いで、彼のごわつく感じが嫌いだ。其れに粋を感じないのも一つの要因に加えよう。別に合羽が悪い訳では無い。寧ろ拒絶する私の心に問題が有ると云える。空を視て晴れていれば心も晴れる様に、私の心模様は常に(?)空模様を反映しているのだ。驚くには値しない。私の心は空だったのである! 誰が心の中は覗けないと云った。感じる迄も無い、現に私を包み、見上げれば其処に在るではないか。晴天、雨天、曇天(?)、雷天(?)、雪天(?)などと空は様変わる。私の心も様変わるのだが、其の様は曇天(?)一色であり、晴れる事が稀な程だ。晴れはするが直ぐに曇る。雨天に為らないだけ増しだと考えたい。
夏の気配は何時の間にか何処かへと消えた。日中は少々暑くても、夕立が降ると気温は急激に下がる。而して秋へと移るのだ。徐々に季節は廻り、其の境目は曖昧なモノである。
私の周りで蚊がうようよ飛び交っている。何故こんなにも多いのか苛立ちを隠せない。デング熱の流行に伴い、個体数が増えているのだろうか。毎夜、何ヶ所も刺されているのに発症しないのは幸いである。刺される事が避けられないのならば、何れ私も罹るはずだ。国内で未だ死人が出たなどと聞いてないので、罹ったとしても死ぬ程ではないと云う事か。或いは報道規制が施されているので、市民は知る由もない。だから、私は何も知らない。
蚊を潰せば、血が噴き出す。掌にべったりと付着した。蚊の血は何色だ。此れが私の血の色である――赤。
無条件に私を潰す存在は居ないのか。何処だ。一思いにやって呉れ。
私は蚊を潰す。命の血を盗まれたからだ。潰したとしても取り返す事は出来ない。血は経口摂取しても血管に流れないからだ。其の怒りに堪え切れず、蚊を殺さなければ気が済まない。ならば、取り返せない物を奪う事で私は潰されるはずだ。では、取り返せない物とは何だ――時間、命、心、言葉、信用、意欲、意志、知恵、過去、可能性、貞操、童心、無垢、笑顔……。此の中で奪っても罪に為らない物を奪えば良い。而して私は潰されるが、罪を犯す事だけは回避出来る。
以前にも触れたが、現在は漫画から離れている。勿論描いていた訳が無い。専ら読むだけの受け手だ。次に止めようと考えて居るのがテレビ鑑賞である。電気代は掛かるが、視聴する分には代金が発生しないからだ。テレビ鑑賞の目的は娯楽では無く暇潰しである事を十分に思い知っているのに、未だ止められない。其の理由は単純で、何か得られる物が有ると信じているからだ。実際には只時間(命)を失っただけで、真面な情報は疎か身になる物は何も得られなかったのである! 他の理由は不要だ。
仮に私の視界が余りにも狭窄で、役立つ情報や知識が沢山込められているにも拘らず、此の視界で捉えられないばかりかそうとは見做す事が出来ないのならば、其れはもう絶望である。無い物を追い掛けている。哀れだ。視界に映らない物を如何して見出せるのか――私の躯は震えている。不安と恐怖。希望を抱けない。抱き方を知らない。自信――自信が無い事を自覚している自信が有るのだ。ネガティブ・コンフィデンスと名付けよう。
私と云う存在はネガティブ・コンフィデンスの塊だ。
全てを止めたい。始めたあらゆる事を、何もかも――。安寧を常に欲していた私は何時しか秩序を乱したくなった。朝目覚め、夜に眠るそんな事でさえ乱したい。定住も嫌になる。点で留まる事が嫌で嫌で堪らない! そう在る事の規則正しさと云う感覚を捨て去る事が出来れば、全てを乱し止める事に至れるのではないか。
ヒトを止め、人と交わらない。而して私と云う存在は認識されない。其れは死に同然だ。生き乍らにして死ねるのだ。苦しまなくて良い。人と係わるから厄介を招き余計に苛む。悩みの種を植える必要が何処にある。
世界地図を視るのではなく、宇宙地図を視るのだ。其の考えの元、地球が我々の家であるから、此の地球の何処に住もうと、家の中を歩いているに過ぎない。何ら変わらない。地球から抜け出す事が、本当の出家であり、全てを止める為の手段である。だから、此の家から此の脚で一歩でも外に出て、此の眼で其の景色を拝めない事に閉塞感を感じ、未来や可能性が閉じられた様で狂いそうだ……頼むから解放して呉れ。外に出して呉れ。息苦しいんだ。
肉体的な死を越え、此の世界の限界を超えた先の世界で生きる存在に、私は為りたい。其の世界こそが私達の故郷である。故郷を想う事は当然の事だ。元の世界に帰りたい――私よ、孵れ。