05.迷子の旅路▼東京編。
汗が噴き出し治まらない。決して夏の気温の所為では無い。
此の汗は焦りである。否、逸りだろうか。不断である。表現の幅の狭さが悩みの種だ。
汗が流れるのは仕方が無い。そうならば、綺麗な汗を流そうではないか。
私は東京に来た。東京の新宿中央公園で日陰に隠れ乍ら、夕方までやり過ごそうと云うのだ。
東京に居る実感は残念乍ら無い。何処か田舎の様に喉かであり、都会感とはどの様なものなのか、一度時間を取って考えても良い位である。
私の目先、人々が多様な目的を持ち行き交っていた。犬の散歩をする者や散歩に興じる者、そして勿論通勤途中の者達をも認識した。彼らの服装が語っている。言葉以上に其の態度が訴えるのだ。
態度が訴えるのならば、私は何者なのか。クールビズで上着を羽織らないが、ネクタイを絞めビジネスマンの出で立ちである。では、ビジネスマンが公園に居る理由は何なのか。陳腐な印象ではリストラクチャリングで会社を追われ、居場所を求めて公園に辿り着いたサラリーマンと云う処か――絶望的に陳腐である。ビジネスマンならばビジネスが生じる場所に居るべきであり、サラリーマンならば雇用関係を結んだ会社の下に安住しているはずであろう。
以上の考察から、私は会社を追われた哀れな社会人だ。此処では会社員とは云えない。何処にも所属していないのだから。では、果たして私は社会人なのだろうか……人は会社に属する事で給料を得て生活している。働く理由は“金が無いと生活出来ない”からであり、働けば給料が貰えると信じているからである。其れこそ哀れではないか。会社に属すれば給料が確保でき、働く事が通勤する事と誤解しても無理はない。日本では圧倒的に時間を犠牲にする事を働く事と取り違えている。八時間を超えて会社で働く場合はずるずると引き延ばす癖に、八時間未満の切り上げには目くじらを立てる。空気を悪くする。後ろめたくなる。此の様な感覚こそが、時間を犠牲にすると云う概念に由来しているのだ。
一度、時間を犠牲にするとは如何云う事なのか考えて頂きたい。人にとって時間とは何だろうか。私は断言できる――時間とは“命”である。故に時間は重要だ。どの様に時間を使うかが胆と為る。命から時間が生まれるのではなく、時間から命が生まれるのだ。時間が無ければ忙しく、ゆとりが無くなり心が死ぬ。命があっても時間なければ何も出来ない。繰り返す――時間とは命である!
其の時間を犠牲にして、労働に勤しむ訳だ。労働は大変だ。辛い事も私は経験している。では何故辛いと感じるのか? 楽しくないからだ。意味を見出せないとも云えるだろう。意味を見出すのは常に人であるから、予め用意してあるのではない。詰まりは解釈が絡む。解釈は受け手の印象によって異なる。私が意味を見出せないだけであり、誰かは必ず見出している。其の点に限って云えば、人によって視える世界が違うと云う事だ。然れど、事実は揺るぎない。其れが客観だ。
そんな事を考えるはずもなく、此の新宿中央公園で眠気に縋っていた。眠気に襲われている際は如何しても抗えない者だ。項垂れるしかない。意識は定まらず、眩暈に踊る。気持ちが悪い。委ねてしまえば楽なのだ。
私は大阪在住であるが、在住場所に拘りは無い。寧ろ、身を軽くして風に任せてしまいたい。生活していると、物が如何しても溢れる。現代の生活ならではだ。余計な物も多くウンザリする。ポストをゴミ箱代わりにチラシを投げ込んで呉れるな! 色々なモノを溜め込み過ぎている。此れからはモノを捨て、身を軽くする時代だ。足取りも軽くなるので、前向きに捉える事が出来る。此処に世界を変える切っ掛けが有ると、私は考えているのだ。何かを手放す事はそう簡単では無く、何かと悩む。抱え込むと執着が邪魔をするのであるが、手放してみると案外大した物じゃなかったのだと分かる。多分、執着を感じるモノに対しては全て当て嵌まるのではないかと思う。
此れまで私が手放したモノと云えば、先ずはテニスだ。中学生の頃から部活動で軟式を始め、高校では硬式に変更した。高校最後の年には部長を任された。大学に進学してからは一切しなくなった。どの部活動やサークルにも所属しなかった。其れでも六年間続けたテニスに執着など湧かなかったし、未練さえも感じなかった。止めるまでは生活の大部分を捧げて来たのにも拘らずである! 次には漫画だ。大学生時代には食費を削減してまで漫画雑誌の購入に宛がった。私は単行本を余り買わなかった。一度読み終えると、急に興味が冷めるからだ。だから私には雑誌が似合う。此の側面だけは能く分かっていると、自分を褒めたい。では、月にどれ程漫画雑誌を読んでいたのか挙げてみよう。
週刊少年マガジン、まんがタイムきらら、まんがタイムきららキャラット、月刊コミック電撃大王、コンプエース、ジャンプSQ、月刊コミックアライブ、ドラゴンエイジ、コミックヴァルキリー、good!アフタヌーン、電撃萌王、E☆2。
手当たり次第であった。此れ等の漫画雑誌に加え、日本経済新聞や月刊科学雑誌Newtonを購読していたのだから可成りの貪欲さだが、遣っ付け作業になっていた事は否めない。読み続ける事で時代に置き去りにされない様にと強迫観念紛いなモノに囚われていたのかも知れない。
今となっては漫画雑誌の一切を読んで居ない。読まない事は怖かったが、一旦離れてみると何て事はなく、肩の荷が下りたと云う只管に解放感のみであった。気追わなくもなった。良い事だ。此の経験は私の価値観を大いに揺さ振り、お蔭で獲得したモノを手放す必要性に気付いたのだ!
同様に何かに囚われる事も良しとしない。視野が狭まり、心も狭くなるからだ。
本題に戻ろう。新宿中央公園にはホームレスが居た。否、ホームレスが本題ではないのだが、ホームレスを視ると自分自身を視ている様で、他人事に思えないのだ。仮にホームレスになれば、私も公園に足を運ぶだろう。実際に三日間公園で野宿した試しはあるし、其れは其れで酷な経験だった。出来れば陥りたくない状況だ。寝床が確保出来ない不安は途轍もないのである。此れは経験なしでは語れないが、語らなくて良い話でもある。そんな事もあり、何かと複雑な心境に苛まれた。私の心にホームは無いのだ。
夜行バスを予約するには直前だと手間が掛かる。と云うのも、皆安いモノ好きだからだ。然し、夜行バスに限っては安かろう悪かろうであった! 行きの便では座席の間隔が狭く、前の背凭れを少しでも倒されると、膝に当たり足に疲労感が溜まる。寝心地は最悪で、眠れやしない。此の様に予算の違いで、居心地が変わるのだから、悪意の無い差別に舌を噛み締めるだけでなく、此の手段しか取れない自分を呪った。金が物を云う時代だ。金がなければ、選択肢すら消えて行く。金銭感覚も世界の視え方を変えるのである。結局、私は行きの便に七〇〇〇円を投じ、帰りに四二〇〇円を注ぎ込んだ。何故帰りの便が安いのか!? 居心地は正直帰りの便の方が良かった。詰まり利用料金は予約を早く済ませたか如何に掛かっている。スケジュールの運用能力が問われていたのだ! 嗚呼、何と云うべきか。
乗り物を信用出来る人が此の世にどれ程居るのだろう。私は乗り物に弱く、基本的に乗車中には不安で居た堪れない。何時事故を起こすかも知れず、絶対の保証は何処にも無いのだ。かと云って、利用しない訳もなく、頼らなければならないのが現代の常である。移動時間の短縮が最たる理由であろう。勿論他の選択肢も挙げられるが、其の中に徒歩が数えられる事は稀だ。電車が通って居れば、自転車で一時間を掛けて行く道則に耐えられない。徒歩だと其の道則は三時間位要する事だろう。世の中、徒歩で三時間も掛けては居られない。仕事ならば尚更だ。夏の炎天下に三時間も歩けば汗だくになるだろうし、汗臭くなれば先方にも迷惑である。更に仕事に費やす体力を移動で消費してしまっては本末転倒であり、馬鹿の極みなのだ。可能性は確かに無限大だが、時間や場所、そして其の場の状況(TPO)を考慮し効率的に判断すれば、答えは自ずと狭まり、可能性が無くなって行く破目になる。悲しいかな、現代の可能性は非常に狭い。否、何時の時代もそうだと思う。
公園の一角に「ひろこ」と云う名前から雌だろう兎が居た。穴を掘り巣を作る様だが、彼女は此の熱い中、地上で寛いでいる様に視えた。中々可愛い奴だ。
緑が多い。コナラ、スギノキ、モッコク、アオギリ、ヤマモモ、ケヤキ、メタセコイア、ユリノキ、オオムラサキ、ツツジ、メチバシイ、タカトオコヒガンザクラ、ユスラウメ、じんちょうげ、くちなし、こくちなし、やえくちなしなどが植えられている。
神社を発見した。熊野神社と云う。小さな池が脇にあるが、廃れて小さな金魚が二匹確認出来るだけだった。通勤途中に訪れるらしく、多くの方が参拝して行った。脇の小道から奥に二つの小さな祠へと誘われた。一つに稲荷仕様で四匹の狐が守っていた。もう一つには特徴が視られなかった。此れは知識が無い所為だ。関連する知識を獲得していれば、何かしら見い出せていたに違いない。世界を変えるとは経験に基づく気付きなのだ。
私も手を合わせた。何を祈ったかは秘密である。
約束の時間が迫って来た為に、移動を開始した。JR山手線新宿駅から秋葉原駅への単純移動だ。確か一七〇円だったと思う。何処でもそうだが、大阪で電車を利用する様に、東京でも特に変わった点は無かった。
此の度、東京への滞在は初めてだった。勿論家族旅行などでは訪れた試しがあるにはあるが、実際に独りで来たのが初めてなのだ。何分流通が発展している為に、東京に行かなければならない事情を探すのに苦労する。便利過ぎるのも如何なモノか。経験を奪っているではないか!? 私から経験を奪って呉れるな。唯一世界を変える突破口になるのだ。問題は未だ有る。どの様な世界に変えるのかが問題であり、どの様に世界を変えるのかは全く問題ではない。
現状を知る事が重要だ。例えば何処かへ行きたい時は、先ず自分が今何処に居るのかが分かって居ないと話に為らない。行先を把握しているのにも拘らず、自分の立って居る位置が分からないが為に迷子なのだ。此れ程までに滑稽な事があろうか。自分の位置さえ分かれば、行きたい場所へ何処へでも行く事が出来る! 全ては現状を知る事、弁える事である。
約束の時間は一八時からだった。緊張しなかったと云えば嘘だが、楽しかったと云えば素直である。私的には話が盛り上がり、結局の処終わったのが一〇時半頃だったので、四時間半にも及んだのだ。人生で最長の経験であった。其の後は夜食に同行させて頂き、貴重な時間を過ごした。然し有り難いで済ましては為らない。此の経験を活かすのだ。此のエッセーのネタに組み込んだ次第である。鋭く生きようではないか。
此処でも亦財力が私を苦しめた。明かそう。行き帰りの夜行バスは手配出来たものの、何と宿泊の手立てを用意して居なかったのだ! 否、自慢すべきではない。何せ軽々と野宿を考えていたのだから。誰にも勧める事など到底出来やしない。此の哀れさを包み隠さず打ち明けてしまえば、話は早い。有り難い事に泊まらせて頂けたのだ! わっしょい。
八月一九日は特に予定が無かったが、秋葉原へ向かう電車内で或る広告を発見した。渋谷駅、東急東横店西館八Fで大古本市が開催されていると云うのだ。私が飛び付かないはずが無い。偶然にも此の日が最終日で、通常の二時間早い午後六時までであった。泊めて頂いた感謝の意を伝え、昼間際に目的地へと出発した。到着すると、一気に気分は高まった。賑わいの熱気に当てられたのだ! 普段は近場の天牛堺書店の古本コーナーで漁るのだが、私独りと云う事も珍しくない。早々に幽霊実話怪談なる書籍を見付けたが、そっと棚に戻した。価格にして四〇〇〇円と云う代物であった! 三〇〇〇円位でどれ程の良書と出逢えるのか考えていたが、其の価格設定に度肝を抜かれてしまったと云う訳だ。情けないとは決して云うまい。
選び抜いた末に購入したのは次の五冊である。
・グスタフ・ルネ・ホッケ著、種村季弘訳、『文学におけるマニエリスム―言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術―I』現代思潮社、一九七五年
・K.セリグマン著、平田寛訳『魔法―その歴史と正体』平凡社、一九七九年
・佐々木宏幹/鎌田東二著『憑霊の人間学 根源的な宗教体験としてのシャーマニズム』青弓社、一九九一年
・セドリック・ミムス著、中島健訳『ひとが死ぬとき 死の百科全書』青土社、二〇〇一年
・大石道夫著『DNAの時代 期待と不安』文藝春秋、二〇〇五年
以上の五冊を購入した。合計三四〇〇円の出費である。安いかと云われれば高い。店員に訊いてみたが、出展元が不揃いな為に値引きは困難だろうとの事だった。少なくとも五店舗以上から出展されていたに違いない。満足していない訳では無いが、此の様に価格で線引きを設け、知識を得られる者と得られない者とを分別する其の体勢に疑問を抱かざるを得ない。仮に悪が潜んで居るとすれば、其の正体は“線”である。区分する其の線なのだ。では、其の線を誰が引くのか――出展元? 否々、私達読者だ。読みたいと思えば幾らでも払うだろうが、予算に合わないが為に断念してしまうのだ。予算を見積もるのは誰か――亦しても私達読者だ。ならば、悪を生み出しているのは私達読者ではないか!? 実に衝撃的である。
購入し終えると、椅子に坐って休憩していた。会場から出て、廊下の脇に備え付けられた椅子である。其の隣は宝石の出張店舗が陣取る空間だった。読書の傍ら、目の前で繰り広げられる鮮やかなセールストークに耳を傾けて居た。
「いらっしゃいませ。如何でしょうか? どれか着けてみたい物は御座いませんか? 遊んで行って」
女性店員は年配だ。眼鏡を掛けたショートカットのおばちゃんで、金のネックレスと腕時計が光る。胸ポケットに社員証らしき物を着け、ペンが三本も差されていた。冷やかしに対しては遊んで行けと云う。どれか気に入った物を着けてみませんかと。口調は穏やかで説明が丁寧だ。笑顔を絶やさない。否、時折見せる愛想の無い無表情を私は見逃さなかった!
「そうなんですよ……とんでも御座いません……着けるのは只だから……一期一会ね」
ぺらぺらと能く喋る者だ。
如何やらサマーセールのファイナルらしい。以下に文句が続く。
「通常一三万円の処、今回は五万円でご提供させて頂きます。明日には元通りですよ」
男性店員が熱心に説明を加えた。肌は色黒、全体を掻き上げた髪型をワックスで整えている。汗っかきそうな男性である。時折、談笑を交わす余裕は社交性が高いとの表れなのだろう。ジャケットはご丁寧に羽織っている。宝石店員にクールビズなど無いのか。若しかすれば単純に寒いだけなのかも知れない。何たって私自身がジャケット無しで、寒いと感じているのだから!
そんな事よりも、店員の発言に注目すべきだ。彼らは斯う云っている。明日からは通常の値段に戻るのだと、危機感を煽っているのだ! ネットで探して買おうと思ったと云う返答に、自信を以てお勧めするとの一点張りなのだ。ネットには同じものは御座いませんとも啖呵を切るではないか。品質や希少価値を訴え、ネットでは無く、今が買い得だと攻め立てる。
此の様に説得されてしまった主婦らしき女性は購入を決めたのだ。此の女性が説明を受けている間も冷やかしは何人か来たのだが、何の声も掛けられずに見守られるだけであった。例え冷やかしであったとしても、丁寧に対応するのが筋である。客が贔屓するのは構わないが、如何して店が贔屓するのか。セール中だと云う事を忘れて貰っては困る。客を贔屓して何がセールか。普段買えない客層に対して意識レヴェルを下げるのがセールの目的のはずだ。其れでも店が客を贔屓するのならば、其の意義を問い出たしては如何か。白状しよう。宝石の相場は能く分からない。一般的に宝石とは装飾品であり、生活には不必要である。宝石を身に付けないと死ぬなんて戯言は聞いた試しが無い。其れが事実だ。需要が無ければ売れないので価格は高騰する。需要が高くても供給が賄えなければ価格は高騰する。果たして其の様な価格設定は正しいのだろうか。欲しがる客層は確かに居る。其の客層に準じて価格が設定されているのならば、余りにも其の層に属さない者の方が多いだろう。
届かない処に手が届く様に為るのは誰だって嬉しい。子供の頃の出来なかった事が出来る様になる其の感覚に等しいのだ。勘違いしてはならない。宝石を手に入れる事は其の延長には無い。有るのは罠のみである。
もう此の話は止めて置こう。宝石など如何でも良い事なのだ。
改めて手元の書籍に目線を落とした。今読んでいる書籍は野崎昭弘著『詭弁論理学』(中央公論社、一九八〇年)である。
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―――――
MONEY
一〇六頁、消去法:パズルへの応用に掲載されている問題で、〇から九の数字を各文字に当て嵌め、式を完成させると云うものだ。暇な時にでも解いてみると良い。簡単だろうか。
遂に私は椅子から腰を上げた。池袋に移動するのだ。乗り遅れまいとバスターミナルで待機して居れば、確実だと云う訳だ。安易だが、此処の土地に昏いので仕様が無い。あと一時間もすれば、帰りの夜行バスがやって来る。もう少しの辛抱だ。コーラを飲み乍ら、色々と考えて居た。
帰りの夜行バスに乗った。二二時三〇分に出発だ。到着予定は翌日の六時一五分らしい。そんな事は如何でも良い。要は乗り心地が問題であった。正直に云うと、帰りの方が増しだった。然も帰りのチケットの方を安く手に入れていたのだ! ならば価格設定ではなく、バスのデザインが原因である。私達を荷物の様に扱い、詰め込めるだけ詰め込む。金の亡者よ。幾ら否定されようとも、乗り心地が悪いのだから、他に何と考えられよう。私は添乗員の言葉を確りと此の耳に聞き入れた。此の儘ではエコノミー症候群に罹ってしまう、と云ったのだ! 聞き捨てならない。分かった上で運用しているではないか!?
嗚呼、もうウンザリだ。全てが煩わしい。此の身を軽くして楽になりたいのだ。生きて居ると要らない物ばかりが増える。捨てるのは面倒臭いし、抑々欲しいと思って抱え込んだ訳では無い。埃に例えると簡単だ。部屋に溜まった埃を掃除機で吸い集め、塵袋に纏めて捨てる。亦部屋に埃が溜まって行く。其の埃を持ち運んでいるのは何を隠そう私自身なのだ。動けば動く程に埃は舞い込み、部屋の隅に吹き溜まる。生きて居れば塵は増えるのだ。私は塵が増えるとウンザリする。視た目は悪いし、臭いも悪い。何かに活用出来れば良いが、手間を掛けては居られない。
気付いて居ないだけである。私自身が塵なのだ。勝手に増えるはずは無いが、煩わしく手間が掛かる。何かに活用出来れば良いが、会社には認められず、自分と問答する日々を過ごす。人は私を社会不適合者と云うのだろうか。否、会社不適合者の間違いだ。誰しも選ばずとも何かしらの社会に属している。活用されない事が悪いのか……活用されるのは物である。私は物では無い。決して良い様に使われる物では無いのだ。私を物の様に扱って呉れるな!
私が求める物は何も手に入らない。分かって居るのに、如何してもそんな事は無いのだと信じたい。私は常に夢を見ている。其の内容は覚えて居ない。現実には目標が必要だ。夢は見ない方が良い。夢などあやふやなものだから、惑わされてしまうのだ。寝て居る時だけで十分である。私は夢を見過ぎた為に振り回されてしまった。記憶も曖昧で、今日が何時なのかも分からず、寝て居たのに起きていたのだと錯覚し、眼が覚めたら覚めたで疲労感に躯は音を上げ、逆に起きている事が辛くなる。眩暈が平衡感覚を狂わせる。意識が途切れる。どちらの世界が本物だ!? 意識の境目に迷い込んでしまったのだ。私は迷子だ。
さて、締める事にしよう。
夢は見ない方が身の為である。現実では目標を持て!
世界を変える事は出来る。経験を重ね理想像を描き、其の世界に視合うだけの価値観を形成せよ。
其の域に達すれば、世界は変わる。変えられるのだ!