03.不動滝と今滝に臨む。
2013年08月13日の出来事についての記事です。1ヶ月前を思い返しながら綴りましたので、記憶の程は鮮明ではありません。悔しい所ではありますが……。
東郷池と云えば、龍鳳閣を思い浮かべる。
小学生の頃、夏休みでお世話になった場所である。
ドラゴンスライダーなどがあるバーデゾーンを生業としていた。
友達と毎日通った。楽しくて仕方が無かった。
帰る際に肘や膝が血で滲んでいるのに漸く気が付く。
水で皮膚が潤け、打撲に因る内出血だったのだろう。
今だから実感出来る事なのだが、
大学を出て会社に勤める様になってからと云う物の、
実の意味で夢中になれる事など持てて居ないのではないか。
それが大人に成る事だと云われれば、其れまでである。
然すれば、私は大人になど為りたくは無かった。
その通り子供の儘で居たかった。
十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人と為り果てる。
故に私は只の人である。
大器晩成を願うが、蛇は寸にして人を呑む者なのだ。
到底蛇に為る事など叶わぬ。一層の事呑み込まれてしまいたい。
東郷池の湖岸延長は十km程である。
移動手段が自転車しか持ち合わせて居ない私は
移動時間が如何しても掛かってしまう。
その件に関しては、前向きに諦めている。
気にするだけ時間を無駄にすると云った意味だ。
因みに、本日の予定は不動滝と今滝の調査である。
調査と云っても彼方此方を写真に収め、
自分の眼で見る事を目的とした意味合いでの物だ。
その後は船上山を歩きたいと思っていた。
しかし、結論としては日が暮れた為に断念した次第なのであるのだが。
田後山に沿って、自転車を漕ぐ。
田後山と呼んでいるのは私が田後の人間だからだ。
この山は大平山とも云われている。
鳥取短期大学から登る道を行けば、大平山公園に近い。
その名を掘った石柱が目印となるのだろう。
今後機会を作り窺ってみたいが、
興味を引かれる何かが無ければ態々(わざわざ)行きはしないと思う。
県道二十九号線を進むと、燕趙園に目が向く。
立派な門構えを眺める事になる。
県道二十二号線の先の脇道を辿れば、目的地の不動滝と今滝は在る。
東郷池沿いを進んでいたかと思えば、途中からは山景色に切り替わる。
この隔たりが極端であり、精神的には少々堪える。
眺めは良いので、確かに眼の保養にはなるのだけれど。
この道の歩道は実に狭い区間が在る。
若しや歩行者が少ないと云う調査を基に、整えられたのかもしれない。
中央を分離する車線は在っても、
ガソリンスタンドの跡地からは白線が急に途絶えている。
三百m程先は道幅は拡がり、通学路の標識が在る事からも
整備が行き届いて居るのだと分かる。
両端の歩道も十分な幅が確保されていた。
「←方地」の標識を過ぎれば、
如何した事か此方は片方しか確保されて居なかった。
左側を通行する自転車の空間など在って無い様な物である。
自転車および歩行者専用の規制標識が無ければ、
今や歩道を走る事など叶わぬ。肩身は狭いのだ。
然すれば、自動車同様に車道を走らなければならない。
車道の脇を提供される訳だ。歩行者の存在を考慮すれば、
此れは此れで気楽な物なのだが。
と云うのも、歩行者は我が物顔で闊歩して居る。横一列になる。
当然の如く背後に注意の眼を向け様ともしない。安心しきって居るのだから。
この歩道は自転車および歩行者専用だと誰が知って居ようか。
甚だ疑問である。
直射日光を浴び乍ら、漕ぎ捲った。
「漆原→」の標識が示す脇道に這入る。
一時間に何本通過するのか分からない踏切を渡る。
目の前に広がるのは典型的な田舎の風景である。
埋め立てられて居ない田圃が在るだけで、何故か心安らぐ。
そして、此処には家屋が密集した息苦しさが感じられない。
のんびりとした雰囲気が良い。
私が住んで居る大阪の周りには確実に無い物だ。
機会を見付けて地元に帰るのは、矢張り愛しているからなのだろう。
その自然を、その風を、その香りを、その空気を。
無意識に求めている。全身に取り込みたいのだ。
三徳山の厳しい傾斜角度とは異なるが、
不動滝への道則も亦一筋縄では行かない物であった。
車道は狭く、立ち漕ぎでふら付く車体を如何にか安定させる。
息を荒げる。だが心は平静を装う。
――止めてしまえ。
ペダルから放し足を地面に突いて、トボトボと歩けば良いではないか。
道は続いている。どの様な手段であれ、必ず目的地へと辿り着く。
それは到着時刻が只遅いのか早いのかの差異でしかない。
それでも私は向き合って居たかった。
此処で足を突いて休んで終えば、確実に何かが終わる。
断念や妥協と云った理性的判断の類いではない。
真理を失うやも知れぬ危機的状況なのだ。
それ故私は必死だった。汗も噴き出す。
呼吸は乱れている。汗が頬を伝い垂れ落ちる。
タオルで汗を拭いたい――。
しかしハンドルからこの手を放す訳には行かない。
バランスを崩してしまう。
耐えろ、食い縛れ――、
――意識を掻き集めろ。
その時、背後から音が聞こえて来た。
自動車の騒音だ。悠々と追い抜いて行く姿が憎たらしい。
その様な奴等に私の姿は奇異に映るのだろう。
この一本道を如何斯うしたって迷うはずは無いのだが、
此れから向かう場所にはのうのうと到着した奴等が先に乗り込んでいる
と考える程に、冷静さが失われ精神は彷徨う。
心は既に此方には無かった。
均衡の崩れは車体のそれと平静の喪失を招いた。
鳥居からの距離は長く無かった。
眼と鼻の先である。
その鳥居を潜ると5段と15段の階段が不動滝へ導く。
その間には橋が架かっている。
始めの階段の脇には素麺が流れて来そうな竹の水路が窺えた。
流れ出る水に手を当ててみる。
――嗚呼、此れは冷たい。
それもそのはずだ。
この水は直ぐ其処の滝から直接落ちて来た物なのだから。
先に乗り込んで居る自動車組みを疎ましく感じ乍ら、
私も領域内へと足を踏み入れた。
飛沫の音が木霊している。
蝉の鳴き声が混ざり響く。
此の1つの音は正に純なる催眠音――。
意識が持って行かれる――。
――途切れる……。
急激な気温の低下に躯が馴染んで居ない。
如何してこの様に肌寒ささえ感じている。
この呼吸が、この空気が余りにも滞りなく
鼻腔を突き抜けて行くのである。抵抗が全く無い。
如何にも純なのだ。
だが、過ぎたるは猶及ばざるが如し。
純なる物は時として毒と為る。
確かに澄んだ空気程吸いたいと願う。
日頃の鬱屈した物など吸うに吸い切れぬ。
其れでも仕方が無く呼吸して居るに過ぎない。
手に入らない物だからこそ望むに相応しいのだ。
然し其れが毒だと分かれば、一瞬にして興は醒めてしまう。
理想と現実との差異を容易には埋められない。
板挟みと為る。突破口を見出さなくてはいけない。
手立てを探す。初めは苦悶しようが、直に治まる物だ。
時間が解決して呉れる。心の整理が付くからである。
其れでも精神の衝突は受け入れ難い。
境界線が引かれ、区別が付いた状態だ。
では、如何してその境界線は溶解し得るのか。
受け入れる事――信じる事だ。
邪魔な物は全て捨てて終えば良い。
我儘、虚栄、偏見、主観――。
その開いた間に収めて仕舞おう。
この毒と為るであろう空気を我儘に吸い込み、
私の一部にしてやろうと云うのだ。
然すれば私も――、
――毒なのか。応、毒であろう。
異物は全て毒と見做される。
周囲に溶け込めぬ物程、境界線を引かれ区別される。
そして衝突が生まれる。
同時に意識が在る。
その2つの関係は表裏一体だ。
衝突が起こらなければ意識も起きぬ。
私は不動滝を後にして、今滝へと向かった。
※※※
今滝――町指定保護文化財。
(名勝 昭和61年11月1日指定)
三方から囲む直立した安山岩系岩肌の一角から落下する44メートルの瀑布は壮観であり、鬱蒼と生い茂る樹林と能く調和し幽玄神秘で訪れる人を無我の境地に誘い込む。
岩壁に着生する滝植物や近くの「むくの木」の自生などは植生上貴重である。
滝の信仰は古くから行われ竜王不動明王を祀る小祠がある。
●毎年7月15日の滝開きは神官僧侶が同時に祈願する風習があり、民俗研究の上からも注目される。
自然現象から成るこの地は名勝として又、地質及び植物学上価値が高い。
湯梨浜町教育委員会
※※※
今滝の概要は上記の通りである。
設置されて居る看板を参照した次第ではあるのだが。
疑問に思うのだけれど――、
如何してGoogle先生は今滝ではなく、不動滝の方を表示したのだろうか。
全く以て能く分からない。
鳥居を潜り15段の舗装階段を下りる。
悠々と遊歩道を進む。
一歩踏み入れた時から此処は領域内なのだ。
既に取り込まれていた。
奥へと進むと漸く主とのご対面であった。
聳え立つ絶壁が倒れ込んで来る――!!
この存在感が私の存在を圧縮し圧死させた。
――到底敵わぬのだ。
私が抱く印象など、この絶大なる存在を揺るがす事も出来ない。
絶壁から絶え間なく降り落ちる。
弾け飛び散る飛沫は霧散し大気に混ざり行く。
その連鎖は途切れる事が無い。只管果ても無い。
その流れは正に命の巡り――。
私は肌で感じている。
――今滝の息吹を。
この領域を支配している何かに既に呑み込まれて居た。
面前の存在には確かに力が宿っている。
人類のそれとは比べ様もなく圧倒的な違いが有る。
人類は末端であり、それは根源なのだ。
最後に残るのは枝では無く、幹に他ならない。
先端に血が通わなければ腐って行くのが常だ。
それ故人類は滅びる定めにある。
しかし何処かが悪ければ幹自体にも影響が及ぶ。
そして幹が不調を来せば自ずと枝も駄目に為る。
一を全として、全成るは一を求めんとする。
私は末端であり、自然の一部分を為している。
故にこの領域を犯せば、不動滝は死ぬのだろう。
そして私も結局の所死ぬ事になる。
因果は廻る者だ。
私の許にも何れ訪れるはずである。
滝を見上げた背後には石段が高い所まで続いている。
何処へ繋がっているのかと目で追うと――、
その先に祠を見付けた。
不動滝もそうであったのだけれど、
階段を設け高所に祠が建てて在る。
此れは偶然の構造では無く、計画的な配置なのだろう。
祀るからには見上げる位置が良かろう。
神棚が正にその通りだ。
では、登ってみようではないか――。
石段を数段登った所だった。
はっ――!?
――蛇だ。
蛇が居た。
勿論白蛇では無い。しかし、此奴は――、
――縞蛇だ。
茶色に黒の縞模様。
私の気配で草叢に隠れてしまった。
嗚呼――。
此れこそが私にとっての霊験である。
一般的には現世利益の意味合いを持つ者が霊験であろうが、
神聖な領域で其れ相応の体験をする事と私は見做している。
今滝で蛇の姿を垣間見ただけでも、
此処に態々足を運んだ甲斐が有ったと云う訳だ。
事前に『蛇』のタイトルを読破していた事で
より一層敏感に反応してしまったのかもしれないのだけれど。
全ては繋がっている――、
と私は考える。
因果応報と為る善悪の類いでは決して無いものの、
不動滝と今滝とを訪れた事実は
何時しか追求する真実へと導いてくれるだろう。
霊力が溢れているこの領域にて、
私の触れた霊験を以て、流れ込んで来る何かを感じた。
忘我にして正に自然と一体に為らんとす。
滝に打たれては無我の境地へと至ろうとしていた。
私は無我為る者で在る。
依って境界線の線引きも行わぬ。
全てが溶け行く儘に1つに為り行く。
私は鏡でも在る。
自我は彼方の中に隠れて居る。
さあ、視せて呉れ――。
私が探求する真実は何処に在る。
一生の内に探れる場所など限られる。
この躯は所詮不自由なる器に過ぎぬ。
世界との境界線が無ければ、
私が求める者に近付けるのであろうか。
見い出せない。
直接触れなければ何も感じない鈍感なこの神経が疎ましい。
而して私が疎ましい。
考慮を経て、私は私自身を信用に値しないと断定する。
個体では余りにも不確実なのだ。
自然を通して精神を落ち着かせられるので在れば、
其れは自然と自身とを同一化して居るからに他ならない。
私はと云えば蛇に為りたい。
蛇に意識が向いて居る。知りたいとも願って居る。
その精神状態が正に他者同一視である。
物理的に他者とは決して同一に為る事は叶わぬが、
他者を視る事で自身が居ると信じられる。
詰まりは他者の存在を信じる事こそが自信に繋がるのだ。
果たして私は無我為る者で在る。
更にこの記述を得て、自信と云う状態に至れる。
而して境界線は何処にも無い。