02.探求せし天女伝説。
2013年08月12日。天女伝説に縁の在る場所を巡りました。しかし、結末は渋い物でした。
少々自転車で三徳山への片道は六時間だと云う。
それを聞いて私は呆けた。
と云うのも、他の予定も熟さなくてはいけないからだ。
1日1つでは成り立たたず、移動も含めて3箇所も回る必要にある。
1秒も無駄には出来ぬ。承知の事ではあるのだが。
肌で確りと感じる。
大阪の空気と鳥取のそれとは明らかに異なっている。
それは明確に指摘しえぬ。そうとは云わずとも、躯が反応している。
疲労もあるだろうが、眠気が醒めぬのだ。
起きは出来る。しかし、また眠気がやって来るのだ。
物凄く参っている。一番辛いのは眠れない事ではなく、
眠気に抗う意識を保持し続ける事である。
文句を云っている暇があれば、行動しろ――。
私の足は自ずと三徳山へ向かっていた。
飽く迄も自然に。特段意識しての事ではなかった。
向かわずには居られない――。
そんな衝動を持ち合わせているはずもなく。
私は羽衣石を探していたのだ、と言い訳をしておこう。
目的地に辿り着けなかったのが現実である。
探し物が見付からない事など珍しい事ではない。
それは皆様分かって頂けると思う。
言い訳をしておくのは時間を無駄に消費してしまい、
その流れで引き返せず三徳山を目指す羽目になったと云う経緯があるのだ。
敢えて強調しないのは言い訳が聞き苦しいから。
さて置き、先ずは打吹公園で山頂を目指す。
そして加茂神社へ――。
最後に羽衣石に触れ記録し、帰宅。
と云うのが本日の予定である。
先にも触れさせて頂いた通り、私は眠気に逆らえない。
意識の外に在るのだろう。私には全く手に負えない。
努力が功を奏すものとは話が違う。
直ぐに委ねてしまう。抗えないのなら身を任す他あるまい。
なんとかなるさの精神である。時には諦めも大事だと考えている。
諦めとは云っても、夢を諦めるなどの次元ではない。
現状を鑑みて、出来る事と出来ぬ事を区別するのである。
――取捨選択だ。
その瞬間で出来る事に精を出す。美徳であろう。
切り替えを大切にしたいが為の戦略的判断だ、と前向きに捉えたい。
再び目覚めると、午後1時であった。
実に不味い――。
此の儘では予定が狂ってしまう。急がなくては。
勿論、即行動に移る事が第一なのである。
故に、昼ご飯はお預けだ。全く遺憾に堪えない。
それでも良かった。兎に角、予定を蔑ろに出来ない。
手早く準備を済ませ、自転車がある車庫へ向かった。
自転車のサドルに跨り――、
と、その前に確認すべき事が1つ。
それはタイヤの空気圧だ。ペシャンコでは進まない。
否、実際には進むのだろうが、体力の消耗が激しくなる。
自転車を漕ぐ事が目的ではない。それは飽く迄移動手段に過ぎない。
体力を使う時はその先にある。
しかし、これから何㎞漕ぐ羽目になるのだろうか。
その距離も考慮に値するが、私の漕ぎ方の方が悩みの種となるだろう。
荒くて雑なのだ――。
決して自慢出来る事ではない。分かっている。
その漕ぎ方の所為で、自分の首を絞めて来たではないか。
何回もパンクし、何回も徒歩で移動して来たではないか!
人間、容易には変われぬと云う事なのだ。
まあ、これも言い訳か――。
空気入れを掴み、タイヤのバルブを開ける。
エアチェックで固定し、先端部分を宛がう。
握りを只管上下させ、頃合いを見て止める。
前輪と後輪を点検したら、さあ、出発しようではないか。
先ずは打吹公園へ――。
到着したは良いものの、何処から見て行こう。
目的地を設定しても、其処で何を行うかが問題なのであって、
来るだけでは意味が無い。考えても始まらないから、散策する事にした。
(否、山頂を目指すのではなかったか!)
打吹公園には申し訳程度の動物達が飼育されているが、
物珍しくもないので見ようとは思わなかった。
見て貰わないと、彼らからは存在意義が失われる。
しかし、今は――。
目の前にあるのは鎮霊神社である。
鳥居を潜ると、立派な大樹が木陰を作って呉れていた。
その立派さに目を見張る。
思わず立ち止まり、見上げてしまう。
太い幹が聳え立つ様を大昔の人々は男性の性器に例えたと云ったか。
擬き好きで凝り性の私達の祖先は子孫繁栄を願い、
見立てる事で象徴化し祀っていた。
そんな事を何かの本で読んだ――。
受け売りで申し訳無いのだが。歩を進めよう。
此処は鎮霊神社。軍人を鎮める場所である。
無用に起こさぬ様、私は身構える。
下手に荒し祟られては困る。触らぬのが良い。
普段なら色々見て回る所だが、この領域だけは控えて置きたかった。
神木と云うように縄が縛られているものがあった。
先程も太く立派なものであったが、
矢張り境内に居る存在としては此方の方が上なのだろう。
上も下もあるものかと思い返すが、
無知の私にはこれ以上思考する手立てが無かった。
拝殿の横に道があるのを確認する。
否、道と云っても獣途であろう。
見えぬ存在を起こしてはならぬと、抜き足差し足でぬらりと進んで行く。
私は息を殺した――。
背後から厭なものを感じたと云えば大袈裟なのかもしれない。
それでも、何かは居るのだと感じた。
獣途に這入る。
左右両端からは雑草が均された歩道を覆い隠す。
草木は如何も侵入を拒んでいる。
歩き辛い――。
ええい、進め進め。前進あるのみ。
視界の狭さに不安が生じる。背後も気になる。
行く先が行かねば分からぬのなら、不安でも足は進もう。
抜け出した所に看板を発見した。
――やすらぎの道。
少々宜しいだろうか。
此処まで不安しか抱かなかったと云うのに。
看板の云わんとする内容と私の抱いた感情の隔たりが余りにも大き過ぎるのだ。
そこの理解しようとする意志は皆無である。
情けない話だが、真のやすらぎの道へと案内して頂けるのだろうか。
甚だ疑問ではあるのだが。
この先の途は砂利の上に落ち葉の枯葉カーペットが敷かれていた。
色は違えど、考えを変えれば結構な待遇であろう。
無理矢理な思考も前向きだと捉えて下され。
その前向きさも山の力には敵うはずもなかった。
平日と云う事も総じて、人気が無い。
実質、この空間に居るのは私1人である。
――独りなのだ。
独りは怖い。それは孤独だからだ。
強がる癖に、躯を抱えて震えていた。
その矛盾を認められない。
私は独りで居るのが怖いのだと――。
正直になる事さえ出来なかった。
私は弱い。弱い癖に強がる。
惨め、なのだろうか。
標識が現れた。
左はみどり町、峠の展望台、そしてテニスコート。
右は打吹山山頂、長谷寺――。
勿論、私は打吹山山頂に向かう事にした。
いやはや、今思うとこの判断が体力の無さに泣く事になろうとは――。
まあ、山頂に赴く訳だから、それは付随すると考えるべきだったのだ。
両脇を森林が覆う。笹や蕨が窺える。
獣途が続く。永遠に続く――。
景色が変わらない。体力が消耗する。
喉が渇いた。
水分を補給したい――。
しかし、何も持っては居なかった。
見渡す事を禁止された迷路を只管進んでいる。
――誰も居ない。
この途が正しいのかさえ尋ねる事さえ叶わない。
独り言で気を紛らわす。答える者など存在しない。
矢張り、私は独りなのだ。
又しても標識を発見した。
――武者溜。
何だろう、凄く気になるので確かめてやろう。
結局は水道があるだけであった。
しかし、その水で顔や腕を洗えたのが幸いであった。
気分転換になったからだ。
意外にも、山頂へ向かう道の勾配は激しかった。
後から親に尋ねた事ではあるが、幼少期に登っているとの事だ。
全く記憶に無かった訳だが。
この道則は堪えた。しかし、耐えて進んだ。
スタジイやタブノキが獣途を縁取っている。
照葉樹林だ。山麓にはモミ、エノキ、ヤブツバキ、タブノキ――
中腹にはスタジイ、ウラジロガシ、クロキ――
山頂にはモッコク、アサダ、イヌシデ――。
そして、ホオノキ、オオモミジなどの山地系樹種や
トベラ、ヒメユズリハの海岸性樹種の混在は注目に値するだろう。
(山中の看板を参照。)
私は高所恐怖症を持っているが、
若しや閉所恐怖症の傾向も持ち合わせているのかもしれない。
と云うのも、この獣途が厄介なのだ。
見晴の良い山道であれば良かったのだが、振り返るか目線を上げるかしないと
果てしない砂利道と枯葉があるだけである。
景色の変化が把握出来ないので、
進んでいるのか戻っているのか如何かも分からなくなる。
否、前を向いて歩いているのだから進んでいるのだ。
真逆、山に取り込まれて同じ道を繰り返しているのではあるまいな――。
不安は常にあった。精神的な心細さも原因のはずだ。
喋り相手でも居れば少しは気楽だったのだろうが。
言い訳は如何にでもなる。人付き合いの不得手は何時でも肝心な時に首を絞めて来る。
私はそれを理解しているから憎い。甘えは逃げである。
確かに頼る事は悪ではない。頼る事は飽く迄手段の1つなのだ。
手段に正解は勿論在りはしない。
何通りの組み合わせが考えられても、結局躯は1つしかない。
その躯が唯一である故に、その置かれている環境――
詰まりは時・場所・その場の状況――で可能性を潰してしまう。
山頂を目指している私が取れる行動と云えば、
――前進する、
――後退する、
――斜面を滑り落ちる、
と、まあ、考慮するだけは出来る。
しかし、私は山頂に向かっているのだ。
その意志を捻じ曲げて引き返す事など言語道断である。
信念が憤怒の形相で迫って来ても何ら怪訝しくはない。
漸く到着した山頂には特に何も無かった。
肩透かしを喰わされ徒労に終わったのだ――、
とは口が裂けても言えぬ。
これまで掛けた時間と体力や気力を考えれば尚の事。
――山頂は涼しかった。
汗だくの肌を冷やしてくれたのは有り難かった。
それだけで心の平静を取り戻せるのだから、単純である。
それで良いとも思えた。
許容と受容の精神は非常に大切である。
人は1人では如何しても生きられない。
痛い程に実感しているのが正直な所だ。
この辺りで打吹山での目的は達成されたのだ。
第二の予定は加茂神社への参拝である。
地理的に近所であり、移動に苦はなかった。
しかし、打吹山もそうであったが蚊やらブトやらが物凄く集って来る。
蚊なら兎も角、ブトは厄介である。
と云うのも、蚊と違い皮膚を破って吸血に及ぶからだ。
そして大きく膨れ上がり、痒さも堪ったものではない。
不快極まれり――。
私は刺され慣れている為、少なからず耐性がある。
要は掻き毟らずに、我慢出来るのだ。
境内には“夕顔の井戸”なる物がある。
別名を清先の井戸と云う。羽衣伝説に纏わる代物なり。
「葛を伝って天女が天に登っていったと伝えられてい」る様だ。
そして、御神水が流れている“ほたるの里”がある。
その井戸は板で蓋がなされ、社が設けられていた。
細絞めの注連縄が四方を囲み、吉田流の紙垂が垂れている。
(注連縄と紙垂の仕様は独学の為、正確性は疑わしい。)
井戸の中身は定かではないが、
思うに土で埋めてあれば少なからず空間が在るはずである。
井戸に宿る神様が呼吸出来る様にとの配慮なのだ。
(これまた浅い独学で申し訳ない。)
さて、拝殿を見学するとしよう。
階段に足を掛ける。
両脇には立派な木々が聳え立っていた。
計109の石段を登って行く。
(数え間違いで108かもしれない。煩悩の数である。)
神門を潜った直ぐ左手に「雷神・降臨のもみの木」が佇む。
平成19年8月19日午後2時頃に落雷が発生。
被災は境内の古木2本のみである。
御祭神は賀茂別雷神にして、厄除の霊験ありと云う。
信仰は霊験に頼るべきではないが、自然の力は確かに宿るものである。
山は信仰の対象であり、
人間如きが踏み込んではならぬ場所こそが真のパワースポットなのだ。
神社は仲介所であり、私達は神社を通して自然に目を向けている。
その対象は大樹だ。
1本の太い樹からは男根が連想される。そして、子孫繁栄を願う。
まつ科のヒマラヤスギに4本の細縄が張られ、夥しい御神籤が巻き付けられていた。
至る所に巻き付けられている。
此れは此れで一種の見物ではあるが。
もう1つ、祭ってある神木があった。
にれ科のエノキやケヤキ、ぶな科のシラカシ、
おしだ科のベニシダ、やぶこうじ科のマンリョウ――。
上記の木々から構成された領域である。
地表が隆起し、孤島の印象を受けた。
以前に訪れた石津神社とは違い、境内は非常に蒸し暑かった。
賀茂神社も境内全体に影は落ちていたが、
冷気など感じ得る事は無かった。
――御祭神に依るのだろうか、地理的な関係なのだろうか。
物事の機微など私には毛頭分からぬ。
知ろうと思えば、深みに嵌る。
其処から容易に抜け出せた試しなど無いのだから。
石段の脇に稲荷大明神を祀った祠があった。
両脇を2匹の狐が固める。
参拝側から見て、右の狐は何やら咥えている。
巻物だ――。
一体何を意味しているのだろうか。
(その疑問を解消すべくキーボードを叩いてはみたが、
矢張り諸説あり如何も確証が得られなかった。
しかし気になる事柄があり、調べた価値はあった。
手間は掛けるべきである。そして寸暇を惜しむべきである。)
しかし、ジレンマに陥る事は多々ある。
手間は掛けるのを良しとしても、寸暇を惜しむと問題が生じて来る。
寸暇に限らず時間意識や体力に関して、である。
それは移動手段に他ならない。
地元に帰った私の移動手段は専ら自転車である。
そして、この猛暑である。
移動中の直射日光で体力は奪われ、
目的地への距離が遠ければ自ずと時間は掛かるものだ。
その姿を見た親は心配せずには居られない。
――車で送ってあげようかと。
しかし、私の返答は否である。
この放浪は私の趣味であり、我儘の所業なのだ。
親族と云えども、口出し出来る事ではない。
寧ろ、付き合わせる訳には行くまい。
打吹公園へ行けば山頂へ登り麓まで降りる破目になるし、
賀茂神社へ足を運べば――、
やれ石段だ神木だと、段数や樹種が無性に知りたくなる。
興味が尽きないのは誠に良き事であるのだが、
人間が取れる行動など限度は付き物である。
――知るべきなのだ。そして思考せよ。
然すれば、今何が必要なのかが分かるだろう。
情報の取捨選択が胆なのだ。しかし、疑問もある。
――何を基準にして選択すれば良いのか。
自己実現を念頭に置き、現状を考慮する事が必須になる訳だが、
その基準については亦の機会にでも取り扱おうではないか。
最後に羽衣石を探索した。
結局は発見出来なかったのが悲しい結末である。
しかし、私はめげなかった。
倉吉未来中心を眺め乍ら、国道179号線に出る。
そして県道21号線を只管突き進み、三朝を目指す。
果たして温泉街をも通り、北野神社を過ぎた橋にある看板が見えると、
次第に辛くなってくる。
――三徳山三佛寺。4km。
徐々に傾斜が付いて来る事を記しておきたい。
県道21号線を只管突き進むべし。
三徳山の鳥居が見えても、そこで安心するべからず。
未だ先はあるのだから――。
しかし、暫しの休息も悪くない。
“不老長寿健康の水”なる水が飲める。
看板が在るので確認して頂きたい。
しかし、水の機微も分からぬ身であるから
私にとっては只の水と何ら変わらぬのである。
さて、自転車での訪問者は私以外には居ない。
自動車で私を見た者は嘸や不思議に思ったに違いない。
私の形相は正しく必死であったのだろう。
自転車で向かうなど、異様でしかない。正気の沙汰とは到底思えないであろう。
しかし、其れで良い。
私と云う人間はそう云う人間なのだから。
そうで在るのだから仕方が無い。
漸く三徳山に到着したが、午後7時を回っていた。
受付けには誰も居ない。
如何したものかと悩んでいたら、猫が居たので少々撫でていた。
本来ならば投入堂を目指し登山となるのだろうが、
私の場合はその労力と相当のものを消費して来たに違いなかった。
投入堂は見ても良いが、登っては呉れるな――。
と、抑々釘を刺された身である。
矢張り達成感と云う物は、上手い具合に感情を整理している様だ。
成程、何度もお世話になったが、
その反面消極的にもさせられた程である。
達成感は大事だ。しかし、満足感に委ねてはいけない。
達成感は継続させる。しかし、満足感には先が無い。
加減の程度ではあるが、
他人から見れば如何やら異様に映るらしい。
いやはや、これが世間の評価と云う奴だ。
然すれば、私は何を削げば良いのだろうか。