01.大安吉日の不運。
2013年7月25日は大安吉日であった。しかし、私にとっては厄日に他ならなかったのだ。
避暑地を求めて行き着いた先は石津神社であった。
境内には誰も居ない。閑散とした光景に何故か平静を取り戻していた。
鳥居の真下で足を止める。
――嗚呼、涼しい。
眼を閉じ、深呼吸して思う。
この神社と云う領域内には覆い被さるように影が落ちていた。
足元から伸びる参道。幣殿――。
古札所、手水舎、聳える御神木の楠。
生い茂る葉と太い幹――。
樹齢七百年だと云う。
その存在感と生命力とをまざまざと見せ付けられ、圧倒された。
――矢張り何かが居るだろう。
その気配を冷気として肌で感じている。
鳥居を潜り、駐輪場が見当たらないので自転車を脇に止めた。
スタンドを立てる音が異様に響く。
その思わぬ音に小心者の私は怯え、背を丸めた。
小さく見せるのだ。
装おうのだ――。
誰も私を見るな。私は空気だ――。
社務所から神主が監視していないかと無用な心配に、背は丸くなる一方だった。
立派な楠を眺め乍ら、手水舎に向かう。
三つある柄杓から右端の一つを拝借し、水を汲んだ。
先ず左手を、次に右手を、最後に左手で口元を清める。
この水は――飲めないのか。
歩き疲れて、喉は空空だった。帰宅すれば飲める水を態態買うまい。
恥かしい私の固執である。しかし、時代はペットボトルに入った水を買うのを良しとしている。
この片意地も時代を受け入れた者には時代遅れに映るのだろう。
看板にも特に注意書きは無かったが、清めの水を敢えて口にするのは憚られた。
罰当たりと云うよりも、腹を下す可能性を考えたのだ。
残りの距離を歩かなければならないのに、今下しては不味い。
仮に下してしまえば、正に罰が当たったのだと諦めよう。
だから、今は帰宅祈願を優先しよう。
無事に帰宅出来ますように――。
お賽銭を投入れ神頼みするのも一案かと脳裏に過る。
しかし、手持ちの小銭を考えたら緩み掛けた財布の紐が締まった。
――情けない。
形だけでもと考え直したが、逆に形に拘るからこそお賽銭を入れねばならぬのだ。
元々出来ぬのだ。
私には――。
だが、顔はさっぱりさせたい。
汗がねっとりと張り付いて気持ちが悪かった。
飲用しない事を免罪符に、顔を洗わせて頂いた。
――ありがとうございました。
それだけで、気分は高揚した。
猛暑で萎えた気力が蘇って来たのを確かに感じている。
よし、行こう――。
同様に、
そう思ったのは実に先日の寝苦しい夜の事だった。
私は如何しても一歩踏み出せないで居た。
何かと理由を付けては動けぬ不自由な身である。
暑さも何もかも全てが感ける言い訳になってしまう。
それに最近は特に猛暑だ。
夏真っ盛りの勢いに、私は抵抗も虚しく圧されに圧されている。
何も出来ない。
寧ろ、出来ない事が分かっているからこそ弛緩に逃げてしまう。
理由も何も御座いませぬ。
猛暑の日中は猛暑の夜でもあるのだから――。
これも愚痴か。これも悪い癖だ。改めなければ。
涼しい朝を迎えた。
これから気温が上がっていくと思うと、幸先は悪い。
心が萎える。
呼応するように躯も気怠くなって行く。
しかし、今の日だけは厭が応でも動く事に決めた。
シャワーを浴びて志気を高める。
準備を終えると透かさず部屋を飛び出した。
矢張り屋外は涼しい。
分かってはいる事であった。
しかし、外に居ては何も出来ぬ私は部屋へと足が向く。
犬より移動範囲が狭いのに自信がある。
褒められた事じゃないのだが。
移動は自転車だ。道順は予め地図で確認済みである。
約十㎞の道則。
まあ、行けるはずだ。タイヤの空気も補充したし、抜かりは無かろう。
私の欠点でもあるのだが、目的地までの道順をイラストではなく文章で書く。
そうすると、中継地点――目印――との間の距離が全く掴めない。
点と点とを繋ぐ作業が煩わしい。
自業自得である。しかし、どれ程身に沁みていても止められぬ。
――偏屈だよなあ。
目的地で用事を済ませた後は、余り訪れない地を見回してみる事にした。
暇を持て余すのは避けたい。
献血の看板が視界に飛び込んで来たのは有り難かった。
しかし、木曜日は閉じられていた。
図書館でもあれば腰を下ろして休憩出来るのに――。
何処にも見当たらなかった。
通りを歩いていると、今日は大安吉日だと云う声が聞こえて来た。
宝くじの宣伝文句である。
――夢は見たいが、買うものじゃない。
誰かもそんな事を云っていた気がするのだが。まあ、些末な事よ。
観光は諦めて、私は自転車を漕いだ。
家路を、来た道をまた戻る。
左折した角を右折し、右折した角を左折し――。
融通の利かぬ性は柔軟に対応出来ない。
その柔軟性が楽天的な思考に変わるのなら、癖が抜けぬ保守的の儘で良い。
私の場合は方向音痴であるから、此処が落とし所だろう。
パーン!
まるで爆竹を踏んだかのような音だった。
周囲に響いた。
――何だ!?
状況が掴めない。
歩道は滑らかなのに、酷い砂利道を走っている状況。
これは――、
――パンクである。
車体が上下するからと云って、無暗に頭を振りはしない。
フラットタイヤだ。
絶望はしなかった。否、寧ろ慣れっこではあるのだが。
実はこれからの作業が辛い。
その土地に昏くては如何にも為らない。
そして独りで解決出来ぬから、他人に訊く必要がある。
かと云って、通行人の誰も彼もが地元民である由はない。
兎に角、訊く事だ。それが第一歩である。
その後、三人に情報を頂いたのは良しとしよう。
本当に有り難い事である。見知らぬ私を快く導いてくれたのだから。
しかし、その御三方の情報に結局振り回されてしまった。
先ず、コーナンが自転車を扱っているから訊いてみろと云うので行った。
サービスカウンターで訊くと、修理は扱っていないと云う。
更に近所に出来る場所はあるかと問えば、通りを直進すれば見付かると答えた。
その回答者は私と同様に昏い者であった。
悪いが信用に足らぬ。
しかし、情報を欲し通りを直進した。
そして、怪しい――云いたくはないが、みすぼらしい――老人に問う。
近場に在るらしい。探してみた。
間が悪い。否、この日でなければ良かった。
木曜日は定休日である。
――知らなかったのだ。
無知は罪だと云うが、自己の愚かさを知っている私は少々増しであろう。
そうであれば幸いだ。憂いはない。
嫌々、嘆きたい――!
パンクを修理してくれる所が何処にも無いのだから。
この脇道を余分に足して、元の十㎞にもなろう距離を、
自転車を引いて、
歩いて、
この炎天下の下を、
彷徨えと云うのか――!
悪態を吐きたくもなる。
――糞が。
何が大安吉日だ。
何が宝くじだ。
巫山戯るな――!
厄日と何ら変わらないではないか。
悠々と追い越して行く者が憎たらしい。
この距離を歩かなければならぬ定めが物悲しい。
自棄にこの感情に頷ける私が居た。
思い返せば、いつもそうだった。
自転車を初めて乗れたのは幼稚園の頃だったか。
若しかしたら、保育園の頃――は流石になかろう。
能く思い出せないのが恨めしい。
その頃からずっと自転車には乗っている。
自慢じゃないが、自転車歴はもう直ぐ成人式を迎えるだろう。
――成人式は人生に一度だけなどとは誰が云ったのか。
否定してやる。
足元に影が落ちたかと思えば、見上げた先には鳥居が聳えていた。
立派な赤い鳥居――。
入口としては威厳がある。あり過ぎる。
その先は異界の地だ。
鳥居を潜れば、その雰囲気に呑まれてしまう。
然れど惹かれ足を踏み入れた。
――ひんやりとしているな。
足元から伸びる参道、幣殿、
古札所、手水舎、
樹齢七百年だと云う御神木の楠。
矢張り雰囲気が違う。
抵抗も虚しく、既に呑まれていた。
結局、手を清め顔を洗っただけであったが、気力は再び湧いて来た。
その点、鳥居を潜った甲斐はあった。
良かった――本当に。
途中、木陰の下で項垂れていたら、自転車の黄色いシールが目に付いた。
登録シールだ。
登録した店舗シールも一緒に貼ってあった。
正に驚愕あり僥倖である。
後悔よりも先に、しめたと云う歓喜が湧いた。
そして何より気分が高揚しているのを実感していた。
携帯電話での通話を試みる――が、
――お客様のお掛けになった電話は、お客様の都合で通話出来なくなっています。
如何云う事だ。訳が分からない。
ならば公衆電話だと、帰路を進み乍ら探してみる。
――在った。
遂に見付けたのだ。
迎えに行くと云う古の約束を、あの糞店主に果たして貰おうじゃないか。
十円玉を投入。電話番号を打ち込んだ。
――お客様のお掛けに……。
既に聞かなくても分かる。
視線を泳がすと、その先には老人が居た。
自転車のタイヤを持っているではないか――!?
後悔も歓喜も、感情の起伏さえ感じられない程に疲弊している。
一先ず、声を掛けてみた。
「済みませんが、今からタイヤのパンクの修理をして頂けますか?」
「んん、良いよ。自転車見せて」
「どうぞ――」
「嗚呼、見てよコレ。指が通る程の穴が開いとるわ」
店主は実際に指を通して見せる。
なる程、あの響いた爆音にも納得が行った。
「新品に、取り換えですよね?」
「まあ、そうだろうな。3,500円だ」
――3,500円。
多分、足りない。
ショルダーバッグから財布を取り出して確認する。
千円札が三枚、
百円が三枚、十円が四枚、
五円が一枚、一円が三枚。
――3,348円。
152円足りない。
新品のタイヤ交換は手早く行われた。
流石は玄人の仕事だ。
「はいよ、出来た。3,500円」
「あの、済みません。今手持ちが足りなくて――これを。明日支払いにまた来ますので」
おずおずと老人に手渡した、
――運転免許書を。
老人は目をひん剥いて私と免許書とを交互に見た。
「でも、あんた、車運転しないのか――?」
「いや、持ってないんで」
老人からは少々動揺が窺えた。
「わ、私が持っていても良いんかえ?」
「あの、逃げられたら嫌でしょう。だから――また、来ますんで」
――ありがとうございました。
私は無事に帰宅した。
スーパーで購入した牛乳をがぶ飲みしたら、一気に下した。
罰が当たったのかは定かではない。
大安吉日なる日は私に何ら慰める事などしなかった。
無慈悲だ。
然るにこの世界は思い通りに行かぬように出来ているのだ。
下痢で苦しんだのは正に罰が当たったのだと諦めよう。