第三話
「今日は姫様の誕生日だから、私もはりきってお教えしないとね!」
意気揚々とした様子のアニに引っ張られる形で、エティシラはペルシャ絨毯の敷かれた長い廊下をとぼとぼと歩いていた。
「……アニ先生、私やっぱり嫌だわ」
「いーえ、今日という今日はちゃんとお勉強してもらいますよ」
ぽつりと呟けば、アニ先生ことアニにすかさず返されてしまう。
勉強なんかしたくなかった。
訳がわからないし、教本の最初の三行を読んだだけで眠くなる。
いつも勉強を怠ってばかりいたけれど、ブルーノはそれを見逃してくれた。勉強よりも、優雅なダンスや歌を極めて欲しかったらしい。
けれど、ラオヴァルトは見逃してはくれなかった。
『暖かいハーブティーを用意しておきますから、ちゃんとお勉強してきてください』
先刻のラオヴァルトの言葉が、ふとエティシラの脳内で再生される。
――……ハーブティーなんか、絶対飲んでやらないんだから。
ラオヴァルトへの小さな仕返しを心に決めて、エティシラは図書室へと入っていた。
充満している古びた本の匂いは、決して良い匂いとは言えないけれど不思議と心が安らぐ。
図書室へ一歩踏み出したかと思うと、アニが思い出したように「あ」と声を漏らした。
「資料を部屋に置いてきちゃったわ。取ってくるから、ちょっと待っていてくださいね」
スーツの袖を腕まくりすると、アニはそそくさと早足で図書室から出てゆく。
「……」
一人残されたエティシラは、暇を持て余してふらふらと図書室の中を彷徨い、本棚一つ一つに視線を投げる。
何か面白い絵本があれば良かったけれど、備えられているのは難しい本ばかりだった。なにかの図鑑とか、伝記とか、用語集とか。
そんな中でエティシラは、一つの歴史本を見つけた。
なめらかな字体で“我が国 ベルリガ王国の歴史”と表紙に大きく書かれたその本のページを、エティシラは何となしにぱらぱらとめくる。
主な内容は、七十年ほど前の近代のベルリガ王国についてだった。
その頃のベルリガ王国は、とても過激だった。
頻繁に戦争をしては、周りにあった小さな国々を滅ぼしていったのだ。
だからその名残で、ベルリガ帝国は今でも他国からは「鬼の国」なんて云われている。
今のこの国はとても穏やかで、治安も良く独自の文化を築いているけれど――戦争が終わってから、まだあまり時は経っていない。
いつまた戦争が始まっても、おかしくないのかもしれない。
「――レイホルム帝国?」
エティシラは無意識のうちに呟いていた。
ずらりと並んだこの国に滅ぼされた国のリストの最後尾に、“レイホルム帝国”と綴られていた。
どうやらレイホルム帝国は本当につい最近まで存在していた国で、美しく栄えていた国だったらしい。
少なくとも太字で強調されているくらいには、立派な国だったのだろう。
「エティシラ様、お待たせしました!」
すっかり歴史本を熟読していると、背後で声が響いた。
見れば、何冊もの資料を抱えたアニが息を切らしながら室内へ入って来ているところだった。
「ああ、重かった。肩が悲鳴を上げてるわ」
アニは抱えていた資料をテーブルの上に置き、疲れたように肩を叩く。
「それより姫様、今歴史本をお読みでしたね。えらいわねぇ、私がいないときもちゃんとお勉強なさって」
「べ、別に勉強してたんじゃなくて、暇だったからちょっと読んでただけよ」
エティシラは開いていた歴史本を本棚に戻し、「で?」と訪ねた。
「今日は何時間くらいで終わるの?」
「そうですねぇ、ざっと四時間くらい」
「四時間!? よ、四時間も難しい本とにらめっこしてろって言うの!?」
「しょうがないでしょ、姫様ったらここ一ヶ月勉強を怠り続けていたんだから。やることはいーっぱい溜まってるんですよ」
嘆くエティシラを軽くあしらい、アニはテーブルの上の資料を丁寧に並べる。
エティシラは、早くも精神的苦痛を覚え始めていた。
◆
四時間どころか五時間に渡る勉強はようやく終わり、エティシラは眠い目を擦りながら再び歩いていた。
地獄のような時間だった。
訳のわからない単語やら人名を頭に叩きこまれ、何度も暗唱させられ――。
日付が変わってしまった午前二時。宮廷内は、すっかり静まり返っていた。
ハーブティーを用意しておくと言っていたあの執事も、もう待ちくたびれて眠ってしまっている頃だろう。
「姫様、おかえりなさいませ」
しかしその予想に反して、ラオヴァルトは部屋で待っていた。
五時間前に見送った時のように、緩やかな動きで頭を下げてエティシラを迎え入れる。
「こんな時間まで待っていたの?」
驚いで目を開くエティシラに、ラオヴァルトはふっと笑った。
「だって言ったでしょう、暖かいハーブティーを用意しておくって」
ラオヴァルトはミニテーブルへ置いたティーカップへと、慣れた手つきでハーブティーを注ぐ。
「さあ、どうぞ。今晩は寒いですから、きっと身体が暖まりますよ」
エティシラはミニテーブルの前の椅子に誘導され、促されるままそこに腰をかけたのだが――依然ティーカップを受け取ろうとはしなかった。
勉強する前、絶対にハーブティーなんか飲んでやらない――と決意したのだから。
それでも確かに身体は冷えているし、何よりラオヴァルトの淹れたハーブティーはとても美味しそうだったのでついつい心が揺らいでしまう。
「飲んでくれませんか……?」
そして、ラオヴァルトが悲しげな表情を浮かべたときには、ついに根負けしてしまった。
「の、飲むわよ! 飲んであげる!」
やや乱暴にティーカップを取り、エティシラはハーブティーを飲み始める。
少し熱かったが、猫舌ではないのでこれくらいがちょうどよかった。
「いかがですか?」
「………その……まぁ、まずくはないんじゃない」
「それは良かったです」
ラオヴァルトは嬉しそうにエティシラを見つめる。
エティシラはじっと見つめられている手前、なんだか飲みにくくもあったのだが少しずつハーブティーを飲んでいった。
それから十分ほどが経ったとき、エティシラがこてんとミニテーブルの上に項垂れた。
ティーカップは、空になって彼女の隣に置かれている。
「姫様?」
静かな声でラオヴァルトは彼女の表情を伺うが、案の定エティシラは眠りの世界へ行ってしまっていた。
「眠ってしまいましたか」
ラオヴァルトはエティシラを抱きかかえて、ベッドへと優しく下ろす。
「姫様。お勉強、お疲れ様でした」
熟睡している彼女に毛布をかけると、そっとささやいて部屋の照明を消した。




