第二話
午後九時を過ぎた頃、エティシラの誕生日パーティーは終わり、主役の姫はくたくたになって部屋へと戻ってきた。
チュールレースをあしらった大きな純白のベッドに、抱きつくように飛び込む。
「ああ疲れた。このパンプスね、18cmもヒールがあってもんのすんごく足が痛いのよ。それなのに、お父様が履けって云うから履いてあげたの」
ドレスと同じ桃色のパンプスをぶんぶんと上下に振り、エティシラは愚痴をこぼした。
「女性靴の云々は、男の俺にはよく分かりませんが……すごく痛かったんでしょう? よく頑張りましたね」
「そうよ。わたし頑張ったのよ、ブルー……」
ブルーノ、と言いかけてはっとする。
もうブルーノはいないのだ。
「姫様。俺はブルーノではなくラオヴァルトです」
代わりに目の前に居るのは――苦笑しつつパンプスに手を添える、もっとずっと若い執事だった。
小さい布でエナメル素材のパンプスを入念に磨きこんで、右足の方だけを脱がせた。
続いてラオヴァルトは、左足のパンプスを磨きこむ作業に集中し始める。
「そ、そうだったわね」
ごほん、とわざとらしく咳払いをして、エティシラは腕を組む。
「とにかくね、わたし、こんなんで一日中我慢してたんだから!」
「そうですか」
「そうよっ」
「……」
「……」
妙な沈黙が流れ、エティシラは黙々と靴磨きに精を出している執事を見下ろす。
ラオヴァルト=デリウス。
彼はその姓が表すように、ブルーノの孫息子だった。
ラオヴァルトはエティシラの世話をブルーノから託され、彼の代わりの「新しい執事」としてエティシラの元へやって来た。
エティシラはラオヴァルトとはまったくの初対面である。けれど、ブルーノの孫と云うだけで一抹の安心感を覚えてしまうのだから不思議だ。
「それにしても、あまり似ていないのね。ブルーノと」
エティシラの言葉に、ラオヴァルトの青藍色の瞳が僅かに揺らぐ。
「よく言われます。俺、母方の血を強く受け継いでいるみたいで」
ブルーノと云えば、白髪混じりの頭髪に濃緑色の瞳のどこにでもいるような老人だ。
決して整った顔立ちとは云えないし、若いころだってそう美男子だった訳ではないだろう。
けれど孫のラオヴァルトは、どこかの役者のように凛としていた佇まいで、整った容姿をしている。とてもブルーノの孫とは思えない。
ここで、ひとつの疑問がエティシラの頭を擡げる。
同じ血が流れているはずなのに、似ても似つかない外見のブルーノとラオヴァルト。
それなら、内面は――性格はどうなのか。
「ねぇラオヴァルト、ちょっと頼みがあるのだけれど。聞いてくれる?」
ちょうどラオヴァルトが靴磨きを終えたところで、エティシラは試すように言った。
「姫様のお願いでしたら、なんでも聞きますよ」
ラオヴァルトは先刻のように柔らかく微笑む。
快く受け入れてくれるあたり、彼もブルーノ同様優しい性格なのかもしれない。
「あのね。この後、九時半から歴史のお勉強の時間なんだけど――今日はものすごく疲れているから、サボ……休みたいのよ。だからラオヴァルト、アニ先生が来たら“エティシラは高熱のため今日は休みます”って言っておいてちょうだい。も、もちろん面倒だからって訳じゃないのよ?」
そう油断して、ぺらぺらと喋ってしまったのが間違いだった。
「いやです。祖父から授かったデータを見るに、姫様はいつも何かと理由をつけては勉強を怠っているようですね。俺は知能レベルの低い姫様を放って置くことはできません。寝言は寝てから言ってください」
ラオヴァルトは一切の迷いもなく、すらすらと言葉を紡いだ。
一体どこからそんなに豊富な言葉が湧いて出るのだろう、と感心してしまうほどに多弁だ。
「わ、私の頼みを聞いてくれるって言ったじゃないっ!」
エティシラは饒舌な執事を、びっ! と指差す。
「聞くとは言いましたけど、頼みを引き受けるとは言っていませんよ?」
「~~~っ」
「祖父はいつも姫様が勉強を怠るのを見逃してあげていたようですが、俺はあなたを見逃しませんので。暖かいハーブティーを用意しておきますから、ちゃんとお勉強してきてください」
ラオヴァルトは依然、浮かべた微笑みを崩さないままだ。
……ラオヴァルトもブルーノのように優しい、なんて一瞬でも思った自分が馬鹿だったらしい。
とんでもない曲者だ。知能レベルが低いとまで言われた。
それでもどうにかして勉強から逃げたかったエティシラは、どうしようか――としばし思い悩む。
「エティシラ様!」
しかし、勉強の世界へ誘う使者は乱暴にドアを開いてやってきてしまった。
「アニ先生……」
「おっと! 今日は仮病を使わずに、ちゃんとお部屋で待っていたのね。えらいえらい! さ、勉強をしに行きましょう」
かっちりとしたスーツを身につけている、アニ先生と呼ばれた中年の女性は、エティシラの手をぐいぐいと引っ張って廊下へ連れ出す。
この部屋から少し離れた場所にある、図書室へと連れて行くつもりなのだ。
「い、嫌!」
エティシラは助けを求めるようにラオヴァルトに視線を投げるが、彼に動き出す気配はない。
「まあまあ。姫として、ある程度の教養を身につけておくのは大事なことですよ」
「ちょっとっ、助けてよラオヴァルト!!」
「――いってらっしゃいませ、エティシラ様」
ラオヴァルトは姫の嘆願を涼やかな表情で受け流し、ドアが閉まるまで頭を下げていた。