第十二話
「エティシラ姫様……。お久しぶりです」
ブルーノもエティシラの存在に気づき、深々と頭を下げる。
エティシラは何の言葉も返すことが出来なかった。
さっきまで、ブルーノに話したいことは山ほどあったはずなのに。
どうしてか、それらはすべて頭の中から消えてしまった。
ラオヴァルトが、見合いをする。
たった今知ったその事実が、蔓のようにこの心を絞めつけている。
「………」
何か、言わなくちゃ。
何でもいいから、返さなくちゃ。
いつもみたいに――笑顔で。
「ひさ……」
――久しぶりね。
言いかけたその言葉は、途中で途切れてしまった。
自然と溢れ出した涙が、最後まで言葉を紡ぐのを許さなかったのだ。
「姫様!」
その驚いた言葉は、ブルーノとラオヴァルト――どちらのものであったのか。
エティシラは涙を流したまま、踵を返して彼らの前から走り去っていった。
◆
「はあ、はあ……………はあ………っ」
かなり長い距離を走ってきたエティシラは、息を切らしてその場に座り込んだ。
二人の執事から逃げるようにしてやって来たのは、誰もいない真っ暗な屋根裏部屋。
ここなら誰にも見つからないと思ったからだ。
――ラオヴァルトが他の女のものになる。
その微笑を、他の女に向けて。
その腕で、他の女を抱きしめて。
――その唇で、他の女に優しくキスをするのだろうか――
嫉妬としか云いようのない爛れた感情が、エティシラの心に流れ込む。
同時に、止めようもない悲しみと寂しさも流れこんできた。
わたしは何を寂しがっているの?
ラオヴァルトは結婚しても、わたしの執事を辞めるわけではない。
今までと同じように、わたしの命令なら何でも聞いてくれるはずだ。
――他に、愛する女がいながらも……きっと、今までとは何ら変わらない対応で。
ラオヴァルトだって、わたしの執事ではあれど一人の男なのだ。
誰か他の女と恋に落ちて、そして結婚をすることだってあるに決まっている。
頭では、そうわかっていたけれど。
エティシラは溢れ出す涙を止める術を知らなかった。
あの優しい微笑みも、わたしを抱きしめた強い腕も。癖のある性格も、あの無礼なところも。ミルククッキーが好きだと言っていたことも。
わたししか知らなかった彼の一部はやがて他の女も共有するものとなり、ついには彼について一番知っている女はわたしではなくなる。
自分ではない別の女が、彼の特別な存在になる。
――エティシラはそれがたまらなく嫌だった。
息苦しくさえなりそうな鼓動も止まらない涙も、そのことに強く嫌悪感を示していた。
自分のみが知る彼の一部を、独占したい。
他の女に知られたくない。
ラオヴァルトが、他の女のものになってほしくない。
他の女と恋になど落ちてほしくない。
醜い感情を抱いているとわかっているけれど、それでも止められない思い。
「………わたしは」
わたしは、ラオヴァルトのことを――……。
「……っ」
エティシラは、自身を支配する感情を断ち切るようにして、首を激しく横に降った。
涙を乱暴に拭い、強く目を瞑る。
それでも――
『王子と召使いの恋は、何が何でも許されなかったんです。少女の死は、表向きは病死と云うことにされました。王子も少女は病死したのだと思い込み、彼女の死をひどく嘆き悲しみました。ですが、その後他国の姫と結婚してしまいました』
侍女から聞いたあの話は、どうしても心に残ったままで消えてはくれなかった。
◆
目を僅かに腫らして無我夢中で辿り着いたのは、何百冊もの本が並ぶ図書室だった。
別に勉強がしたい訳ではない。
けれど、いつまでも屋根裏部屋にいる訳にはいかなかったし、かと言って部屋に戻っては恐らくラオヴァルトが待っている。
……泣いたまま走り去ってしまった手前、エティシラはまだ彼とは会いたくなかった。
「………」
幸い、うるさい先生――否、アニも今日はここにいない。
エティシラは本棚と本棚の間を立ち歩き、ひとつの本の前で立ち止まった。
この前も読んだ、我が国ベルリガ帝国の歴史についての本だ。
歴史自体は大嫌いだが、近代のこの国の歴史については、姫として少しくらいは頭に入れておきたい。
少し前まで、他国を滅ぼしてばかりで過激だったベルリガ帝国。
ベルリガ帝国に滅ぼされた国のひとつ、「レイホルム帝国」。
それは本当につい最近まで存在していた国で、とても栄えていたと云う。
本を手にとって読み、改めて近代の歴史を復習し、エティシラはふと疑問に思う。
ベルリガ帝国によって滅ぼされた国に住んでいた人々は、どんな気持ちでいるのだろう。
特にレイホルム帝国は失くなったのが最近のことなのだから、かつてレイホルム帝国に住んでいた人々は今も生きているはずだ。
無論、家族や大切なものを失ってしまった者も。
この国についてどんな思いを抱いているのだろう。
この――「鬼の国」とさえ云われる、ベルリガ帝国について……。
「――姫様」
いつもより少し焦りが含まれているような声は、卒然と図書室に響いた。
「――」
エティシラは言葉も無く、驚いて顔を上げる。
「ここにいたんですね。……探したんですよ」
目の前には息を切らしたラオヴァルトが立っており、その表情は怒っているように感じられた。
睨むように鋭い瞳を向けられ、エティシラの身体は自然と硬直してしまう。
今は話をしたくなかった。
顔だって合わせたくなかった。
――逃げなきゃ。
心では強くそう叫んでいるのに、エティシラは金縛りにあったかのように動くことができない。
「…………」
そのままゆっくりと歩み寄ってきたラオヴァルトは、エティシラにぐっと顔を近づける。
ようやく動けるようになり、エティシラは後退りをしたが――あえなく後頭部を本棚にぶつけてしまい、同時に持っていた本を床に落としてしまった。
素速く逃げてしまえばよかったのだが、ラオヴァルトはそれを読んでいたようで、本棚に手をやりエティシラが逃げるのを阻止していた。
逃げられない。
少しずつ穏やかになりつつあったエティシラの心臓は、また鼓動を刻み始める。
「……こっちを、見てください」
俯いていると、まっすぐに自分を見つめるラオヴァルトがそっと囁いた。
「………」
拒絶など許されていないような気がして、エティシラはゆっくりと顔を上げた。
揺らぎのない、青藍色の瞳と視線が合った途端――
ラオヴァルトは、小さな声で切り出した。
「姫様に、お話があります」




