第一話
タイトルは「せいらんしつじのひみつ」と読みます。
まだまだ春には程遠い、二月三日――。
凍てつくような寒さのこの日、ベルリガ王国の宮廷は一段と賑わっていた。
特に、国王ダーフィトと王妃コスタの高揚ぶりは相当のものであった。
それもそのはずだ。
今日はただ一人の子供である姫君エティシラの、16回目の誕生日なのだから。
「エティシラももう15歳とはなあ!」
グラスに注いだワインを一気に飲み干し、父が言った。
何百人もの使用人がずらりと並んだ大広間では、エティシラの誕生日パーティーが行われていた。
薔薇の紋様が施された正方形のテーブルを囲む、臙脂色の大きいソファが四つ。
国王家族はその中の三つに、贅沢にも一人ずつ腰掛けている。
「ちょっとお父様、間違えないでよ。わたしは今日16歳になったのよ」
いつものものより少し値が張る桃色のドレスを纏った姫、エティシラは、真剣な表情で父に抗議するが、すっかりほろ酔い気味の父は「すまんすまん」と赤い顔で呑気に笑い出した。
今回の誕生日パーティーは、エティシラ本人の希望ではなく、娘を溺愛する両親が催したものだ。余計な金がかかるから……とエティシラは遠慮したのだが、半ば強引に催された。
溢れんばかりの愛情を注いでくれるのはとても嬉しいのだが、正直なところ早く終わってほしかった。
つい先程まで、自分の誕生日を祝うべく宮廷を訪れてくれた様々な客人の対応に追われっぱなしだったエティシラは、もうすっかり疲れきっている。
だから、休みたかったのに――このパーティーが終わらない限り、エティシラは休むことができない。
――パーティーが終わって部屋に戻ったら、すぐにブルーノに愚痴をこぼそう……。
エティシラは大広間を見渡し、ブルーノの姿を捜す。
“ブルーノ”ことブルーノ=デリウスは初老の男性で、エティシラの執事だった。
温和な性格のブルーノは、どんなワガママだって聞き入れてくれる。エティシラにとっては祖父のような存在だ。
「……あれ?」
だが、かなり入念に捜しても、ブルーノの姿はどこにも無かった。
おかしいな、とエティシラは目を凝らして再び大広間を見渡すが、やはり彼は見当たらない。
「ブルーノは?」
誰に対してでもなくぽつりと呟くと、彼女の母が平然な顔で答えた。
「ブルーノなら、本日付けであなたの執事を辞めたけれど」
「辞めた!?」
勢い良くソファから立ち上がり、エティシラは思わず声を荒げる。
「ええ、辞めたのよ。奥さんが病気にかかってしまったらしいわ。だから、執事を辞めて奥さんの看病に努めるんですって」
「そんな……」
淡々と事実を述べる母に反して、エティシラはかなり落ち込んでいた。
ずっと、昔から。
少なくとも物心がついた頃には傍にいて、いつも自分の面倒を見てくれたブルーノ。
両親には言えないようなことも彼になら話せた。相談にもたくさん乗ってくれた。悪戯だって数えきれないほどしてきたが、ブルーノは「姫としてあるまじき行為ですよ」説教をする代わりに両親には黙っていてくれた。
彼は執事であると同時に、一番の理解者だったのだ。
それなのに――何も言わずに、自分のもとから去っていってしまうなんて。
「……あんまりじゃない。わたしに、一言くらい言ってくれたって良かったのに……。ひどいわよ」
ブルーノと数々の思い出を胸に、エティシラはややきつく唇を噛み締めた。
「仕方ないさ。きっとお前に言ったら、絶対に引き止められると思ったのだろう。それに、余計に別れが辛くなるからな」
少し酔いが覚めてきた様子の父が、エティシラを宥める。
「まあ、安心しなさい。ちゃんと“代わり”は用意してあるからな」
「代わり?」
父の言葉を暗唱して首を傾げたのと、大きな扉がギイィ……と音を立てて卒然と開いたのは――同時だった。
エティシラは父の返事を待たずに、少し遠い扉の方へと視線を移す。
よく晴れた青空の上に、海の藍色を被せたような青藍色だった。
距離があってもよく見える、開いた扉のもとに佇立する男の瞳は――。
「姫様」
聞く者を陶酔させてしまいそうな、透明感のある声で男は言った。
身に纏った燕尾服と同じ、黒色の革靴で高級フローリングの床上を歩き、呆然としているエティシラの元へゆっくりと近づいてゆく。
サファイアの宝石のように美しい青藍色の瞳は、近くで見るとより一層美しく思えた。
黒い髪に、黒い服装。全身を黒一色で包んでいるからこそ、その青い瞳の美しさが余計に際立つのだ。
男は靭やかな動きで屈みこみ、その青眼でエティシラをまっすぐに見上げる。
「だ……誰……?」
ようやくエティシラの口から放たれた問いに、「お目にかかれて光栄です」と男はふっと微笑む。
「俺はラオヴァルト=デリウスと言います。――本日から、あなたにお仕えさせて頂く"執事”でございます」
そのまま彼女の手を取り、ゆっくりと優しいキスを落とした。