『私のためだ』と夫は申しますが、いつ私が判断を委ねたのでしょうか
夜会の広間は、初秋の花で飾られていた。壁際には楽団が控え、給仕たちが銀の盆に軽食を載せて行き交っている。私、セラフィナ・オルコットは、夫グレアムの隣で、招待客への挨拶を一通り終えたところだった。結婚して二年、こうした場にもすっかり慣れたつもりでいた。
グレアムは社交的で、誰からも好かれる人だった。困っている人を放っておけず、頼まれごとには進んで応じる。そうした性分を、私は結婚した当初、好ましく思っていた。誰かのために動ける人は、きっと妻である私にも同じように誠実であるだろうと、そう信じていた。
その時、旧友のフィリシアが、扇を片手に近づいてきた。
「セラフィナ様、先月のお茶会のお誘い、お断りされたと伺いましたが」
「お茶会?」
私には身に覚えがなかった。フィリシアは怪訝そうに首を傾げる。
「グレアム様から、セラフィナは多忙のため参加できない、とのお返事をいただきましたけれど」
隣に立つグレアムを見ると、彼は悪びれる様子もなく頷いた。
「ああ、それなら覚えている。お前は最近忙しそうだったから、代わりに断っておいたんだ」
「私は、フィリシア様からのお誘いを、一度も耳にしておりません」
フィリシアは戸惑った様子で、私とグレアムを交互に見た。
「まあ……それでは、私、勝手に嫌われてしまったのかと、ずっと気を揉んでおりましたのに」
「そのようなことは、決してございません。私こそ、お誘いをいただいていたことすら存じませんでした」
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私は静かにそう告げた。グレアムは軽く笑って答える。
「わざわざ相談するまでもないと思ったんだ。お前の負担を減らしたくてね」
「私が判断する前に、私の返事が既に決まっていたということでございますか」
「そう固く考えることはないだろう。お前のためを思ってのことだ」
その言葉に、フィリシアが小さく眉をひそめた。それを見て、私はふと気づく。この二年で、似たようなことが何度もあったのではないか、と。
「グレアム様、お伺いしたいことがございます」
「なんだ」
「いつ私が、その判断をあなたに委ねたのでしょうか」
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私は侍女に合図し、持参していた手控えを取ってきてもらった。結婚した日から、誰にいつ何を依頼され、私が何を答えたかを書き留めてきた、几帳面なだけの習慣だった。まさかこれが、こんな形で役に立つとは思っていなかった。
この習慣を始めたのは、嫁ぐ前、実家の母から言われた一言がきっかけだった。「約束事は、後になるほど記憶が都合よく変わっていくもの。誰の言葉も、まずは書き留めておきなさい」。母自身、若い頃に同じような行き違いで苦労した経験があるらしかった。当時はただの用心深さだと思っていたが、今夜、その意味を思い知ることになるとは考えてもいなかった。
周囲の招待客たちが、何事かと視線を集め始める。グレアムは「こんな場所で、そんなものを出さなくても」と小さく声を潜めたが、私は構わず頁を開いた。
「三月、フィリシア様からのお茶会のお誘い。私への確認はなく、グレアム様が私の名で辞退なさっています」
グレアムの表情が、わずかに強張った。
「五月、実家の母からの相談の手紙。返信の控えには、グレアム様の筆跡で『セラフィナは今、余裕がない』とだけ記されております。私は、その手紙の存在すら知りませんでした」
その場にいた数人が、小さく息を呑む音がした。実家の相談事にまで及んでいたとは、私自身、手控えを読み返すまで気づいていなかった。
「七月、慈善バザーへの参加依頼。グレアム様が『妻は体調が優れないので』とお断りになったと伺っておりますが、私はその週、健やかに過ごしておりました」
「セラフィナ、それは……」
「六月にも、同様の申し出がございました。友人リディア様からの、観劇のお誘いです。その日、私は屋敷で一人、誰からのお誘いもないと思い込み、静かに過ごしておりました」
リディアという名前を聞いて、少し離れた場所に立っていた若い夫人が、はっとしたように顔を上げた。
「私のことでしょうか……あの時、お返事がなかったので、てっきり興味を持たれなかったのだと」
「申し訳ございません、リディア様。私は、お誘いそのものを存じませんでした」
リディアは驚いた顔で、グレアムへと視線を移した。彼は気まずそうに目を逸らすばかりだった。
「まだございます」
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私は頁をめくり続けた。声を荒げるつもりはなかった。ただ、事実を一つずつ積み上げるだけでよかった。
「九月、私の裁縫仲間との集まり。十月、隣家の夫人からのお茶のお誘い。十一月、慈善活動の再度のお声がけ。いずれも、グレアム様が私に確認せず、お断りになっております」
数え上げるうちに、招待客の何人かが、驚いたように顔を見合わせ始めた。私が思っていた以上に、この二年間の行き違いは積み重なっていたらしい。
「全部、お前の負担を思ってのことだったんだ。信じてくれ」
「善意であったことは、疑っておりません。ですが、善意であれば、確認を省いてよいという理由にはなりません」
周囲の招待客たちが、次第に会話に耳を傾け始めていた。フィリシアは何か言いたげな顔をしていたが、口を挟まずにいた。
「グレアム様は、この二年間で、私に何かをお尋ねになったことが、一度でもございましたでしょうか」
グレアムは、答えられなかった。
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「私は……お前を煩わせたくなかっただけだ」
「煩わせたくないのであれば、お尋ねになった上で、私自身にお断りいただく機会を差し上げるべきでした。グレアム様がなさったのは、私の代わりに私の交友関係を決めることでございます」
「そんなつもりじゃ……」
「つもりの有無は、既にこの手控えが物語っております」
近くで話を聞いていた壮年の伯爵が、堪えかねたように口を挟んだ。
「グレアム殿。奥方は、あなたの善意を疑っているのではない。あなたが奥方の意思を、一度も確かめてこなかったことを問題にしておられるのだ」
「……」
「善意のつもりで人の人生を決めることを、世間では何と呼ぶかご存じか」
グレアムは、答えられなかった。
私は静かに手控えを閉じた。フィリシアが、ようやく口を開いた。
「セラフィナ様……存じませんでした。私、何度もお誘いをお断りされて、嫌われてしまったのかと思っておりました」
「私も、今夜初めて知りました」
言いながら、私は自分でも意外なほど落ち着いていることに気づいた。怒りよりも先に、腑に落ちる感覚があった。この二年、社交の場で感じていた居心地の悪さ、友人たちの態度がどこかよそよそしく思えた理由――その全てが、今、一本の線で繋がった気がした。
その一言に、フィリシアの表情が僅かに緩んだ。
「セラフィナ様がお茶会をお断りになる度、私、何か粗相をしたのではと、ずっと気にかけておりました。まさか、そのようなことになっていたとは」
「気に病む必要はございません。断っていたのは、私ではなくグレアム様でしたから」
フィリシアは小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。同時に、周囲の空気は、グレアムへの静かな失望に変わっていった。取り巻きの誰も、彼をかばおうとはしなかった。
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「グレアム様」
私は、彼に向き直った。
「善意であったことは疑いません。ですが、私の代わりに私の人生を決める権利は、どなたにもございません」
「セラフィナ、待ってくれ。話し合おう」
「話し合いは、私の意思を確認することから始まるものと存じます。この二年、それが一度もなかったことは、今夜、皆様の前で明らかになりました。今さら話し合いの席を設けたところで、同じことの繰り返しになるだけかと存じます」
私は一礼した。
「離縁を、申し出させていただきます」
会場が静まり返る。グレアムは何も言えないまま、その場に立ち尽くしていた。
「セラフィナ、待ってくれ。これから変わる。約束する」
「約束は、既に二年前にも交わしていたはずでございます。夫婦として、互いを尊重し合うという、婚礼の誓いの言葉として」
「それは……」
「言葉だけでは、もう十分でございます。次に必要なのは、行動の記録でございましょう。ですが、それを確かめる役目は、もう私ではございません」
グレアムは、それ以上、何も言い返せなかった。周囲の視線が、静かに彼から離れていくのがわかった。誰も、彼を引き止めようとはしなかった。
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馬車に揺られながら、私は膝の上の手控えをそっと開いた。三月からの記録が、こんな形で自分を助けることになるとは、書き始めた当初は思いもしなかった。
もともとは、物忘れを防ぐための、ただの習慣だった。誰に何を頼まれ、何を答えたか。それを書き留めておかなければ、社交の場で行き違いが起きてしまう。そう考えて始めただけのことだった。
実家に戻ると、母が驚いた顔で出迎えた。事の次第を簡単に伝えると、母はしばらく黙り込んでから、静かに言った。
「あなたは昔から、几帳面すぎるくらいだったものね。まさかそれが、こんな時に役立つとは」
「役立てるために、続けていたわけではございません。ただの習慣です」
「それでも、続けていたから、今日、自分の言葉で立てたのでしょう」
母は紅茶を淹れながら、少し考える様子を見せた。
「グレアム殿は、悪い人ではなかったのでしょう。ただ、良い人であることと、誠実であることは、別の話ね」
「はい。私も、長い間、その違いに気づけずにおりました。良い人であることに安心して、それ以上を確かめようとしなかったのは、私自身の落ち度でもございます」
「気づけただけ、良かったと思いましょう。中には、一生気づかないまま過ごす人もいるのだから」
母はそう言って、湯気の立つ茶器を私の前に置いた。指先に伝わる茶器の熱さだけが、今の私にとって確かなものだった。
扉が軽く開き、父が顔を覗かせた。夜会での出来事は、既に耳に入っていたらしい。
「セラフィナ。大変だったな」
「お騒がせいたしました」
「騒がせたのは、グレアム殿の方だろう。……お前が長年、几帳面に手控えをつけていたことは、私も知っていた。まさか、それがこんな形で役立つとは、正直思っていなかったが」
「私自身も、同じでございます」
父はしばらく黙り込んでから、静かに言葉を続けた。
「これからは、一人で立つことになる。心配はないか」
「心配がないと申し上げれば、嘘になります。ですが、誰かに代弁される日々よりは、たとえ心細くとも、ずっと気が楽でございます」
父は、それ以上何も言わず、ただ小さく頷いた。窓の外では、庭木の葉が夜風に揺れていた。その静かな音だけが、しばらくの間、部屋を満たしていた。
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自室に戻り、窓辺の椅子に腰を下ろす。手控えの最初の頁には、結婚した日の記録があった。「本日、グレアム様と婚礼。ご挨拶にいらした方々のお名前を控える」――たったそれだけの、簡素な書き出しだった。
あの日、私はこの結婚に、それなりの期待を抱いていた。相手の善意を信じ、任せることが、良い妻の在り方だと思っていた時期もあった。だが、任せることと、決められることは、違う。
窓の外では、月が静かに庭を照らしていた。明日からは、また新しい頁を書き足していくことになる。今度は、誰かに代弁される人生ではなく、自分の言葉で答える日々を。
結婚とは、互いの言葉を預け合うことだと、かつては思っていた。だが本当に必要なのは、預けることではなく、確かめ合うことだったのだと、今はわかる。誰かのために動くことは、その誰かに尋ねることと、決して切り離せない。
フィリシアやリディアのことも、明日にでも改めて手紙を書こうと思う。行き違っていた二年間を、少しずつでも埋めていきたかった。それは、グレアムには任せられなかった、私自身の手でしかできないことだ。
私はペンを取り、今日の日付を記した。次の頁には、まだ何も書かれていない。これから先、この手控えにどんな言葉を綴っていくのかは、他の誰でもなく、私自身が決めることだった。
蝋燭の灯りが、頁の上でゆっくりと揺れていた。窓辺に置いた手控えを閉じ、私は静かに立ち上がる。長い夜だった。それでも、明日の朝が来ることに、不安よりも小さな安堵を覚えている自分がいた。
この記録は、もう誰かを問い詰めるための道具ではない。明日からは、ただ自分自身の日々を、自分の言葉で綴っていくための、静かな相棒になるだろう。




