Wolf-1 令息の伝言 1
早朝の森には冷たい空気が漂っていた。春の暖かさなど感じられない中を、ベアトリクスは静かに歩く。
マルガレーテを連れて帰って来てから数日。オリヴィエとの約束の日。
まだ眠っている子供達を置いて、見張りの人狼に挨拶をして集落跡を出て来た。教会まで歩いているうちに徐々に日が昇り気温も上がって来るはずだが、ベアトリクスの想定よりも今日は日の出が遅いようだった。それとも、外出が早すぎたのかもしれない。
いつものように一時間ほど歩いて、教会に辿り着く。すると、誰も訪れないはずの鈍色の扉が僅かに空いているのが見えた。
「もう来てるのかな」
重厚な扉をそっと開ける。誰もいない構内には外と同じ冷たい空気が満ちていた。フレスコ画に描かれた大昔の人々が相変わらず双六遊びをしているだけで、オリヴィエの姿は見当たらない。
ベアトリクスは扉を閉めてから祭壇の方へ歩き出す。被っていた深紅の頭巾を脱ぎ、サイコロを持つ女神の像と向かい合う。女神を厚く信仰することはないが、なんとなく頭巾は脱いだ方がいいような気がして教会に入った時にはいつも脱いでいた。
ふと見ると、祭壇に何かが置かれているのが目に入った。その辺りの草むらで摘んで来たと思しき花がいくつか供えられている。誰かが教会に入ったことは間違いないようだった。
ベアトリクスは枯れかけている花を一輪手に取る。名も知らぬ、小さな花である。
「誰が……」
いつくもある別邸を不定期に移動しながらオリヴィエは暮らしている。ベアトリクス達の秘密基地に近い現在の別邸に彼が移って来てから、待ち合わせにはこの教会を使っていた。その間、他の来訪者と遭遇したことはない。近隣に暮らしていた人間が立ち去り、放置された教会には誰も来ないはずだった。
花を一輪持ったまま、ベアトリクスは祭壇の周辺を探って覗き込むようにして歩く。その時丁度、朝日が差し込んでステンドグラスから光が落ちた。双六やサイコロ、女神の伝承を題材にしたフレスコ画と対になっているステンドグラスである。照らされた床に、何かが転がっているのを見付ける。
「人間……? し、死んでるの……?」
色とりどりの光を浴びて、小柄な人間らしきものが横たわっている。こちらに背を向けているので人相は分からないが、纏っている服は上品なワンピースだった。
「貴女、大丈夫……?」
花を放って、ベアトリクスは跪いて誰かを抱き起した。女の子だ、と認識した直後にかわいらしい頭が首から落ちる。鈍い音を立てて床に落ちた頭は、ころころと転がって壁に当たって止まり、こちらを向く。無機質なガラス玉の瞳がベアトリクスのことを物悲し気に見上げていた。
悲鳴すら出せずに青褪めていたベアトリクスは、女の子が人形だということに気が付くとすぐに気持ちを切り替えた。体を横たえ、頭を拾う。
血の流れる場面をいくつも見て来た。体の部位が欠損する大怪我を負った者を見たことがある。しかし、さすがに頭が目の前で落ちる様を目撃するのは初めてだった。人形であってよかったと安堵しつつ、その頭をなんとなく手元で回す。
美しい金色の髪に、真っ青な瞳。小さな唇にピンク色の紅が塗られ、冷たく硬いのに柔らかそうな頬も赤みを帯びていた。庶民の子供が遊ぶような簡単な人形とは異なる、上流階級の子供が部屋に飾るような精巧に作り込まれた人形だった。
「どうして人形なんか……。……ん」
ひっくり返したところで、頭部の空洞に丸められた紙が入れられているのが見えた。取り出してみるとそれは手紙であり、あて先はベアトリクスで、差出人はオリヴィエだった。
曰く、しばらく会えない、と。そして、鍵を預かってほしいという旨が書かれていた。
「鍵? 鍵なんてどこに」
近くにあるものは、花と人形だけだ。通りすがりの人を装ってオリヴィエが供えた雑草と、忘れ物に偽装した封筒代わりの人形。ベアトリクスは人形の体を確認する。すると、ワンピースの中に硬いものがあることが分かった。捲ってみると首から鍵を下げている。どこの鍵なのかは皆目見当が付かないが、オリヴィエはこれをベアトリクスに預かってほしいようだ。
人形の体に頭を付け直し、小さな作り物の女の子を抱きかかえてベアトリクスは集落跡へ帰る。道中、オリヴィエからの手紙の内容を反芻していた。しばらく会えない。屋敷の方にも来るな。何かあればまた手紙を教会に置く。人形は子供達にプレゼントしてあげて。何かに急き立てられているような、焦っているような筆致。手紙を走り書きし、人形の頭に強引に手紙を押し込み、床に放り投げるようにして、扉を閉める余裕すらなく教会を飛び出した様子が目に浮かぶようだった。
日が昇って明るくなった森の中は、薄暗かった時には見えなかったものも見えるものだ。オリヴィエのことを考えながら歩いていたベアトリクスは地面に抉られた跡があるのを見付けた。今朝は色々なものを見付けるなと思って屈んでみると、どうやらそれは馬の蹄の跡らしかった。馬車の車輪の轍もある。
「まだ新しい」
脱いだままだった深紅の頭巾を深く被って立ち上がる。
「誰か人間が通りかかったんだ」
人狼に荒らされた集落ばかりのこの辺りを好んで通り道に使う人間はあまりいない。人形を抱く腕に無意識に力が入った。オリヴィエに会うためだけに出て来たので今は銃を所持していないが、状況を確認せずに帰るわけにはいかない。
集落跡の秘密基地で暮らす子供達にとって危険な相手は、森の獣や人を食らう人狼だけではない。人間の大人もまた、危険な存在だった。秘密基地で人間の子供を発見した人間の大人は、ベアトリクスの赤毛を忌避し、ヒトケダモノを軽蔑し、人狼と狼を攻撃するに違いない。安寧とは程遠い暮らしを送る子供達は、さらにそれから遠ざかるだろう。説明なんて聞いてくれるわけがない。
息を潜めながら、足跡と轍に沿って進む。すると、少し開けたところに焚火の跡があった。ここで夜を過ごし、日が昇る前に去って行ったのだろうか。
「猪の足跡がある。猪が来て、慌てて逃げて行ったんだ」
人間と馬、猪の足跡が入り乱れる地面にボタンが一つ落ちている。ベアトリクスは拾ったボタンをポケットに入れて、もう一度周囲を確認してから帰路に着いた。
オリヴィエに会いに行っただけにしては遅すぎると、レミが心配しているかもしれない。ほんの少し早足でベアトリクスは歩く。




