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Wolf-6 忘却の令嬢

 雲間から日の光が差し込み、草木が葉の上に溜まった雨粒を数滴落とす。鳥が囀り、栗鼠が茂みを駆けて行く。昨夜までの土砂降りがまるで嘘のような、穏やかな朝だった。


 小屋の前で丸くなっていた狼が目を覚まし、大きな欠伸をする。狼達は適宜交代をしながら外を見張り続けていた。マルガレーテを襲ったならず者はベアトリクス達を見失ったのか、諦めたのか、結局ここまではやってこなかった。


 天井と壁に穴の空いている小屋の中にも光が差していた。残りの狼達と寄り添って眠っていたロザリーの頭頂部の耳が小さく動き、そしてゆっくりと瞼が開かれる。上体を起こしたロザリーは、肩に布がかかっていることに気が付いた。ベアトリクスの深紅の頭巾である。


「お姉様……?」


 小屋の中にベアトリクスの姿がない。隅で眠っているマルガレーテの傍にいるのかと思ったが、そこにもいない。ロザリーは小屋の中をうろうろと歩いて、外に出る。


 雨上がりの匂いが広がる森の中。小屋から出て来たロザリーに、見張りの狼が小さく鳴いて挨拶をした。


「おはようございます。お姉様がいらっしゃらないんですの。見ていませんか?」


 狼からは「否」という素振りが返って来る。


「まあ。貴方は見張りをしていたはずなのに、知らないんですね。眠っていたのね。怠慢ですわ」


 不服そうな狼とロザリーが静かに向き合っていると、茂みが大きく揺れた。三角形の耳が四つ音を拾って、顔が二つそちらを向く。


「責めちゃ駄目だよロザリー。みんな疲れてるし、アタシ向こうの壁の穴から出たからさ」

「お姉様!」


 茂みの中から現れたのはベアトリクスだった。銃を肩に掛けており、手には兎を一羽捕まえている。ベアトリクスが使っている銃はおもちゃのため、獲物を仕留める殺傷能力は全くない。しかし、小動物を驚かせるには十分である。ベアトリクスには鋭い爪も牙もないが、人間の体でもできる技を使うことで人狼と共に暮らして来た。小さな獲物を捕らえるくらいならば一人でもできる。


 かなり手間取っちゃった、と言いながらベアトリクスは兎をロザリーに差し出す。耳を掴まれている兎はばたばたともがいていた。


「これ、まだ生きてるんだけど絞めて捌ける?」

「はい」

「じゃあ、分けたらみんなにあげておいて。見張りで疲れてるはずだから。アタシ達はこれね」


 ベアトリクスは反対の手に持っていた袋を見せた。中には木の実が数粒入っている。


「少な……いえ、そうですわよね。わたし達より、皆様の方が食べておかないと」


 今回の調達は切り上げて準備ができたら秘密基地へ帰る予定だ。道中、一行の安全を守るために狼達には英気を養ってもらわなければならない。森の中には危険な動物が多く、狼達が動けなければベアトリクス達はひとたまりもない。猪や他の群れの狼が襲い掛かって来た時に頼れるのは狼達である。彼らもまだ子供ではあるものの、秘密基地の仲間を守って来た実力は折り紙付きだ。


 もがく兎をロザリーに託し、ベアトリクスは見張りの狼に挨拶をしてから小屋の中に入った。集まって丸くなっていた狼達がベアトリクスの登場に顔を上げる。


「みんな、おはよう。ロザリーが外で兎を捌いてくれてるよ」


 嬉しそうな鳴き声を上げて外に出て行く狼達を見送り、マルガレーテに歩み寄る。


 髪やドレスに付いた水滴が日差しを受けて煌めいていた。こんなに光り輝く美しい人間をベアトリクスは知らない。オリヴィエは美しく高貴な少年だが、マルガレーテの美しさはオリヴィエのそれとは異なった。まるで物語や絵画の中から飛び出して来たかのような、幻想的な雰囲気を帯びているのだ。


 この令嬢を連れて帰ってしまっていいのだろうか。しかし、森に置いて行くことはできない。夜もすがらそんなことを繰り返し考えていて、ベアトリクスは正直寝不足気味だった。


「……マルガレーテお嬢様、朝ですよ」


 使用人ぶって声をかける。すると、長い睫毛で縁取られた目が静かに開けられた。青い瞳がベアトリクスのことを視認する。


「おはよう、マルガレーテ」

「貴女は確か……ベアトリクス……。おはよう……ございます」


 起き上がり、マルガレーテは軽く髪を整える。汚れたまま眠ってしまった髪はごわごわとした触り心地になっており、見るだけでベアトリクスにも分かった。


「一晩寝たら何か思い出した?」

「いいえ、全く。わたくし、どうしてしまったのでしょう……」

「……あのね、マルガレーテ。貴女がよかったら、なんだけど」

「はい」

「アタシ達と一緒に行かない? アタシ達、右も左も分からなくなっている貴女をここに置いて行くことはできない。貴女もここから一人でお屋敷になんて帰れないでしょ。何か思い出すまで、誰かが探しに来るまで、アタシ達の集落にいるのはどうかな」


 マルガレーテは値踏みをするようにじっとベアトリクスを見ていた。この娘に付いて行っていいのかと、悩んでいるようだった。


 そこへ、今にも外れてしまいそうなドアを開けてロザリーと狼達が小屋に入って来た。マルガレーテの視線がベアトリクスからロザリー達へと移る。獣と、獣のような耳と尾を持つ少女がやって来て驚きを隠せない。長い睫毛で囲われた青い瞳が微かに震えた。


「あっ、申し訳ありません、お姉様。まだ入ってはいけませんでしたか」

「いいよ、ちょうど呼ぼうと思ってたから。あのねマルガレーテ、アタシ達の集落にはこの子達みたいな見た目の子がたくさんいる。だから、貴女が怖くて嫌だと思ったらアタシの提案を断ってくれても構わない」

「貴女は、犬と暮らしているのですか? 彼女は犬の仮装を?」

「犬……まあ、犬かなぁ。……あの、マルガレーテは……ヒ、ヒトケダモノと呼ばれる人達のことを知らない?」


 あまりその呼び名を口にしたくなかった。その名は、彼らを軽蔑する者達が付けた名だからだ。しかし他に呼びようがないので、他者に話をする時にはベアトリクスは躊躇いがちに口にする。


「ヒト……ケダモノ……? ごめんなさい、分からないわ。わたくし、屋敷の外のことはあまり知らないのです。嫌がった方がよかったのですか」

「ううん、嫌じゃないなら嫌がらなくていいよ。それじゃあ、アタシ達と一緒に来る?」

「貴女はなぜこんなにも親身になってくださるのですか。わたくしは自分のことも分からなくて、そのような者を助けて、場所まで提供してくださるなんて。わたくしがこのような身形だから、見返りを期待していらっしゃるのですか」

「森で見付けた迷っている子供を、一人にできないから。それだけだよ。身分とかは関係ない」


 マルガレーテは大きな目を大きく見開き、ベアトリクスを見つめた。出会ってから、一番生き生きとした表情になる。そして、うっとりとした様子でベアトリクスを見た。


「あぁ、ベアトリクス。貴女はとても素敵な人なのですね。貴女は世界で二番目に素敵な女の子だわ」

「あ、ありがとう……? 二番目……?」

「えぇ。だって、世界で一番美しくて素敵なのはわたくしなのだから。鏡もそう言っています」


 そう言って、林檎のような紅が辛うじて残っている唇でにこりと笑った。可憐な笑みだったが、ベアトリクスとロザリーはなぜだか背筋が寒くなったような気がした。


「えー、えっと……。か、鏡ってこれのことかな」


 トランクを開け、ベアトリクスは手鏡をマルガレーテに見せた。


 鏡が物を言うということに関しては全く意味が不明だが、大事そうにしまわれて運ばれていたこの鏡はマルガレーテにとって特別なものなのだろうということは分かる。ところが、マルガレーテはトランクを手にするベアトリクスを前に小首を傾げたのだった。


「それは?」

「これは貴女が持っていた鏡だよ。これのことじゃないの?」

「分かりません……。鏡が『マルガレーテ様が美しい』と言ってくれたような気がするのですが、この鏡がその鏡なのかどうかは……」

「そっか。これもちゃんと持って行くから、何か思い出せたら教えてね」

「はい……」

「じゃあ、朝ご飯を食べたら出発するから貴女もこれ」


 ベアトリクスは袋から木の実を取り出し、マルガレーテに差し出した。


「これは?」

「これは今日のアタシ達の朝ご飯だよ」


 ロザリーにも渡し、二人で食べて見せる。小さな赤い実は木苺である。早起きな森の動物達がいくつも持って行ってしまった後だったため、ベアトリクスが手に入れられたのはほんの僅かだった。一人当たり、二個か三個。


 マルガレーテは受け取った木苺を指で摘まんで興味深そうに見る。普段彼女が目にしている木苺は、ベアトリクス達には想像もつかないようなくらい飾り立てられたお菓子の中にある。摘まれたばかりの姿など、見るのは初めてだ。


 同じような色が付いた唇と木苺が触れ、果実が齧られる。


「美味しい……」

「よかった。食べ終わったら行くからね」


 ベアトリクスは木苺をもう一つマルガレーテに渡す。小さな小さな木苺を、マルガレーテは大切な贈り物のように受け取った。

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