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Wolf-5 雨の中の出会い 2

 ベアトリクスはトランクをそっと開ける。すると、自分の顔が出て来た。きょとんとしている自分の顔がトランクの中から自分を見ているのである。


「鏡だ」


 花や草の形をした金属の枠が付いた立派な手鏡である。綺麗に磨き上げられていて、薄暗い小屋の中が余すところなく映り込んでいた。ベアトリクスがこれまで見て来た鏡はどれもくすんでいたり割れていたりするものばかりだった。美しい鏡は実に興味深く面白い。


 手に取って色々と角度を変えて自分やロザリー達を映していると、娘が目を覚ましたのが見えた。ベアトリクスは鏡をトランクにしまい、振り返る。


 くるくると巻かれた黒髪と、艶やかな青い瞳。可憐な娘はぼんやりとした様子で虚空を見つめていた。顔に付いている泥を拭い、腕に付いている強く掴まれた痕を見て、汚れたドレスに目を落とす。泥と、水と、血が付着している。


「おはよう。気が付いたんだ」


 歩み寄ったベアトリクスのことを見上げる目は虚ろで、自分の状況を理解できていないようだった。どこか遠くを見るようにして小屋を見回す。


「ここは……?」

「どこだろうね。適当な小屋だよ」

「わたくしは……?」

「ならず者に襲われていたところをアタシ達が助けたの」

「ならず者?」

「貴女と一緒にいた大人の人は助けられなかった。ごめんなさい」


 娘は瞳を震わせ、肩を落とす。少しずつ意識がはっきりして来たのか、ドレスに付着している血を見て身震いをした。


「貴女のことを訊いてもいい? 名前は? どこから来たの?」

「人に名を訊ねるのなら先に名乗るべきです」

「そっ、そう……。アタシはベアトリクス。ベアトリクス・ハイネ」

「わたくしはマルガレーテです。わたくしは……。わたくし、は……」


 追加の情報を言おうとしたマルガレーテは言葉に詰まってしまった。視線を彷徨わせ、困ったようにベアトリクスを見上げる。


「わたくし……どこから来たのかしら……」

「アタシに訊かれても……」


 マルガレーテはまた虚ろな表情になり、ベアトリクスから視線を外してどこかを向いてしまった。


「わたくし……分からないわ……。わたくし、どこから来たのかしら……」

「名前はマルガレーテなんだよね」

「たぶん……」

「分かった。後でまた改めて話をさせて。今はもう少し休んでいて。ね」


 小さく頷いて、マルガレーテは膝を抱えて蹲った。すすり泣きを背に聞きながら、ベアトリクスはその場から離れる。距離を取って様子を見ていたロザリーは心配そうな眼差しをマルガレーテに向けていた。


「覚えてない……のかな」

「そうかもしれませんわね」


 どこかの裕福な家の令嬢にとって、ならず者に襲われて目の前で使用人を亡くすことはあまりにも衝撃的すぎる出来事だ。


 辛く悲しいことがあると物事を忘れてしまうことがあると、ロザリーはベアトリクスに話をしたことがあった。かつてロザリーがいた見世物小屋や富豪の屋敷には、連れて来られる前のことや連れて来られたばかりのことを忘れてしまった子供がいたという。恐怖や緊張、動揺はその度合いが高いと心に多大な影響を及ぼすのだろうとロザリーは言う。自分は己を忘れなかったが、あと一日でも人狼の襲撃が遅ければどうなっていたか分からない。話をした時、ロザリーはベアトリクス達に出会えてよかったと言って泣いて笑った。


 マルガレーテも、襲撃に遭ったショックで名前以外を忘れてしまったのかもしれない。もしくは、ベアトリクス達のことを警戒して情報を教えないようにしているか。いずれにせよ、ベアトリクス達はマルガレーテに敵意がないと示して安心させなければ次の行動には移れそうにない。


 すすり泣いているマルガレーテを小屋の隅に置いて、ベアトリクス達はひとまず腹を満たすことにした。秘密基地から持参している食料は残りあと少し。今回の調達はそろそろ切り上げて帰らなければならない。得たものはクッキー缶らしきものと憔悴したマルガレーテだけである。


 外で待機している狼に干し肉を渡して戻って来たロザリーに、ベアトリクスは乾いたパンを千切って渡す。各々の取り分はほんの少しだ。


 口の中の水分を持って行かれるが、この土砂降りの中では川の水を掬いに行くことはできない。狼達は泥水も平気で飲むことがあるが、ベアトリクスとロザリーは泥水だと流石に腹を壊してしまうからだ。味のしないパンを一所懸命に咀嚼してから、唾液と共に喉に押し込む。そして、ベアトリクスは手元に残っていた半分を持ってマルガレーテに近付いた。


「ねえ」


 蹲っていたマルガレーテが静かに顔を上げる。彼女の顔にはベアトリクスが知らないような化粧品が塗られていたが、雨や涙でそれはどろどろに溶けて流れていた。ドレスの袖に元は綺麗であっただろう色が混ざり合って付着している。


 警戒されないように、ベアトリクスは屈んでからパンを差し出した。


「何か食べたら、ちょっとは元気になるかも。これ、よかったら」

「それは……何?」

「パンだよ。ぱっさぱさだけど」

「え……」

「ごめん。お嬢様に渡すものじゃないとは思うんだけど、これしかなくて。貴女が持っていたクッキーっぽい缶は、収穫できたものだからそのままみんなに持って帰りたいんだよね」


 マルガレーテは困った顔をして、躊躇いがちにパンを受け取った。一口齧り、顔をしかめる。


「これは……いただけません……」

「そう。でももう貴女のだからそのまま持っててよ。お腹空いたら結局食べちゃうんだから」


 青い瞳が怪訝そうにベアトリクスとパンを交互に見た。マルガレーテはしばし悩んだ後、乾ききったパンをもう一口齧る。その様子を見てベアトリクスは屈託のない笑みを顔面に張り付けた。


「お腹空いてるんじゃん! 一人で気持ち整理したいだろうから、アタシ達あっちにいるね。何かあったら声掛けて」


 そして、立ち上がってくるりとマルガレーテに背を向けるとすぐに表情を切り替える。これからどうしよう、という言葉が顔にはっきりと浮かんでいた。


 戦いから逃げて来た人狼の子供を、迫害から逃れて来たヒトケダモノの子供を、行き場を失った狼の子供を、家族を失った人間の子供を、拾って来た。どれもベアトリクスよりも幼い子供達だった。自分と同じくらいの年頃の、ましてお嬢様を拾うなど初めてのことである。


 どこからやって来たのかということが分かればオリヴィエに相談できるが、名前しか分からないのであればオリヴィエも困るだろう。正体不明の、マルガレーテという名前しか分からない謎の令嬢。ベアトリクス達はとんでもないものを拾ってしまった。


「お姉様」

「置いて行くわけにはいかないから……連れて帰ろう。ロザリーやみんなのこと、彼女が嫌がらなければ」


 薄暗い小屋の中で距離を取っているロザリーと狼達の姿を、マルガレーテははっきりとは見ていない。ベアトリクス以外にも子供がいるようだということには気が付いているはずだが、離れている相手にわざわざ声をかけてくることはなかった。


 ヒトケダモノと狼を見たら、マルガレーテはどのような反応をするだろう。ロザリーを見て軽蔑するような顔になるのだろうか。悩むベアトリクスに、ロザリーも心配そうな顔を向ける。


 小屋の外では、まだ止みそうにない雨が降り続いていた。

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