第1話 出刃包丁で愛を終わらせて、異世界で産声をあげる
「こ、殺さないでくれ……ッ!」
階段の踊り場で、かつて私が愛した男が情けない声をあげて尻もちをついている。
私は手に持った出刃包丁の切っ先を眺めた。鋼の刃に、ドロリと赤い筋が流れている。
(……浅かったか)
深々と刺したつもりだったが、脂肪の層に邪魔をされたらしい。これでは「病院送り」で終わってしまう。私は彼を殺しに来たのだ。私の25年分という時間を、一滴も余さず精算するために。
私は再び、包丁の柄を両手で握りしめた。
その瞬間、男は跳ねるように立ち上がり、私の脇をすり抜けて階段を駆け降りた。
「待て──!!」
振り乱した髪が視界を遮るが、そんなことは構わない。
絶対に逃がさない。私の人生をどん底に突き落としたこの男との決着は、今日、ここでつける。
彼はホストだった。私は、ただの太客。
使い古された悲劇だと言われればそれまでだが、私は彼に青春のすべてを捧げ、ボロ雑巾のように使い潰された。
出会いは、最悪で最高だった。
高校生の時、電車の中でコンタクトの不調による涙を流していた私に、彼がハンカチを貸してくれたのだ。
とてつもない美男子。優しげな声。
それが、神崎浩子(17歳)の、地獄への入り口だった。
「20歳ってことにしよう。それならお店に来れるから」
彼は私を自分の店へ招いた。学生にお金なんてない。彼は「バイトで返せばいい」と囁いた。
彼に会いたい一心で通い詰めた。借金は600万円に膨れ上がっていた。
「助けて、浩子。お金を返さないと、僕は山に埋められる」
ベッドで見せられた彼の体のアザ。私は泣いた。彼のために街の裏通りに立って身体を売った。
「君だけが頼りだ」
その言葉だけで私は幸せだった。25歳になるまで、ずっと。
それが、スマホの盗み見した写真一枚で崩れた。
私には見せたこともない、天真爛漫な笑顔で笑う10代の彼。隣には、かつての恩師だという女。
問い詰めた私に、彼は吐き捨てた。
『お前、人のスマホ覗き見するんじゃねーよ、この糞女が!』
それが、彼の本性だった。
「よし、これで完済だな。じゃあ、もう二度と俺の前に面見せるなよ」
最後の札束を数え終えた彼は、ゴミを見るような目で私を見た。
──私はただの、便利な金づるだったのだ。
その瞬間、私の心の中で、パキリと音がして凍りついた。
夜の街をさすらった。駅前のベンチで他人の別れ話を聞きながら、私は確信した。
このままでは終われない。
金物屋で切れ味の良さそうな出刃包丁を買った。私は彼のマンションへ向かった。
「死ねッ!!」
逃げ遅れて転んだ男に、私は仁王立ちで包丁を振り下ろした。
──ドスッ!!
返り血で視界が赤く染まる。そして、滅多刺しだ。男の叫びが止まり、肉塊へと変わっていく。
「包丁を捨てなさい!」
気づけば、警官が二人。若い女の警官が、震える手で拳銃を構えている。
空からは粉雪が降ってきた。ああ、もうすぐクリスマスだったわね。
私は、殺人犯として裁かれるつもりはなかった。この男の被害者をこれ以上増やさないための「正義」だとすら思っていた。
男の警官が踏み込んできた。私は包丁を振り上げる。
パァ──ン!
胸に衝撃。
熱いような、冷たいような感覚と共に、地面が迫る。
発砲した女警官が、泣きそうな顔をしていた。私と変わらない年のようだ。
(ごめんなさいね、怖い思いをさせて。でも、彼だけを地獄に行かせるわけにはいかないの……)
意識が、急速に遠のいていく。
「おぎゃあ! おぎゃあ!」
優しい声が聞こえる。瞼を開けると、そこには守護天使のような美女がいた。
金髪碧眼。中世の貴族が着るようなドレス。
彼女は微笑みながら、私に乳房を含ませた。温かくて柔らかい感触に驚いた。一生懸命に乳を呑み込んだ。
(……え? 私、死んだんじゃ……?)
どうやら私は、赤ん坊として生まれ変わったらしい。
それも、日本人ではない。場所も時代も、あるいは世界すらも違う場所へ。
地獄へ行く覚悟はできていたけれど、神様は私に「やり直し」を命じたらしい。
(……ラッキー。次は、絶対に男に騙されない人生、本物の愛を掴んで見せるわ)
私は母親に、最高に無邪気な赤ん坊の笑顔を向けた。
愛は黙っていたらやって来ない。来なければ、こちらから向かって、追い詰めて、屈伏させてでも掴んで見せる。
その為なら何でもやる覚悟が、私にはあった。
第1話をお読みいただきありがとうございます。
少しでも続きが気になると思っていただけましたら嬉しいです。
ブックマークや評価をいただけると、更新の励みになります。




