死の淵からの呼び声
夏の陽射しが、車窓から差し込んでいた。葉月は後部座席の窓際に座り、膝の上に広げた本に目を落としていた。
姉の葉月はいつもこうだ。学校でも、家でも、友達と話すより本の世界に没頭する。
コミュ障気味で、クラスメートに声をかけられるだけで心臓が早鐘のように鳴る。
隣に座る妹の八重も同じく本を読んでいた。
双子なのに、葉月は黒髪を肩まで伸ばしたおかっぱで、八重は少し短めに切り揃え、ポニーテールにまとめている。
性格も微妙に違う。葉月は慎重で、物事を分析的に考えるタイプ。一方、八重は少しおっちょこちょいだが、想像力が豊かで、物語に感情移入しやすい。
「ねえ、葉月。次はどの本読む?」
八重が小声で尋ねる。車内は静かで、父の運転するミニバンが高速道路を滑るように走っていた。母は助手席で地図アプリを眺め、時折父に道案内をしている。家族旅行の帰り道。海辺のリゾートで過ごした三日間は、姉妹にとって珍しい外出だった。
普段は家にこもりがちの二人だが、両親の強い勧めで渋々参加した。
海で泳ぐより、ビーチパラソルの下で本を読む方が性に合っていた。
葉月は本から目を上げず、ぼそっと答える。
「……次はファンタジー小説の新刊。異世界転生もの。」
「私もそれ読みたい! 主人公が魔法使って冒険するやつでしょ? 現実じゃできないよね……」
八重の声に、少しの憧れが混じる。姉妹はいつもこうして、二人の世界を築いていた。他人と積極的に関わるのが苦手で、学校では孤立しがち。友達がいないわけじゃないけど、話しかけられるのを待つだけで、自分から踏み出せない。
陰キャ、という自覚はある。でも、それでいいと思っていた。
二人さえいれば、十分だった。
車は高速道路を進む。夕暮れが近づき、空が橙色に染まり始めていた。父がラジオを小さく流し、軽快なポップミュージックが車内に響く。母が振り返って微笑む。
「今日は楽しかったわね。次はどこ行こうか?」
葉月は本を閉じ、窓の外を見る。高速道路のガードレールが、流れるように過ぎていく。心の中で思う。
『楽しかった……かな。海は綺麗だったけど、人多すぎて疲れた。家に帰ってゆっくり本読みたい。』
八重も同じように窓辺に頰杖をつく。
『異世界みたいに、魔法があればいいのに。コミュ障でも、呪文唱えれば友達できるかも……いや、ないない。』
そんな穏やかな時間が、突然、終わりを告げた。
前方から、けたたましいクラクションの音が響いた。父がハンドルを急に切る。
「何だ、あれ!?」
葉月が顔を上げる。対向車線から、黒いセダンが猛スピードで突っ込んでくる。暴走車だ。タイヤが悲鳴を上げ、中央分離帯を飛び越え、こちらの車線に侵入してくる。
父がブレーキを踏むが、間に合わない。衝撃が、車体を襲った。
「きゃあっ!」
母の悲鳴。
ガシャン、という金属の軋む音。葉月の体がシートベルトに食い込み、視界が揺れる。車が横転し、アスファルトを滑る。
ガラスが割れ、破片が飛び散る。痛み。激しい痛みが、全身を駆け巡る。
葉月の視界がぼやける。血の匂いがする。自分の血か? いや、もっと強い。隣の八重が、血だらけでうめいている。
「葉月……姉ちゃん……」
葉月は必死で手を伸ばす。八重の手を握る。温かい。
でも、ぬるぬると滑る。血だ。自分の手も血まみれ。
父の座席を見ると、フロントガラスに頭をぶつけ、動かない。
母も、首が不自然に曲がっている。血が、シートを赤く染めている。
『お父さん……お母さん……』
恐怖が、心を蝕む。葉月はパニックになる。
『どうして? なんでこんなことに? 旅行の帰りなのに……死ぬの? 私たち、死ぬの?』
八重の目が、葉月を見つめる。涙が混じった血が、頰を伝う。
「怖いよ……葉月……」
「八重……私も……」
言葉が出ない。痛みが、胸を締め付ける。視界が暗くなる。意識が、遠のく。最後に見たのは、血だらけの両親と、妹の顔。
『助けて……誰か……』
そして、すべてが闇に落ちた。
……
どれくらい時間が経っただろうか。葉月は、ゆっくりと目を開けた。痛みは、ない。体が軽い。
浮いているような感覚。周囲は、真っ白。霧のような白い空間が、無限に広がっている。何もない。地面もない、空もない。ただ、白い虚空。
『ここ、どこ? 夢? いや、事故の後……死んだの?』
葉月は体を起こす。服は血まみれのままだったが、傷はない。隣に、八重が横たわっている。
「八重!」
慌てて揺さぶる。八重が目を覚ます。
「……葉月? 私たち、生きてる?」
二人は立ち上がり、周りを見回す。茫然とするしかない。何もない世界。音もない、風もない。ただ、白いモヤが、ゆらゆらと漂っている。
『怖い……ここ、何? お父さんとお母さんは?』
葉月の心臓が、再び早鐘を打つ。
コミュ障の彼女にとって、未知の状況は最大の恐怖。八重も同じく、葉月の袖を握りしめる。
「葉月、怖いよ……帰りたい……」
二人が寄り添っていると、突然、白いモヤが集まり始める。人の形を成す。ぼんやりとした人影。顔は見えない、ただ白い霧に覆われている。
「ようこそ、葉月、八重。君たちは今、死の淵にいる。」
声が響く。穏やかだが、威圧感がある。男か女か、わからない。中性的な響き。
葉月は後ずさる。
『誰? どうして名前知ってるの?』
声に出せない。コミュ障の壁が、喉を塞ぐ。
八重が代わりに叫ぶ。
「誰なの!? ここどこ!? お父さんとお母さんは!?」
人影がゆっくりと近づく。
「私は導き手。この世界の管理者だ。君たちは事故に遭った。暴走車が原因の多重衝突。君たちの家族は、全員重傷。死にかけている。このままでは、助からない。」
言葉が、胸に突き刺さる。葉月の目から、涙が溢れる。
『嘘……お父さん、お母さん……死ぬの? 私たちも?』
八重が震える声で問う。
「助からないって……どういうこと? 私たち、生きてるよね?」
導き手の人影が、首を振る。
「今は、魂の状態だ。肉体は、現実世界で瀕死。この白い世界は、死と生の狭間。君たちはここに引き寄せられた。」
情景が、変わり白い霧が渦を巻き、映像を映し出す。
事故現場。ひしゃげた車。血だらけの両親。自分たちの体も、シートに倒れ込んでいる。救急車のサイレンが、遠くに聞こえる。
葉月は目を覆う。
『見たくない……怖い……』
心理的に、崩れ落ちそう。いつも本の世界で逃避していたのに、現実は残酷だ。
八重が泣きじゃくる。
「お父さん! お母さん! 助けてあげて!」
導き手が静かに言う。
「助かるチャンスはある。異世界へ行き、試練を乗り越えろ。五つの試練だ。その先にある『願いの鏡』に、願いを唱えれば、家族全員を蘇生できる。」
異世界。葉月の脳裏に、本の記憶が蘇る。
ファンタジー小説で読んだ世界。魔法、モンスター、冒険。でも、現実じゃないはず。
「異世界って……本の話じゃん……」
八重が呟くと導き手が頷く。
「本当だ。エテルリアという世界。君たちの知識が、役立つだろう。君たちは本好きだな。叡智の書を授けよう。それで、魔法の基礎を学べる。」
人影の手から、光の書物が現れる。葉月の手に渡る。温かい。ページを開くと、文字が浮かび上がる。魔法の呪文、異世界の地図。
葉月は戸惑う。
『私たちみたいな陰キャが、冒険? コミュ障で、人と話せないのに……無理だよ……』
でも、家族の顔が浮かぶ。血だらけの両親。死なせたくない。
八重が葉月の手を取る。
「葉月、一緒にやろう。家族を助けよう。」
葉月の心が、揺れる。恐怖と、決意。
『怖いけど……八重がいれば、できるかも。』
「わかりました……行きます。」
葉月が、初めて声を出す。小さく、震えている。
導き手が満足げに言う。
「いいぞ。試練は、勇気、知恵、絆、犠牲、真実。クリアせよ。失敗すれば、すべて失う。」
白い霧が、二人を包む。視界が回転する。異世界への転移が、始まる。
葉月と八重は、手を繋いだまま、未知の世界へ落ちていく。心の中で、誓う。
『家族を、助ける……!』
……
森の入口に、二人は着地した。
木々がそびえ、鳥のさえずりが聞こえる。
異世界エテルリア
幼い姉妹の冒険の始まりを告げる