転移先、森口公園
ハッとした。
荷物・・・記憶が途絶える前は何も持ってなかった。
部屋を見渡すと、淡い色の布団や、古いがきれいに使われている棚。その上に置いてある人形のようなものが彼を静かに見守っていた。
その中でも目立つそれは、彼の見慣れた大切な鞄だった。
ほっとしたのもつかの間、何故鞄も一緒にこの世界にきているのかと違和感を感じた。
様々な疑問は、彼を立ち上がらせるのには十分すぎる理由だった。
土間らしきところにある扉は、外界への扉だろう。
ドアノブに手を掛けるが、彼にのしかかる知らないものへの恐怖が、そちらへ行くなと囁いてくる。
実際にはいないはずのそいつを振りほどき、探索への一歩を踏み出した。
頬を撫でる風に、これほど懐かしさを感じなかったことなどあっただろうか。
何も聞こえてこない、風のささやき声も、ニンフのいたずらも。
耳へやってくるのは人々の声と、耳障りで無機質な、意味のない音。
目の前に広がるのは、彼の知っているものは何一つない。
天を覆う青空と、そこに寝そべるようにこちらを見ている大きな太陽を除いては。
「これは・・・一体・・・」
道はすべて黒く固い材質のもので補装されており、そこをとてつもない速さで人を乗せた何かが、ひっきりなしに走っている。
ひしめき合うように見たことのない形状の建物が並び、石でできた柱が道のいたるところに建ち並んでいた。
異質。目に入るものすべてが異質。
もとより彼の心に居座る孤独感は、この世界で居心地がよさそうにしている。
まずは身を隠せる場所を見つけないと。
そのあと水と食料を確保できる場所を・・・そもそもそんなところあるのだろうか。
「あの、大丈夫ですか?」
背後から聞こえる声は、明らかに彼に向けられていた。
声をかけてきた青年は、耳から何かを外しながら少し眉をひそめてこちらを覗き込んだ。
「か、構うな・・・間に合ってる」
見知らぬ土地で声をかけてくる者は信用してはいけない、この決まりは彼を何度も救ってきた。
逃げるようにその場を後にし、周囲に身を隠せる場所はないかと足を動かす。
灰色の舗装が交差する先に、ふと違和感が目に留まった。
柵で囲われた小さな空間。入り口には”森口公園”の文字が見える。
草が生えている。土がある。無機質な建物の海の中に、ぽつりと落ちた島のようだった。
「・・・森?」
違う。けれど、それは彼の世界で“森”と呼ばれていたものの、名残のように見えた。
色とりどりの奇妙な構造物が並び、中央には、丸みを帯びた半球体の・・・何か。
錆びた金属と、剥げた赤い塗装。
彼には、それが魔獣の殻にも、封印された装置にも見えた。
風が吹いた。土のにおいがした。
その“殻”が空洞であることに気づくと、彼は迷わず歩み寄った。
ここなら、一瞬だけでも身を隠せる・・・そんな気がした。
中に入ると、少し冷たく湿った空気が、彼の呼吸に重くまとわりついた。
背中の荷物をそっと下ろし、長いため息をひとつ。
まずはここがどこで、なぜここに来てしまったのか、それを知る必要がある。
大きく綻びた鞄の中から、いくつかの煌めく石、乾いた木の根を取り出し、土の上に円を描く。
その周囲に石を等間隔に並べ、中央に木の根を置いた。
「・・・頼む、今度こそ」
不安が声に滲んでいた。乾いた唇は小さく震えている。
詠唱の前から、心の奥で“落ちこぼれ”の声が囁きはじめる。
それでも、彼は目を閉じ、短く呟いた。
「ロカ・ヴェリタス」
ふわりと木の根が浮かび上がり、空中に淡く光る文字を描きはじめる。
”海” ”人” ”穢れ”
たったそれだけ。
木の根はすぐに地面へ落ち、魔法陣は色を失った。
指先が小さく震え、足先から体温が逃げていく。
・・・魔素がない。いや、ないのではない。ただ、限りなくゼロに近い。
この魔法が失敗したわけではない。
魔素がまるで存在しないこの世界では、“場所探しの魔法”は正常に働かない。それだけだ。
彼はそっと深呼吸をし、円を拭い去る。
目を閉じて周囲の気配を探ると、わずかに“残響”のようなものを、その広場の端に感じ取った。
そこには、小さな花が揺れていた。
花の根元に膝をつき、彼は先ほどの材料とは別の道具を取り出す。
今度は、小瓶に入った朱色の液体。
魔獣から削り取って生成した魔力を地面に垂らす。
指先で空をなぞるように、ゆっくりと円を描きながら、呟いた。
「ロカ・ヴェリタス…イルミナ」
石たちが、カチリと音を立てて震えた。
やがて、魔法陣の縁をなぞるように淡い光が走り、木の根が音もなく浮かび上がる。
その中心に、光の文字が次々と浮かび上がっていった。
”島国” ”人間” ”魔素:微量” ”制限的な魔法活動領域” ”転移座標:不明”
同時に、彼の片手がピリピリと痺れた。
光が彼の掌に魔法の“代償”を刻み込むように、小さな紋様を描いていく。
それでも彼は、肩を落とさず、そっと手を握った。
「・・・少なくとも、ここが“どこでもない場所”じゃないと分かっただけでも収穫か」
ゆっくりと立ち上がり、彼はまた空を見上げた。
青空がどこまでも続く、魔素のない世界で彼は、ひとつの手がかりを得たのだった。