扉の向こうは、日常だった
トン・・トン・・トン・・・
心地のいいリズムで何かを切る音が耳に入る。
このままずっと聞いていたい、懐かしく感じるその音だけが頭に入ってくる。
トン・・トン・・トン・・・
やわらかい湯気の香りと、暖かな日差しは、それが朝だと知らせてくれる。
そうか、疲れてあのままソファで寝てしまったのか・・・。
瞼の裏に、昨日起きたことを思い描く。
・・・ガラス瓶!
あれはあの後どうなったんだ!!
ガバッと体を起こすと、頭を貫くような痛みが走る。
「うぅっ・・!」
くらくらと揺れる視界の中、彼女はこちらを見ていた。
「~~~~~!!」
何か言っているようだが、それは彼の耳には初めて聞く言語であり、ただの音の連なりとしてしか認識できなかった。
痛みの余韻を感じながら、周りを見渡してみる。
そこには、彼の知っているものが何一つなかった。
不純物の入っていないガラスでできた大きな窓。
見たこともない素材でできている天井と思われるもの。
そこにぶら下がっているランプのようなものには、火ではない何かがあり、煌々と部屋を照らしている。
理解が追い付かない。
見たことのない部屋、見ず知らずの人間、聞いたことのない言語。
まず何から手を付ければ・・・
気が付くと彼女は彼のそばに座り、涙を浮かべながら何かを話していた。
「・・・お前は一体?」
言葉が通じないのは分かりきっている。
しかし混乱からか、勝手に声が漏れていた。
彼女も彼と同じような、何を話しているのかわからないような表情を浮かべ、少し首をかしげていた。
「ここはどこなんだ、何で俺はこんなところに・・・」
先ほどまで濡れていた彼女の瞳は、不思議そうにこちらを見つめるだけだった。
そうだ。
寝具らしきものの横で一緒に眠る本棚に目をやる。
恐らくその中で一番言葉が眠っていそうな、分厚い本を手に取る。
ズシッと重厚感のあるそれは、彼に満足感を運んできた。
「フリウ・レクティオ」
小さく呟くと、ぽうっ・・・と指先に小さく青が灯る。
彼の手の中にある本は、自ら読んでほしいといわんばかりにページが開かれ、踊るように次のページへと進んでいく。
青い光は次第に大きくなり、彼全体を優しく包み込んでいた。
ーーパタン
本の閉じる音で、一時停止していた世界が動き出したように彼女が騒ぎ出した。
「今・・!!!えっ!それ、私の辞書、何?何したの?すごい!!」
居ても立っても居られない、そういった様子で彼の持っていた本を手に取り、仕掛けがないか探るようにページをめくっている。
ひっくり返したりしても、本からは何も落ちてはこなかった。
「・・・あ・・おま、え、は・・・」
言葉を喉に詰まらせながら、彼女の使う言語と同じようなものを発している。
「えぇっ!?って、あれ?言葉わかるの?」
彼は口元に手を当て、誰かと話しているかのように一人でぶつぶつと何かを呟いている。
「ねぇ!聞いてる?おーい、きーこーえーてーまーすかー?」
ぶんぶん、と顔の前で手を振ってみても彼には何も届いてないようだ。
「・・すこ、し待ってく・・・れ、さい・・・」
「やっぱり言葉わかってる、さっきは訳わかんない言葉しゃべってたのに!」
何なのこの人!と小さく吐き捨てると、彼女は立ち上がり隣の部屋へ行ってしまった。
しばらくして、慌ただしい足音が部屋を駆け巡る
「こんなことしてる場合じゃないんだ!学校遅刻しちゃうから、私行くね!
ご飯は作ってあるから適当に食べて!鍵これしかないから家から出ないでよ!行ってくるね!部屋荒したりしないでよ~!」
ガチャン
扉が勢い良く閉まり、階段を下りていく足音は段々と小さくなっていった。
部屋の中は、小さな埃が日差しに照らされてキラキラとしている。
「なんだ・・・あいつ」
言葉の意味は理解していた。
けれど、その情景はまるで異国の風のように彼の心をすり抜けていく。
不思議と、そこには温かさと、日常のにおいがあった。
ゆっくりと立ち上がり、大きな窓の前に立つ。
聞いたことのない音と、記憶にない香り。そして人々の気配。
それは、彼が来たところで何も変わらず、ただそこで生きている。
彼だけを取り残して。
「ここは・・・どこなんだ・・・」