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夏が明けて

 

 夏が明けて、今年も彼岸の時期がやってきた。


 九月の中旬。氷張川の土手にはヒガンバナが咲き始め、ぽつぽつと赤い色が存在を主張している。

 沈み橋の上に立ってそれらを眺めていると、ここは何年経っても変わらないな、と思った。


「さて。今日も出勤かぁ」


 大きく伸びをして、体にスイッチを入れる。

 祖父が院長を務める病院での勤務は、身内の特権で色々と自由にやらせてもらっている。けれど、そのぶん周りからの目は冷たかった。表面上は院内の誰もが俺に丁寧に接してくれるが、内心では立場に甘えて遊んでいると思われているのは明白だった。

 この夏は特に、七月の半ばから一ヶ月ほど仕事を休み続けてしまったので、弁解の余地もない。研修医の立場で、ここまでワガママを突き通せるのは身内の特権以外の何ものでもなかった。

 けれど、後悔はしていない。その一ヶ月の間で、俺は何よりも大切なもののために時間を使ったのだから。

 好きな人のために使う時間としては、あまりにも短すぎたけれど。




「え。講習会?」


 出勤早々、俺は祖父から手渡された紙に目を落として呟いた。

 祖父に呼び出されて向かった院長室。そこで待っていた彼から告げられたのは、とある講習会への参加命令だった。


「ああ。私の後輩の松江(まつえ)くん。お前も何度か会ったことがあるだろう。彼が講師を務めるので顔を出しに行きたいんだが、あいにく私は忙しくてな。代わりに行ってきてほしいんだ」


 開催は本日の十三時からと、えらく急な話だった。大方、先方に出席すると伝えた後に忘れていたのだろう。祖父にとってはよくあることだった。誰にでも良い顔をしようとするからそんなことになるのだ。


「いや、ちょっと待てよ。この会場って、ここからかなり遠いじゃないか」


 住所を確認して、すかさずスマホの地図アプリで検索してみると、車で三時間はかかる距離にある。現在は朝の八時過ぎなので、今すぐ出発しても到着は昼ごろになる。


「お前は私と違って暇だろう。先月は一ヶ月近くも勝手に休みを取ったそうじゃないか」


「うっ……」


 それを言われてしまうと反論ができない。

 結局、俺は急遽車を出して講習会へ向かうことになった。




 奇しくも、会場は比良坂すずの家の方角にあった。

 もう二度と近寄ることはないと思っていたその場所に向かって、俺はひとり車を走らせる。


 途中、先日一度だけ訪れた美波の墓の近くを通りがかった。あまり時間に余裕はなかったが、せっかくなので手を合わせに行こうと思い、そちらへ寄る。

 のどかな田園風景の中にある、山の斜面を利用した霊園。雛壇状に並んだ墓石の中央付近に、それはあった。

 愛崎家之墓。

 ここに美波が眠っている。

 墓石の両脇に飾られた花はまだ枯れていない。誰かが定期的に取り替えているのだろうか。俺は持参した花束を墓石の手前に供え、その場にしゃがんで手を合わせた。


「……凪くん?」


 と、不意に名前を呼ばれたのはそのときだった。

 驚いて見ると、傍らにはいつのまにか一人の女性が立っていた。年齢は五十代くらいで、薄手のカーディガンを羽織っている。後ろで一つに束ねた髪は白髪混じりで、どこかくたびれた印象があった。


「あなたは……」


 見知った顔だった。前に顔を合わせたのは、ちょうど一ヶ月ほど前だったか。

 痩せ細った腕に花束を抱えたその女性は、美波の母親だった。


「凪くん。どうしてここに」


「いや。ちょっと、美波に挨拶していこうと思って」


 どうやら花の取り替えをしていたのは彼女らしい。以前、夏の真っ盛りであるお盆の頃に訪れたときも、花は枯れていなかった。それを考えると、かなり頻繁にここへ通っているのがわかる。


「その……このあいだは、ごめんなさい。私、取り乱してしまって」


 母親はその場に佇んだまま、わずかに視線を下げてそんなことを言った。先月のことを言っているのだろう。


「あ、いや……。俺たちも急に家に押しかけたりして、ご迷惑でしたよね」


 先月、俺は美波と二人で彼女の祖父母の家を訪ねた。そこで思いがけずこの母親に会ったのだ。

 そのときの美波と母親との間で交わされた会話は、あまり穏やかなものではなかった。


「今日は、あの子は一緒じゃないの?」


 ためらいがちに、母親が聞く。

 比良坂すず、もとい美波のことだろう。

 あのときは拒絶反応を起こしていた母親も、やはり気にはなっているのか。


「あの子は……」


 俺はどう答えたものか悩んだ。

 事実を口にしたところで、信じてもらえるかはわからない。前回のように、また彼女を混乱させてしまうだけかもしれない。

 けれど。

 美波がここにいた事実を、なかったことにはしたくない。たとえこちらの真意が伝わらなかったとしても、嘘でその場を誤魔化すようなことはしたくなかった。

 だから、俺は正直に言った。


「あの子は……美波はもう、この世にはいません」


 母親はしばらく俺の顔を見て固まっていた。

 俺の言葉を理解しようとして、けれどうまく処理できないのかもしれない。

 俺は構わず続けた。


「美波は、最後にあなたに会いに行ったんです。会って、自分の口からあなたに伝えたかったことを伝えたんです」


 それから俺は、この夏の出来事をすべて彼女に話した。

 美波の角膜を移植された女の子が、美波の記憶を持っていたこと。俺たちと一緒に桜ヶ丘へ向かったこと。十年前の事故は自殺じゃなかったこと。それを伝えに、母親の元へ向かったこと。

 とても現実的ではない、空想のような出来事。

 まるで白昼夢のような思い出。

 俺の話を聞きながら、母親の目には涙が浮かんでいた。ここで話したことを、どこまで信じてくれたのかはわからない。

 けれど美波は、確かにここに存在した。

 十年の時を越えて、この夏の短い間だけ、彼は俺たちのもとへ帰ってきてくれたのだ。


「凪くん。美波は幸せだったと思う……? 私が母親じゃなければ、もっと良い人生を歩んでいけたんじゃないかって思わない……?」


「美波の死は、自殺じゃなかったんですよ。そして、その事実をあなたに伝えようとした……。美波のその気持ちを、どうか忘れないでやってください」


 母親が心から納得できる日は、まだ少し先のことかもしれない。

 けれど、あきらかに変化は起こっている。

 美波の残した思いと言葉は、母親のもとへ確かに届いていた。

 

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