初めてのダンス
「あ、貴方は、カルダニアの……!」
「横から失礼致しました。私、メイベル様の友人のエドヴァルドと申します」
そう言って、エドヴァルドは丁寧にヒュームに挨拶をした。
王太子であるとは言わず、あくまで私の友人と名乗る。控えめな態度ではあるものの、‘‘友人’’という単語に凄まじい圧を感じたのは気のせい……だろうか。
もちろん、エドヴァルドの顔には品の良い笑みが浮かべられている。だが彼の口元だけの笑顔が恐ろしく感じたのは、二度の人生で初めてであった。
ヒュームはエドヴァルドに挨拶し終えると、困惑したように私と彼の顔を交互に見比べた。いきなり大国の王太子が話に参加して来たのだから、動揺するのも当然である。道に迷った子犬のような姿は、もはやかわいそうにも思えてくるほどだった。
(申し訳ないけど不可抗力よ……許してちょうだい、ヒューム)
完全に歓談が途切れたところで、すぐ近くから別の声が聞こえてきたのだった。
「あら、ヒューム様ではないですか」
彼の友達と思しき令嬢が、声をかけてきたのだった。それは、すっかり困り果てていた子犬からすれば、まさに助け舟であった。
相手が一人しかいないならば、どんな身分の人間と踊っても特段問題はない。が、身分相応な相手が現れたなら話は別だ。相手が一人という前提は、見事に崩れてしまったのだった。
「それでは、私は失礼致します」
「え、ええ。また今度ね」
ヒュームが令嬢の元へと行ってしまい、その場に取り残されたのは私とエドヴァルドの二人。一応辺りを見回したものの、この会話の輪に引き込めそうな友達は、誰もいなかった。
「お久しぶりです、メイベル様」
「お、お久しぶりです、殿下」
やはりエドヴァルドは、口元でしか笑わない。
若干後ずさりつつ、私はなんとか作り笑いを浮かべた。片方の口角が恐ろしく引き攣るものの、それは扇子で隠すことにしたのだった。
「お誘いの手紙が来なかったので心配しておりましたが、お元気そうで何よりです」
「ち、近頃、忙しくて……なかなかお誘いできず、申し訳ございませんでした」
彼の言葉が、心配という包み紙に包まれた‘‘催促’’であることを、私はすぐに察した。どうやら、友人関係の自然消滅は易々と許してはくれないらしい。
今の私は、逃げ道を塞がれたネズミもいいところだ。
「お忙しいというのは、やはり奉仕活動ですか?」
「ほ、奉仕活動と……近頃は、クラブ活動も始めておりまして」
「ふむ、なるほど。ちなみに、どこの会に参加しているのですか?」
「読書愛好会という所ですわ、さっきの彼も、そこで知り合いましたの」
「そうだったんですね」
それとなくヒュームとの関係性を説明すると、どうやらエドヴァルドは納得したようだった。彼が殺気立っていないことが分かり、ようやく私はホッと息をついたのである。
「ところで、舞踏会でお会いするのは初めてですが。もしや、今宵が初めてですか?」
「……恥ずかしながら」
そう言うと、なぜかエドヴァルドの目が嬉しそうに細められたのだった。
「そうでしたか。ならよろしければ、私と踊っては下さいませんか?」
エドヴァルドは白い手袋を外し、私に右手を差し出した。
カルダニア王室の人々は、王族である証としていつもは手袋をしている。そして、素手で触れ合うことが許されるのは、原則友人や家族など、親しい存在に限られていた。
手袋の白色に負けないほどに、彼の手は色白だ。しかし指は長く、手の甲は骨ばっている。男性らしさがありつつも上品な手に、つい私は見とれてしまっていた。
「いかがでしょうか、メイベル様?」
「……っ、私で良ければ、喜んで」
この場合、実質私に拒否権はない。私は差し出された美しい手に、自らの手のひらを重ねたのだった。
「ありがとうございます。それでは、行きましょうか」
エドヴァルドにエスコートされ、ダンスフロアへと移動する。すると、知らぬ間に私達が注目の的になっていることに気づいた。
「あちらは、エドヴァルド王太子殿下と……どなたかしら?」
「ダンスをご一緒するということは、殿下のご友人ですわよね?」
そんなヒソヒソ話をくぐり抜け、ようやくフロアまで辿り着いたのだった。
(私と踊って、何の得があるのかしら?)
曲が始まり、ダンスのステップを踏みながら、私は悶々と考え込んでいた。
当然ながら、エドヴァルドと一曲目を踊るにふさわしいご令嬢は山のようにいる。その中で私を選んだとしても、彼に何のメリットもないではないか。
「初めてのダンスをご一緒できて、光栄です。メイベル様」
もしや、途中で私にミスを誘って恥をかかせるつもりだろうか、とまで考えたところで、エドヴァルドはそう言ったのだった。
彼は背が高く、私は進行方向に顔を向けているので、どんな表情でそう言ったのかは分からない。けれども、私の心をざわつかせるには十分であった。
この人生での初めてのダンス。その言葉に特別な響きを感じるものの、それは私にとってのことであり、彼には関係ないはずなのだけれども。
「殿下は、収集癖がありますの?」
娼館に通う男の中には、やたら処女ばかりを好む者もいるという昔どこかで聞いた話を思い出しながら、私は問うた。
彼が‘‘初めて舞踏会にきた女とのダンス’’ということと、‘‘私と踊る’’ということのどちらに価値を感じているのかが、不意に気になったのだ。まあ、それを知ったところで何にもならないが。
「収集癖ですか? 何かをコレクションすることが特段好きという訳ではございませんが……」
「……そうですの」
「ただただ、貴女と踊りたかったからですよ」
「……え?」
見上げるようにしてエドヴァルドの顔を見ると、彼は嬉しそうに笑ったのである。
そのどこか妖しい笑みに、私の心臓はどきりと跳ねた。
「やっと、こっちを見てくれましたね」
「!?」
耳元で囁かれたのは、優しげな甘い一言。まるで、恋人同士が睦言を囁き合うかのような動作であった。
「で、殿下……っ、こんな、みんなが見てるところで……」
「ふふっ、みんな踊るのに必死ですから。見てはいませんよ」
「……っ」
言い返そうとした矢先、ちょうど一曲目が終わった。すると、エドヴァルドはすぐさま私の耳から顔を離したのだった。
「残念ですが、終わってしまいましたね。……ではまた」
エドヴァルドが立ち去り、その場に残ったのは彼の香水の香り。ミントの涼やかな香りが、熱くなった私の頬を優しく撫でたのだった。