甘い誘惑
エドヴァルドにかつての名前を呼ばれ、私は蛇に睨まれた蛙のごとく動けなくなってしまったのである。
「だいぶ、お久しぶりでございますね」
「……そうですわね」
「お元気そうで、何よりでございます」
「……貴方も、お元気そうですわね」
激しく動揺する私とは反対に、エドヴァルドは至って落ち着いていた。私が彼の言葉をオウム返ししている間にも、紅茶にミルクを入れてかき混ぜて、一口飲むほどの余裕である。私よりも、彼の立場が圧倒的に上なのだから当然といったところか。
「……いつ、私だとお気づきになられたのですか?」
今日の自分の行動を頭の中で振り返りながら、私は問うた。
「先日の夜会では、すでに気づいておりました」
「……」
「思ったことがすぐにお顔に出るのは、昔とお変わりないようですね」
そう言って、エドヴァルドはまた口元だけの笑みを浮かべた。忘れていたが、彼は昔から、感情をあまり顔に出さない質なのだ。笑うとしても、絶対に目は笑わない。笑うのは口元だけなのである。
「嫌なところに限って、簡単に変わってはくれないものですわね」
「素直でいらっしゃるのは、貴女の長所だと思いますが」
「お褒めの言葉、ありがたく頂戴いたしますわ」
私の性格を素直と言い表すのは、あまりにも良く言いすぎだ。手の付けられないほどに直情的でヒステリックな女と言われた方がまだ頷ける。
もしやこれは遠回しな嫌味なのだろうかと、私はふと考えた。なぜなら、私は彼に恨まれて当然の存在なのだから。
一度や二度謝ったとて、許されるはずがない。だから、彼が私を散々になじるにしても、殺すにしても、拒否権はないのだ。
もしかしたら、紅茶に毒でも盛られているのかもしれない。ならば、今日が私の命日ということか。
そこまで考えていると、紅茶に角砂糖を入れてから、エドヴァルドがまた口を開いた。
「ところで、近頃は奉仕活動に精を出されているとお聞きしましたが、具体的にはどんな活動をなさっているのですか?」
どんな罵詈雑言が飛び出すかと思いきや、エドヴァルドは単なる雑談のような質問をしてきたのだった。
「えっと、ハリーストでは教会の敷地内に貧窮院が併設されておりまして、基本的にはそこで活動しております。内容としましては……」
彼に求められたならば、答えねばなるまい。私は教会での活動についてなるべく丁寧に説明し始めた。途中で下らないと一蹴されるかと身構えたものの、そんなこともなく、エドヴァルドは興味深げに聞き入っていたのだった。
これでは被害者の加害者に対する復讐の場ではなく、まるでただの友人同士のお茶会ではないか。口を動かしながらも、私の困惑度合いは増すばかりであった。
「……と、こんな感じですわ」
「なるほど、よく分かりました」
「イヴァ……エドヴァルド王太子殿下は、これまでどのようにお過ごしでしたか?」
うっかり昔の名前を言いかけながらも、私はエドヴァルドに問いかけた。
「そうですね、公務をしながらですが、楽しくすごしております。外の世界はこんなに美しいものなのだと、日々驚きや発見が尽きることはございませんので」
彼の過去を知る私からすると、その言葉はとても重みのあるものに感じられた。
イヴァンは庶子という身分のため、ラティスラの王宮に住んでいた。しかし、王宮の敷地の外に出ることは一切許されていなかったのである。
そして彼は、生まれつき進行性の目の病を患っていた。だからイヴァンの世界は、ごく限られたものだったのだろう。
そんな彼が、今は不自由のない生活を送っている。私が言える立場ではないものの、それを聞いて安心している自分がいた。
「それは何よりですわ……イヴァ、っ、殿下」
「ふふ、二人でいる時は、どうぞお好きな方でお呼びください」
そう言ったエドヴァルドの目元は、なぜか楽しげに細められたのだった。腹立たしい女の滑稽な姿を見て面白いならば、何よりである。
紅茶を一口飲みながら、私は今一度彼の顔を盗み見る。毒が入ってるならばもう手遅れなので、私は半ば開き直り始めていたのだ。
イヴァンであった時の彼も、数多の貴族令嬢から好意を向けられるほどの美しい外見をしていた。
寒色寄りの銀髪は、雪国であるラティスラの冷たい空気を溶かしたかのような不思議な色合いで、眼鏡の奥に見える紫色の瞳は、人離れした妖しさを感じさせた。
優しげな雰囲気を持つユリウスとは対照的に、イヴァンは人を寄せつけない一匹狼のような空気をまとっていたのを、今でもよく覚えている。彼がやや上がり気味の直線眉だったからかもしれない。しかし、そんな棘のある雰囲気すらも魅力であると、令嬢たちからは言われていた。
それに輪をかけて、今の彼……エドヴァルドは外見に優れていた。
薄い色の金髪は、春の日差しのように温かな色合いである。サラリとした髪質であり、風が吹く度に前髪がなびくほどだ。そして色白であるため、深緑色の瞳が遠目から見てもよく目立っていた。
昔から彼が整った顔立ちであることに変わりはないが、今の彼のほうが、王太子として育てられたからか、洗練された華やかさを持ち合わせているように感じられた。
その姿は、ほんの少しユリウスに似ているようにも思えた。
「そう言えば」
「な、な、何ですの!?」
突然目が合ったため素っ頓狂な声を上げると、エドヴァルドは私の前に置かれた皿に視線を落とした。
「ケーキ、召し上がらないのですか?」
「……っ」
紅茶と共に、テーブルにはチョコレートケーキが用意されていた。彼は完食間際だが、私は全く手をつけていなかった。もちろんそれは、毒が入っていることを恐れてのことである。
「昔からチョコレートがお好きでいらしたのでご用意しましたが、あまりお好きではありませんでしたか?」
そう。私はアルビナの時から、無類のチョコレート好きであった。そしてそれは、今もまったくもって変わらない。
「そ、そんなこと……」
用意されたのはココア生地にチョコクリームでデコレーションされている、かなりオーソドックスなケーキではある。しかし、それがカルダニアにある有名店の品であることは知っていた。奇しくも、私はまだ食べたことがない。
(どうしよう……食べたいわ)
「……いただきます」
紅茶は飲んだのだから、意地を張ったとしても今さらである。美味しそうな毒キノコを食べて命を落とした先人たちに思いを馳せながら、私はケーキを一口食べた。
「~~~!!」
「いかがですか?」
「……っ、とっても、美味しいですわ」
「ふふ、それは良かった」
口の中にはチョコレートの滑らかな甘さが広がるばかりで、毒の苦さなど一切感じられなかった。そして、エドヴァルドと全く同じタイミングで私はケーキを平らげたのである。
「お気に召したようで、何よりです。ちょうど、お時間になりましたね」
「……あ」
「それでは、ご連絡お待ちしておりますので」
エドヴァルドの一言で、お茶会は無事終了となったのである。
彼に見送られ、私は馬車に乗った。そして馬車に揺られながら、ぼんやりと空を眺めるばかりであった。
「死ぬどころか……お腹すら痛くならなかったじゃない」
美味しいケーキでただ満たされたお腹をさすりながら、私はぽつりと呟いた。