友達は終わり
入浴後、私はエドヴァルドの寝室へと向かっていた。ナイトドレスの上には、先程彼が肩に掛けてくれたストールを巻いている。湯上がりだから身体はまだ温かいものの、お気に入りの毛布に包まる子犬のように、彼の存在を近くに感じたかったのだ。
正直、エドヴァルドがどんな顔で私を待っているのかはまったく想像ができない。そして夫婦での情事というものを経験したことがないがゆえに、緊張は高まるばかりであった。
しかし、私はもう彼の誘いに乗ったのだ。後戻りはできないのだと自分を叱咤してから、私は寝室のドアをノックした。すると、エドヴァルドはすぐに扉を開けてくれたのだった。
「メイベル様、お待ちしておりました」
そう言った彼の表情は、いつもと変わらぬ穏やかなものであった。友人ではなく男と女としての時間をすごすというのに、いやらしさは一切感じ取れなかったのである。
「どうぞ、お掛けください」
エドヴァルドは私をベッドの縁に座らせてから、テーブルに置かれていたワイングラスを二つ持ってきて、片方を渡してきた。その中には、薄紫色の飲み物ーーーワインが注がれている。
「それでは、夫婦としての新たな関係の始まりを祝して、乾杯」
「乾杯」
私たちは、そっとグラスをかち合わせた。
これらはすべて、初夜の作法であった。夫婦となる男女は初めて夜を共にする際、ワインで乾杯してから共寝するのがしきたりなのである。
ワインを飲む理由としては、ワインの苦さを結婚生活での辛さになぞらえてのことだと聞いたことがある。辛い時でも夫婦として二人が支え合えるようにという、願掛けに近いものなのだ。
成人しているとはいえ、私がこの人生で酒を飲むのはまだ数回目だ。悪酔いしませんようにと思いながら、私はグラスを傾けた。
「……ん?」
が、しかし。私はワインを口にしてから首を傾げた。どうにも酒にしては味も香りも甘いだけで、苦味がやって来ないのだ。
(それによく考えたら、彼は酒に弱いのでは……?)
「ふふ、お気づきですか? ワインではなく、ブドウジュースでご用意させていただきました。私が一番気に入っている銘柄なのですが……お口に合いましたか?」
「はい、とっても美味しいですわ」
とは言ったものの、内心残念に思っている自分がいた。なぜなら、このまま美味しいジュースを飲んでお喋りして終わりという可能性も出てきたからである。そうなるならば、先程までの私の覚悟を返してほしいと思うくらいだ。
「ちなみに初めて夜を共にする時、今はワインを飲むのが一般的ではありますが、元々は何でも良かったというのはご存知ですか?」
「? いえ、初耳ですわ」
「私もつい最近知ったのですが、はるか昔はワインに限らず夫婦で飲み物か食べ物を分け合う風習だったそうです。あくまでワインを飲むことではなく、何かを二人で分け合うということが重要だったのだとか」
「……へえ」
「それがいつしか苦いワインになっていったようですが、それを知ったがゆえに、あえてジュースにしてみました」
「?」
「‘‘苦さ’’はもう、私たちには必要ないと思いましたので」
そう言って、エドヴァルドは私の手に片手を重ねたのだった。
「散々苦味を味わったのだから、あとは甘いだけ良いと私は思ったのですが……どうでしょうか?」
「私も、そのご意見に賛成ですわ。殿下」
テーブルの上に空のグラスを置いてから、私たちはしばらく見つめ合った。そして互いに引き寄せられるように、唇を重ねたのである。
「ん……っ」
唇が開かれ、ゆっくりと舌が絡められる。彼とのキスの味が甘く感じられるのは、きっとジュースの甘さのせいだけではないだろう。そして息苦しくなる前に、唇の繋がりは絶たれたのだった。
これで私たちの友人関係は、終わったのである。
友人の期間を経て婚約する風習はそもそも、本人の同意なしの政略結婚を防ぐために作られたものであった。だから、古くは期間中であっても必ずその相手と結婚するならば、婚約者として扱って良いとされていた。これは、‘‘原則破り’’と呼ばれている。
そしてカルダニアやハリーストでは、婚約したあとすぐに婚家での同棲が始まる。そこで夫婦で協力しながら、結婚式の準備をするのだ。言ってしまえば、身体の関係が許されるのは結婚してからではなく婚約してからのことなのだ。当然、婚約破棄などという選択肢は存在しない。
しかし暗黙のうちに許されているとはいえ、すべて責任はついてまわるものだ。後戻りできない不安と彼と過ごすこれからの生活への期待が入り交じり、私の心臓は早鐘を打っていた。
「ところで、メイベル様」
流れるような動作で私を組み敷いてから、エドヴァルドは口を開いた。
「貴女はもう、私を名前で呼んではくださらないのですか?」
「……えっと、それは……」
そう。少し前から私は、彼をエドヴァルド王太子殿下ではなく、殿下と呼んでいた。頭の中がまだ整理できていないため、うっかり彼をイヴァンと呼びそうで怖いからである。
「その……貴方のことを昔の名前で呼んでしまうかもしれませんので」
「それでも構いません、愛する人に名を呼んで貰えるならば、とっても嬉しいです」
「でしたら……エドヴァルド王太子殿下」
「それだと少し、長くて煩わしくはありませんか?」
それとなく誘導するように、エドヴァルドは私の耳元で囁いた。
「……っ、エドヴァルド、様」
思い切ってそう呼ぶと、彼は嬉しそうに笑ったのだった。
「それではメイベル様。……心のご準備はよろしいですか?」
「ええ、もちろんです。いらしてくださいな、エドヴァルド様」
そして私たちは、再び唇を重ねた。
「ん、メイベル様」
「……っ、ん」
肌にキスを落とされるたび、私は小さな悲鳴を上げる。がさつきのない唇が肌に触れるのは心地よいものの、擽ったくもあるのだ。
「は、エドヴァルド様、ぁ」
「もっと聞かせてください、その可愛らしいお声を」
口付けを落としながら、エドヴァルドは言う。そして酒を飲んだ訳でもないのに、私の身体はすっかり熱っぽくなっていた。
肌寒さはどこかへ行ってしまい、ナイトドレスの中はじわりと汗ばみ始めていた。すると彼は、耳たぶを甘く齧ってから静かに口を開いたのだった。
「メイベル様、……よろしいですか?」
「……ん」
何をどうするかとはっきり言われていないのに、私はすぐさま彼の言葉の意味を理解した。そして、小さく頷いたのである。
私が頷いたのを見て、エドヴァルドはナイトドレスの胸元のリボンへと手をかけた。蝶々結びは解かれて襟ぐりが広がったことにより、衣服はあっさり肩から落ちていったのだった。
「……っ」
ナイトドレスと下着が取り払われ、私は全てをさらけ出す形となった。そんな私の姿を、彼は愛おしげに見つめていた。
「……っ、そんな見ないでくださいな」
胸元を手で隠しながら、私はせめてもの抵抗として身体を捩らせた。
アルビナの時よりも、今の方がやけに胸も尻も肉付きが良くなっていた。だから、華奢な身体を期待していたならば期待外れになってしまう。それが怖かったのだ。
「……ハリーストのご飯、どれも美味しいんですもの」
気付けば、そんな言い訳が口をついていた。
「貴女が誰よりも魅力的なのは、今も昔も変わらぬことです」
私の肌を一撫でして、エドヴァルドは優しく囁いた。そして自らのシャツのボタンを外し始めたのだった。
「……っ」
一糸まとわぬ姿となった彼を見て、私はつい息を呑む。肌荒れも引っ掻き傷も見当たらない色白な肌と均整のとれた身体つきは、彫像のように美しく、見蕩れてしまう程であったのだ。
そして私を軽く抱きしめてから、エドヴァルドはぽつりと呟いた。
「汚れていない身体で貴女と睦み合えるだなんて、過去の自分には想像もできなかったことです」
「……っ、エドヴァルド様」
「こうしているだけで、私はたまらなく幸せです。メイベル様」
幸せという言葉に反して、その口調は切なげな色のものであった。生まれ変わっても私がアルビナであったことが消えないように、彼もまたイヴァンの時の記憶に縛られているのだろう。
しかし。
「……貴方は汚れてなんかいませんわ。イヴァンの時からずっと」
それは口先だけの慰めではなく、私の本心であった。
あやまちを重ねたアルビナとは異なり、血筋は彼の責任ではない。だから、イヴァンのことを汚らわしいと嫌悪したことは一度も無かった。どうかそれを、分かって欲しかったのだ。
私の一言に、エドヴァルドは驚いたように目を見開いた。そして段々と、泣きそうな顔になっていったのだった。
「……っ、メイベル様」
「あ、んんっ」
何かが切れたように、エドヴァルドは私と激しく唇を重ねてきた。それは結婚式の誓いのキスとは大きく異なり、男が女を‘‘食べる’’時のものであった。
(私もケーキみたいに、パクパク食べられちゃうのかしら?)
そんなことを考えながら、私はエドヴァルドにすべてを任せた。




