馬車での秘め事
それから数日後、私はハリースト王宮で開催される晩餐会に参加していた。病み上がりではあるものの、体調はとても良い。むしろ、風邪をひく前よりも身体が軽いような気さえした。
それはきっと、恋の効力に違いない。
「お元気になられて、安心致しました」
「ふふ、ご心配おかけしました」
エドヴァルドは目と口で笑った。そんな彼につられるように、私も微笑み返す。
晩餐会では食事の準備が整うまで、招待客は広間で歓談して待つものだ。私とエドヴァルドも、二人での会話を楽しんでいたのだった。
「先日、シナモンロールのレシピを取り寄せましたの」
ラティスラではシナモンロールは日常的に食べられるパンだが、ハリーストではあまり馴染みがない。パン屋では売っておらず、我が家のシェフも作ったことがない程であった。そこでレシピを買って、作ってもらうことにしたのである。
彼は昔から、シナモンロールが大好物であった。そのため、家に呼んだ時も食べられるようにしたかったのだ。
「うちのシェフが作るパンはどれも美味しくて評判ですの。今度我が家にいらした時に、一緒に食べましょう?」
「はい、喜んで」
エドヴァルドの胸元には、星柄のブローチが光っている。そして私の首元には、ペンダントが揺れていた。
彼の提案により、ブローチとペンダントは交換したままにすることにしたのだ。ペアリングのように同じ品ではないものの、見えない繋がりを感じられるので、いつしか私は、ペンダントを着けているのが常になっていた。
「お待たせいたしました。お食事のご用意が整いましたので、食堂へのご移動をお願いします」
そんな声が聞こえてきたので、私たちは食堂に向けて歩き出した。
晩餐会では国ごとに席が割り振られるため、私とエドヴァルドは離れた席となっていた。それはまったく構わないのだが、晩餐会が始まる前に、モニカから謝られてしまったのである。
『ごめんなさいね、貴方たちを近い席にできないか頑張ったんだけど、人数の関係でどうにもならなくって……』
夫婦や婚約者ならば、席を隣同士にできたのだけれど……と、彼女は意味ありげに呟いたのだった。
形式上、私とエドヴァルドはまだ‘‘友人’’である。少なくとも半年間は友人関係を続けなければ、婚約ができないのだ。
とはいえ、彼に女友達が私しかいないことは世間にすっかり知れ渡っていた。ただの友人関係にもかかわらず、みな私たちの婚約を心待ちにしている気配さえあった。注目の的になるのは恥ずかしくはあるが、周囲に認められている仲になれたのは、幸せなことである。
友人という関係がもどかしくはあるものの、私は恋の甘さを楽しみ始めていた。
「じゃあ、また帰りに落ち合いましょう」
私たちは行きは別々に来たのだが、帰りは同じ馬車で帰ろうと約束していた。そうすれば、帰り道で話せるからだ。離れていた時間を埋め合わせるように、彼との会話は話題が尽きないのだった。
「ええ、それではまたあとで」
こうして、私たちは食堂の前で別れたのだった。
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「殿下、大丈夫ですか?」
「はい、どうぞご心配なく」
歩きながら、私はエドヴァルドの背中をさすった。彼は大丈夫だと言うけれども、その頬は熱があるのか林檎のように紅潮していた。
晩餐会を終えて、私たちは帰りの馬車に乗るところであった。カルダニア王宮までは、私とエドヴァルドはカルダニア王室の馬車に乗り、付き添いの使用人は我が家の馬車に乗ることに決めていた。ハリースト王宮から我が家に向かった方が早いのだが、二人の時間を増やしたかったのであえて遠回りすることにしたのだ。
予定通りカルダニアの馬車に乗り込んだが、明らかにエドヴァルドは体調を崩している様子だった。
「少し休憩してから帰りますか? お薬ならいくつかご用意がございますが……」
「いえ、大したことではございませんので」
彼のことが心配だったものの、馬車はゆっくりと動き始めた。
水やタオル、袋などはメイドから預かってきたので、何が起きても対処できるはずだが、どうすれば彼が少しでも楽になるか私は必死に考えていた。
「殿下。私の肩でよろしければ、少しもたれかかってはいかがですか?」
膝枕も迷ったが照れが勝り、私はそんなことを提案していた。ただの‘‘友人’’にしても、このくらいの接触ならば許されるはずと思いながら。
「あ、ありがとうございます」
よほど辛いのか、エドヴァルドは私の言う通りに、私の左肩にもたれかかってきたのだった。
熱が上がっているのか、彼の瞳はやや潤んで見える。首元のネクタイを緩めてシャツの第一ボタンを外したこともあり、夜の空気も手伝ってか、その姿は妙な色気を感じさせるものであった。
首元から膝にかけてブランケットを掛けてやると、彼は目を閉じたようだった。しかし呼吸はやや荒く、落ち着かないのか手足をもぞつかせていた。
そして突然、エドヴァルドは小さく呟いたのだった。
「すみません、馬車を停めていただけますか?」
「す、少しお待ちくださいね」
てっきり吐きそうなのかと思い、私は慌てて水と袋を鞄から取り出した。
その時、急に馬車が大きく揺れた。そして私の肩に頭を乗せていたエドヴァルドは、バランスを崩してしまったのだった。
「きゃ……!?」
身体ごと前に倒れ込んだ彼の頭は、私の太ももに着地した。いわゆる、膝枕の体勢である。偶然とは、本当に恐ろしいものだ。
「……っ、殿下、大丈夫ですか?」
スカートで彼の口を塞がぬよう布を手で除けながら、私は彼に問いかけた。しかし、返事はない。もしや気を失ってしまったのかと思って、呼吸を確かめるため彼の口元に手を当てると、エドヴァルドは大きく身体を震わせたのだった。
「……っ、殿下?」
私は、エドヴァルドの顔が耳まで真っ赤になっていることに気づいた。そして、呼吸もやけに荒くなっていた。
「……メイベル様。っ、お見苦しいところをお見せして、申し訳ございません」
私を見上げるように頭の向きを変えてから、エドヴァルドは申し訳なさそうに言った。
「その……酒を飲むと変な気を起こしてしまう体質でして、こういった場では飲まないようにしていたのですが……どうやら、デザートに入っていた酒が、だいぶ強かったようで」
子犬のように潤んだ瞳に見つめられ、どきりと心臓が跳ねる。彼がこんなにも隙だらけとなっている姿を見るのは、これが初めてであった。
「変な気……ですか?」
「ええ。申し上げにくいのですが……身体が異様なまでに昂ぶると言いますか」
「!?」
エドヴァルドの一言で、私はようやく理解した。変な気というのはつまり、性的な意味で身体が興奮してしまうということらしい。もはや、特殊体質とでも言うべきか。
(……いや、どんな体質よ!)
とはいえ、生理現象に文句を言っても仕方がないことだ。酔った勢いで、という言葉もあるくらいなのだからと、私は思い直した。
「……っ、う」
馬車が揺れるたび、エドヴァルドはびくりと身体を震わせる。もしかしたら、媚薬を口にしたように、刺激に敏感になっているのかもしれない。察するに、彼の身体は苦しくて悲鳴を上げているのだろう。
「その、停めていただければ、外で自分でどうにかしますので……」
「そんな、夜ですし危ないですわ」
とは言ったものの、ハリースト王宮からカルダニア王宮までは片道で一時間程かかる。そこまでこの状況を耐えろというのはあまりにも無理がすぎる。
「お一人で外に出られるのは心配です……殿下、私にできることはございませんか?」
馬車の中でどうにかしろなどと言えるはずもなく、私は非常にまわりくどく問いかけた。我が家の馬車に移動しろと言えばするし、一度馬車から出ろと言われればそうするつもりだった。
しかし、エドヴァルドは意外な言葉を口にしたのだった。
「でしたら、このままお傍にいてはくださいませんか?」
「え、っと、と言いますのは……」
生理的な欲求を抑えるために離れろと言うならば分かる。が、彼は‘‘このまま’’いてくれと言った。それでは、まるで逆効果ではないのか。とは思ったものの、私がそれを言うより先に、エドヴァルドは言葉を続けた。
「眠くなるまで、貴女に触れていたいのです。……ダメれすか?」
(絡み酒とはよく言うけど。殿下、完全に酔ってらっしゃるわ)
呂律の回らない彼の様子を見て、私は察した。
「メイベりゅ、さま……っ、貴女に危害を加えることはございませんので、どうか」
「っ、わ、分かりましたわ。私でよろしければ……」
必死に懇願するような口ぶりに、困惑しながらも私は頷いてしまったのである。
「っ、ありがとうございます」
そう言って、エドヴァルドは私の手を握ってきたのだった。
馬を走らせる御者とはガラス窓で隔てられているため、馬車の中でのやり取りを聞かれることはない。声をかけない限り御者は前を向いているので、今の状況が知られることはないはずだ。
(王太子ともあろうお方が、女に膝枕させてるだなんて知られたら、それこそ大騒ぎになってしまうものね)
膝枕で済むならば、安いものだ。私はなるべく物音を立てぬよう、この場をやりすごすことを決めた。
「……っ、ふふ、メイベル様の、お手……暖かくて、とっても柔らかいです」
「そ、そうでしょうか?」
「ええ。とっても、大好きなんれす」
幼子のように素直な褒め言葉を投げかけられ、落ち着かない。しかしそんな私に構うことなく、エドヴァルドは嬉しそうに笑った。
(まだキスすらしていないのに、膝枕だなんて。まったくの想定外だわ)
そんなことを考えていると、エドヴァルドは突然上体を起こしたのだった。不思議に思っていると、彼は私に抱きついてきたのである。
「で、殿下!? これは、さすがに……っ」
「ん……、メイベル様」
彼の顔を見ると、その表情はやけに色気のあるものとなっていた。子犬のようだとは言っても、やはり彼は一人の男なのである。
体温が上がったせいか彼の香水の香りが強く感じられ、清涼感のある匂いが鼻をかすめる。しかし、自分の身体は熱くなるばかりであった。
「……っ、殿下、この体勢だと、外から見えてしまいますので」
座った状態から横たわる体勢にゆっくりと切り替えると、意外にも彼は従ってくれた。酔ってはいるものの、そのくらいの理性は残っているらしい。
「メイベル様……大好きです、ずっと、ずっと前から」
私をぎゅっと抱きしめながら、エドヴァルドはうわ言のように繰り返した。
エドヴァルドからすれば寝言のようなものだけれども、心臓が早鐘を打つのを止められない。落ち着かない気持ちを抱えながら、私は彼の背中に手を回したのだった。