令嬢、受け入れる
庭園の池に落ちた後、私は風邪をひいた。
昨日で熱は下がっていたものの、まだ私は自室のベッドで静養している。そして、エドヴァルドの言葉を何度も頭の中で反芻していた。
『貴女が私のすべてということは、今も昔も変わりません。昔から、ずっと』
イヴァンに夜の誘いを断られたあと、私は金で雇った男に抱かれた。一時でいいから、自分の心と身体を満たしたかったのだ。そうしないと潰れてしまいそうな程に、当時の私は追い詰められていた。
ユリウスを愛していたならば、彼に似た男を選んだだろう。しかし私は、どうしてかイヴァンと同じ目の色をした男を選んだのである。
当時は、イヴァンに断られたからそれを別の男で埋め合わせたいという、ただの代償行為だと思っていた。それにほんの少し、彼に対する当てつけの気持ちも込めてなのだと。その理屈なら、ユリウスに断られていたならば、彼に似た男を選んでいたことになる。
しかし、今なら分かる。あの時私は、すでにユリウスではなくイヴァンに惹かれていたのだ。
だから私は、彼に身体の関係を望んだ。すぐ傍にいた男が彼だったからなどという、単純な理由ではなかったのである。
とはいえ、アルビナであった時の私は、彼を都合良く使っていた。彼も私と同じ気持ちである自信は、一切持てなかった。だから想いを伝えるではなく、‘‘女を抱ける’’というメリットを付加して、イヴァンを誘ったのである。
しかしそれは、酷く浅はかな考えだったと思う。
庶子という立場であるがゆえに、イヴァンが刹那的な恋や情事というものを嫌悪しているのは明らかだった。そんな彼をつまらぬ火遊びに誘うなど、最低なことである。
自分を満たすことしか考えていない、馬鹿な女。それが、メイベルとしての私がアルビナに下した評価だ。
だから余計に、エドヴァルドの考えていることが分からなかった。身勝手な女の何が、彼を惹きつけていたのかと。
そんなことを考えながら、寝るのも飽きたので本でも読もうかと思った矢先、ドアがノックされたのだった。
「メイベル様、お休み中に失礼します」
扉を開けたのは、メイドのキーラだった。
「今起きたところだから大丈夫よ。どうしたの?」
「それが、エドヴァルド王太子殿下がいらっしゃっておりまして。お通ししてもよろしいですか?」
キーラの目は、嬉しそうに爛々と輝いていた。
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「お久しぶりです、メイベル様」
部屋にやってきたエドヴァルドは、小さなブーケを抱えていた。
「こちら、お見舞いの花束です。気に入っていただけると嬉しいのですが」
そう言って、エドヴァルドは私にブーケを手渡した。
ピンクを基調とした花束はとても可愛らしく、やや沈んでいた気持ちを明るくしてくれるような気さえした。腕に抱えると、控えめな花の香りが鼻をかすめたのだった。
「とっても素敵ですわ、ありがとうございます。キーラ、お花を花瓶に生けてちょうだい。あと、紅茶の用意もお願い」
「はい、かしこまりました」
花束を手渡すと、キーラは寝室をそそくさと出て行った。
「体調はいかがですか、メイベル様」
不安げに眉を寄せたエドヴァルドの表情は、まるで飼い主を気遣う愛犬のようにも見えた。
「お陰様で、熱はもう下がりましたわ。ただ、家族がやたら心配してお休みしているだけでして……」
そう。体調はすっかり回復しているものの、両親も兄上も念のためあと一日は休むようにと言って聞かなかったのだ。
「本当にみんな過保護すぎて、困ったものですわ」
「ふふ、お優しいご家族に囲まれているようで何よりです」
そこまで話していると、再び扉がノックされた。キーラが花を生けた花瓶を持ち、もう一人のメイドが紅茶とクッキーを運んできたのだった。
「それでは、私たちは一旦失礼します。何かご用がございましたら、呼び鈴をお使いくださいませ」
あとは若いお二人でとばかりに、キーラたちは寝室を足早に出て行った。きっと部屋の前では、私たちのことをあれこれ想像して、耳打ちし合っているに違いない。
「おやこれは……もしかして」
「あら、お気づきになりました?」
皿の上のクッキーは、実はシナモンが入っているものであった。エドヴァルドも、匂いをかいですぐに気づいたようだった。
「ハリーストではシナモンはあまり使わない香辛料なのですが、久しぶりに楽しみたいなと思いまして、国外から取り寄せましたの」
イヴァンの部屋を訪れた時に出されるのは、決まって紅茶とシナモンロールであった。だから私たちからすれば、シナモンは思い出の香りでもある。
そしてこれは、過去から逃げずに向き合うという私なりの意思表示であった。
「シナモンは、今もお好きですか?」
「もちろんです。それでは、いただきます」
エドヴァルドの声は、ほんの少し弾んでいた。こうして私たちは、クッキーを食べ始めたのである。
寝室に、シナモンの甘い香りが広がる。どこか懐かしい匂いは、私たちの心理的な距離を縮めていくような気さえした。
「お味は、いかがですか?」
「はい、とても美味しいです」
クッキーを食べながら、エドヴァルドは嬉しそうに言った。それを聞いて、私はホッと胸を撫で下ろす。
私たちが単なる友人ならば、このまま和やかな会話が続いていくものだ。しかし、残念ながらそうではないのだ。
クッキーを食べ終わってから、私は本題を切り出した。
「池に落ちた日からずっと、考えてましたの。貴方の優しさにつけ込んで都合良く利用していたアルビナという存在を、なぜそんなにも大切に思ってくださっているのかと」
過去の自分……アルビナという女から距離をとるように、私は続ける。
「でも、結局分かりませんでした。なぜ貴方が、自らを追い詰めた存在を深く愛してらっしゃるのか」
「……メイベル様」
「メイベルである私が言ったところで今更ですが、酷いことをして……」
「どうか謝らないでください。メイベル様」
私の言葉を遮るように、エドヴァルドは呟いた。
「限られた空間に生きていた私に、貴女は世界を教えてくれた。奪うどころか、貴女は私にたくさんのものを与えてくださったのですから。むしろ私は、後悔しておりました」
「え……?」
「自分が無力で汚れた存在であるがゆえに、貴女がお辛い時に傍で支えられなかった。それがずっと、悔しくて仕方がありませんでした」
それは、私が今まで知らなかった彼の心の内だった。令嬢たちが憧れていた彼が、そこまで自らを低く評価しているのは、私からすれば信じられないことであった。
何と言えば良いか迷っていると、私より先にエドヴァルドが口を開いたのだった。
「メイベル様。願わくば、私はこの人生で貴女を幸せにしたい」
「……っ」
いつの間にか、彼の手はテーブルの上で私の片手を包み込んでいた。手袋を外した手は、指が長くて傷一つなく美しい。しかし手のひらが広く、男性的な頼もしさも併せ持っていた。
巣から出られない雛鳥にとって、親鳥は世界のすべてだ。きっと彼は、私をそんな存在だと認識していたのだろう。
「確かに前世の貴方からすれば、世界を知る窓となっていたのはアルビナだったのかもしれません。でも、この世界ではそうではないでしょう? 貴方の周りには素敵な方がたくさんいらっしゃるのですから」
「広い世界を知った今でも、貴女への想いが揺らいだことはございません」
「……殿下」
「どうか、私の気持ちを受け入れてはくれませんか?」
深緑色の瞳は、私を真っすぐに見据えていた。
「……ぜひに」
胸の高鳴りを抑えながら、私はぎこちなく頷いた。前世で何もかも上手くいかなかった私が、今世では彼と共に幸せになれるのか。まだ私は自信が持てていなかったのである。
しかし。何者にも邪魔されない彼との触れ合いは、心地好く感じられたのだった。
「ありがとうございます。……メイベル様」
この上なく幸せそうに、エドヴァルドは微笑んだ。