初恋の終わりと地獄の始まり
ラティスラ王室は、夜会や晩餐会だけでなく、国内の貴族令嬢および令息を招く勉強会や茶会を定期的に王宮で開催していた。そこで王子たちは、今後の人生で支えとなる友人や将来の結婚相手を見つけていくのである。
公爵令嬢であるアルビナも、当然ながらそういった催しに参加していた。そしていつしか、その帰りに私の部屋に立ち寄るのが常となっていた。
「それで、今日のお茶会ではね……」
アルビナは、参加した催しでどんなことがあったかを自分に色々と教えてくれた。それは、世間から隔絶された世界に生きる私からすれば、広い世界を知る貴重な情報源となっていた。
「そのリボンの髪飾り、とても素敵です」
「ふふっ、今ご令嬢の間では、こういうリボンのヘアアクセサリーが流行りなのよ」
そして交流を続けていく中で、彼女は自らのことについて話すこともあった。
「私……ユリウス様と将来結婚しなきゃならないの。でもそれは義務ではなくて、五歳の時、殿下に初めてお会いした時からの目標でもあるの」
十歳でその言葉を聞いた時。彼女がユリウスに恋心を抱いていることを、私はすぐに理解した。なぜならユリウスの名を口にした途端、象牙色の頬が薔薇色に染まっていくのを見てしまったのだから。
「そうだったんですね」
「……ええ」
「きっとお二人ならば、すてきな夫婦になられるに違いありません。陰ながら、応援しております」
私の初恋は終わった。しかし、意外にも悲しくはなかったのが正直なところであった。
彼女と両思いになりたいなどと大それたことは考えていなかった。そもそも、後継者争いを避けるため、庶子には結婚権がない。それもあり、幼いながら自分の初恋が実らないのは、最初から分かっていたのだ。
アルビナが思いを寄せる相手が、ほとんど顔を合わせたことがない異母兄のユリウスであることにも、特段思うことはなかった。アルビナが幸せになるのならば、結婚相手は誰でも良かったのだ。
「ありがとう。貴方ならそう言ってくれると思ってたわ」
照れたように笑った彼女は、この上なく幸せそうであった。恋をすることで人は一段と魅力を増すと本で読んだことがあるが、このことかと私は妙に納得したのだった。
「……じゃあ、そろそろ時間だから。またね」
「ええ、またお待ちしております」
アルビナを見送ったあと、私はベッドに仰向けに寝転んだ。
この国の第二王子であるユリウスと結婚するならば、彼女も王宮に住むことになる。今まで憧れていた存在が自分と同じ一つ屋根の下に住む家族になるなど、まったく実感が湧かなかったのだ。
公爵家となれば、王族に嫁ぐにも申し分のない家柄だ。それに、あんなに魅力的な彼女のことだ。アルビナとユリウスの結婚に反対する者などいるはずがない。ユリウスと結婚してからも、幸せは約束されたようなものだ。
当然、既婚者が夫以外の男と気軽に交流することはできない。彼女もこの部屋を訪れなくなるだろう。しかし、離れていても彼女の幸せを見届けられるならば、自分のような存在にとってはこれ以上ない幸福なことだ。
「同い年の義姉上か……なんだか、変なの」
瞼を閉じて、私はアルビナがユリウスと結婚したあとのことをあれこれ考え始めたのだった。
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約束されていたはずの幸せ。しかしそれは、ある令嬢の存在により、壊されてしまったのである。
ユリウスは、舞踏会で出会ったオフェリアという名の令嬢と恋に落ちた。そして周囲は、身分差のある二人の恋を純粋な愛だともてはやし、歓迎したのである。
やがてユリウスは、オフェリアと婚約を結んだ。それは私からすれば、到底信じられないことであった。
アルビナが長年ユリウスを想っていたことは、本人も知っていたはずだ。それを断ってまで刹那的な恋を選ぶなど、どうかしているとしか考えられなかったのだ。
一時の肉欲に任せ、女を抱いた父王。
一時の恋心に任せ、婚約者を選んだユリウス。
理性のない獣なのか、貴様らは。
無意識に二人の行動を重ね合わせ、私のユリウスへの苛立ちは募るばかりであった。
その半面。婚約の報せを聞いてから、私はアルビナのことが心配で仕方がなかった。彼女がどれ程ユリウスを想っていたかを知っているがゆえに、発狂してしまっていないか恐れていたのだ。
そしてアルビナと会ったのは、ユリウスとオフェリアの婚約の第一報を聞いた三日後のことであった。
その日も王室で茶会が開かれていたので、終わったあとに彼女は私の部屋へとやって来たのだった。
「お久しぶりです、アルビナ様」
「そうね……一週間ぶりかしら」
「何か飲まれますか?」
「いえ、大丈夫よ」
テーブルに座ってからも、アルビナはただ俯くばかり。目の下には、薄らとクマができていた。彼女はなぜか、薄い布製の黒い手袋をしていたのだった。
そして私は、気づいてしまったのだ。
左の手袋の指先に、血が滲んでいることを。
「っ、アルビナ様、少し、失礼します……!!」
「え、あっ……!?」
嫌な予感がして、私はアルビナの左手から手袋を外した。
「……これは」
あまりにも悲惨な光景を前にして、私は息を呑んだ。
彼女の……アルビナの左手の爪は、全て根元から剥がされていたのである。
「っ、一体、誰がこんなことを……っ」
「全部、私が悪いのよ」
「……え?」
「私が、ユリウス様の婚約者に選ばれなかったから……っ、これは、その罰なの」
そう言ったアルビナの声は、酷く震えていた。察するに、これは彼女の両親か兄の仕業なのだろう。
「……ユリウス様がもし、あの子と結婚したならば、今度は、右手と両足の爪もって言われたわ」
「そ、んな」
「どうしよう、イヴァン」
そしてとうとう、アルビナはテーブルに突っ伏して泣き出したのだった。
「……っ、ユリウス様と結婚できなかったら、きっと私、殺されちゃう……!!」
「……」
一緒に逃げましょう、アルビナ様。
そう言えたならば、どれ程良かっただろう。しかし、彼女と共にここから逃げたとしても、待ち受けるのは厳しい現実のみ。凍え死ぬのが関の山だ。自分の無力さが、何よりも憎く感じられた。
「……アルビナ様」
「うっ、ううっ」
「お怪我が化膿してしまったら危ないので、手当しましょうか」
自分とアルビナが置かれた立場を呪いながら、私は彼女に優しく語りかけることが精一杯であった。
「……そうよ。あの子さえいなければ」
手当している最中にアルビナがそう呟いたのを、私は聞き逃さなかった。
この日を境に、アルビナの心はだんだんと狂い始めていくのである。