スノードームに降る雪
武 頼庵様『街中に降る幻想の雪企画』参加作品です。
武 頼庵様企画ありがとうございます。
アメリカンコーヒーを飲みながら雨の降りしきる庭園を見ている。
ホワイトに限りなく近いアイボリーの柱。ブルーの瞳をウインクさせて生き生きと動き回るウエイトレス。大きなサンドイッチ。大きなケーキ。大きなビール。
ここは、ブラジルだ。
なぜアメリカンコーヒーかと言えば、外国人専用のホテルだから、ということになるだろう。
僕は日本人だけどブラジルにはもう20年住んでいる。12月31日にもなればブラジルのお店は軒並みお休みだ。
一人身で新年を祝う家族もいなければ思いつく友達もなかった。
だから街中のホテルでくつろぎながら雨に打たれる緑を見ている。
ブラジルは……年中暑くて雨も多いから……葉っぱが異常に大きくなるんだろうな……。
目を瞑って日本の樹木がどうだったかを思い出そうとした。
しかし樹木は思い浮かばず、雪景色がちらついて僕は顔をしかめる。
冬になれば雪以外何も見えなくなる東北の農村で僕は育った。
仕事の都合でブラジルに渡って初めての冬、僕は発狂しそうだった。
どこにも、雪がない。
雪なんて大嫌いだった。毎日のように続く雪かきも、掻き分けて進まなければならない学校への道も、肌が弱いせいで毎年なるあかぎれも、みんな面倒だった。
それなのに1年中雪の欠片も見られない国へ暮らしたとたん、懐かしくてたまらないものになったのだ。
雪…………雪…………雪…………。
どこを捜しても見ることのできない『故郷』を求めて僕はおもちゃを買った。
『スノードーム』だ。
スノードーム知ってる? 透明な丸いボールに液体が満たしてあってサンタと赤い屋根の家と雪だるまのフィギアが入っている。雪だるまは赤いバケツの帽子を被っている。ボールを振れば中の雪に見立てた紙のようなものが降る。
インテリアにもなる。
僕は泣きながらそれを見た。
今思えば頭おかしいよ。25にもなろうって男が涙やら鼻水やらでぐちゃぐちゃになりながら何度も何度もおもちゃをひっくり返してるんだ。ヘタをすれば一晩中でもひっくり返していた。
この小さな世界でだけはいくらでも雪が降ってくれた。
ブラジルは日本の移民が多いこともあって、スーパーに行けばなんでもあった。日清カップヌードルも、かっぱえびせんも、たくあんも、納豆もなんでもあった。
雪だけが、なかったんだよ。
やがてブラジルの生活にもなれ、恋人を呼び寄せることにした。何年かたてば日本に帰れる。数年の我慢だからと説得してのことだった。
僕は彼女に奇妙なお願いをした。
雪をつめてきて欲しい、と頼んだんだ。
クーラーバッグいっぱいに雪をつめて機内に持ち込んで欲しい。厳重に包装したところでほとんど溶けてしまうかもしれないが一欠けらでもいい、雪が見たいんだ。
電話の向こうで恋人がにっこり笑ったのがわかった。
「いいわ。あなたの家の近くの雪をつめてきてあげる」
僕は説明した。僕の両親は何年も前に亡くなっているし、僕は一人っ子だったから、もう、家はないんだ。
大学に行くために、家は売ってしまったんだよ。
彼女が息を呑むのがわかった。
しばらくしてはっきりとした決意を込めた声が聞こえた。
「これから、私があなたの家になるから」
僕はただ嬉しかった。その頃は携帯電話なんかなかったから、公衆電話のつるつるとしたピンクの受話器をそっと撫でた。
当日、空港で僕は彼女の到着を待った。
空がやたら綺麗だったことを覚えている。
日本の空はいつもどこか煤けているのにブラジルの空は高く高く青いんだよ。ようこそ、ブラジルへ。この空の下が今日から君の住むところだよ。
でも彼女は到着しなかった。
飛行機は乗客をブラジルまで運ぶことなく海の藻屑となった。彼女も、彼女が抱えた日本の雪も海底の泡になった。
僕は再び、雪が大嫌いになったんだ。
あれから20年。
ただの1度も日本に帰ったことはない。帰ったところで誰も待っていない。
僕は家族を持たず、日系人との交わりももたなかった。日本を思い起こさせるもの、家族を思い起こさせるもの、全てから遠ざかっての20年だった。
もう、雪は降らなくていいんだ。
ソファにうずもれたまま僕は現実に帰る。
ブラジルに住んでいてほんとうによかった。この国には大きな葉を持つ木々と、歌と、踊りがある。
真っ黒に日焼けをして最早ほとんど現地の人と見分けのつかない僕。このままブラジルの墓標になれればいい。
そろそろお昼時。パスタの注文をしようとしたときだった。
蛍の光が聞こえてきたのだ。
驚いて後ろを振り返るとラウンジのテレビから紅白歌合戦の模様が流れていた。日本人のビジネスマンが従業員にチップを握らせたらしい。
懐かしい歌詞と音楽が揺れる出演者たちから発されていた。
…………そうか……今、日本は夜中11時30分を周ろうというところか。
こんなところで日本が追いかけてくるだなんて。懐かしさに目を奪われる僕とそこから逃げてしまいたい僕がいる。
ひどく逡巡してから立ち上がって鞄を掴んだ。レストランを出て、ラウンジの横を通り過ぎようとした瞬間に鐘楼の音が鳴った。
ゴーーーーーーン…………。
画面いっぱいに『ゆく年、くる年』の文字が写される。
僕は棒立ちになっていた。
目の前に故郷が広がっていたのだ。
しんしんと、雪が降るそこは、紛れも無く僕が生まれた場所だ。20年前の記憶そのままの風景が広がる。ただ、僕の家だけがない。
脳裏で父と母と彼女が炬燵を囲んで座っていた。
みんな笑っている。家の中なのに雪が降る。
いや、雪じゃない。スノードームの紙ふぶきだ。
透明な球体の中に僕の失った全てが納まっている。
キラキラ、キラキラと光を振りまきながら僕の目の前を一面白い雪が降り積もった。
父を隠し、母を隠し、春のような微笑みの彼女を隠した。
炬燵が消え、その周りの柱が消え、障子が消え、天井が消え。
僕は何も無い白い世界に立ち尽くしていた。
(終)
2007年に書いたものですが、まさにこの企画にピッタリな内容だったので掲載しました。
16年前の自分に感謝!(笑)
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*【2024年1月15日】改題しました。
『スノウボールに降る雪』→『スノードームに降る雪』
単語をミスしていたため。