乙女細胞
「乙女細胞」と音感がいいなあと思って描いた作品です。
もう少し短くして、スピード感をあげた方がよかったかとも思いますが、読んで頂けると幸いです。
けたたましいアラームが鳴り響く。
美少女ともてはやされた気持ちのいい夢を中断させられた荒川美穂は、枕元の無駄に豪奢に飾り立てた時計を掴み投げ飛ばした。
ガチャン!
どこかが壊れたと思われる大きな音をたてたが、アラームはいまだなり続けている。
無駄なゴージャス感がある割に、しっかりと仕事はしているようだ。
髪がグチャグチャになっている自分の頭を掻き、周りを見渡す。
執筆用の机は資料が何個も山を作っている。サイドテーブルも似たような状況であった。
その中から今日使う予定の資料を引っ張り出す。
寝ぼけたせいもあって、山が一つ崩れ、ベッドになだれ込んできた。
「ハア~。起きるか。」
ベッドから立ち上がる。
薄い水色のタンクトップの下には中途半端に育った胸が直接押し上げている。
下半身には生理用のナプキンが装着されたベージュの生理用ショーツ。
年齢的にも、そして実際に生理の間隔が空いていることも解ってはいたが、計算上、可能性があったため習慣になっている自分に幾ばくかのイラつきがあった。
終わるなら終われば楽なのに。
そうは言っても、来ないと思って用意してないときに急に出血が始まるのには辟易していたので、ここ当分は続けることになるだろう。
それ以上に、イラつきが酷い。
更年期という事もあるのだろうが、仕事とそれ以外のストレスが、確実に自分のストレスになっている。
とりあえず自分の部屋を出て階下のリビングに降りる。
昨日12時近くに食べた夕食はシンクの中に出しっぱなし。自分で洗っていないので当然だ。
リビングにも、昨日帰ってきてまとめていた書類の資料が散乱していた。
これは流石に出社する前にかたさねばならない。
それ以外は契約している家政婦が掃除・洗濯をしてくれるはずだ。
玄関に目をやると、一人娘の香織の靴がなかった。
学校に行ったのか、それとも帰ってきていないのか。
昨日帰宅した時には、食事用のテーブルの下に張り付けていた封筒がなくなっていたから、一度帰宅したのは間違いない。
娘と会話らしい会話をしたのは何時だったか、
美穂は思い出そうとした。
高校に入ってからは、必要なこととはいえ、話はしていた。
だが2年に上がったくらいから無断で欠席することがあり、学校から連絡が来ることが数度あった。
1度は3者面談にも行った。
時間に追われている仕事を何とか調整して時間を作って…。
でも、今から思えば無駄な時間だったと思った。
娘の香織は美穂の言う事を全く聞かなくなり、無断で外泊するようになった。
それを怒って派手に言い合いになってから、話らしい話はしていないと思う。
もう1年前くらいではないだろうか?
だから、毎日食費と小遣いとして1万円を封筒に入れ、このテーブルの下に張り付けるようになった。
これは、派遣される家政婦に盗まれないようにしたためだ。
これをしないと、香りが家のモノを勝手に売っていることが最後の喧嘩の理由だった。
テレビをつけた。
朝のニュースを流していた。
その左上の時間を確認する。
7:45。
起きてからすでに30分が経過していた。
今日は10時に出社することを秘書には伝えてある。
といっても、そんなに時間に余裕はない。
迎えの車は9:15には家の駐車場に入ってくるはずだ。
美穂は着ているモノを脱ぎ、脱衣所のバスケットに放り込んでバスルームに入った。
荒川美穂、48歳。
アラカワ健康美容株式会社、代表取締役社長。
バツ1、独身。
娘が一人、荒川香織。17歳、麗聖女子高校3年。偏差値41。制服は非常に可愛いという評判だったが、着ている生徒がカスタマイズし過ぎているため、高校のパンフレットに載っている制服と同じものとは思えないという噂。
つまり、よく言えば自由、悪く言えば底辺。
美穂は結婚してすぐに香織を授かったが、夫の度重なる浮気と、浮気相手が妊娠したことにより離婚。すでに化粧品を扱う会社を起業していて、経済的な不安はなかった。
娘の香織には不自由させない生活をしていたつもりが、知らないうちに生活態度が荒れていき、今では学校に行っているかもわからない状態になってしまった。
それに反比例するように会社の業績は上がり、美穂は仕事に忙殺されていた。
その中での唯一の娘との約束が、1日1万円の小遣いの代わりに高校を卒業するという事だった。
この約束は美穂にとって、多少は肩の荷が軽くなったのは事実だった。
だが、ストレスがそんなことで解消されることはない。
結果的には、仕事量の多さ、家庭問題というストレスが胃腸、そして肌に顕著に現れた。
化粧品を扱う女社長の容姿が崩れていく。
これは会社にとって致命的であった。
この状況であれば、会社関連での仕事では人前には出ず、副社長の信頼を置いている片山紗耶香にでも出てもらえば済むとも考えるのが普通であろう。
が、実務は優秀なのだが、ビジュアル的には難があった。
それよりも何よりも、この会社を軌道に乗せるために美貌の女社長の肩街を最大限に使い、メディアに露出してきた、という事情もあった。
髪の毛はずいぶん前にショートカットにした。
こちらの方が若く見えるというのもあるが、洗髪と髪の乾燥・手入れが時間の短縮になるというのが大きい。
化粧の時間が肌のくすみやシミのせいで長くなってしまったからでもある。
髪を乾かして手入れを行い、下着を身に着けスーツを選ぶ。それでもう9時近い。
「先日、山中から発見された遺体は飯田恵さん18歳の者であることが判明しました。当初はクマに襲われ、死亡したと思われましたが、地中に埋められていたことが判明。それを熊が掘り返して食べたと思われるとの事です。警察の発表によりますと、この遺体から血液が全くなくなっているという事が判明しました。このことからすでに2件の同様の事件と関連があるのではないかとして、警察は連続殺人事件として捜査をしている模様です。」
嫌なニュースだった。
その血液が抜かれているという先の2件も、10代の少女が被害者だったなと思いながら、美穂は焼けたトーストにマーガリンとイチゴジャムを塗り付けて、コーヒーと一緒に食べる。
「続いてのニュースです。昨夜の深夜に港から自動車が落ちたと110番通報がありました。早朝からの引き揚げ作業が行われ、その中に2つの人影が認められた模様で…。」
美穂は食事を終え、テレビのスイッチを切った。
9:20。
既に迎えの車がこの家の駐車場で待っている筈である。
慌ててスーツの上着をひっかけ、鞄に必要な書類を突っ込んだ。
リビングに散らばる書類を廃棄用の段ボールに放り投げてクローゼットの押し込む。
そのまま玄関のパンプスに足を入れた。
「仕方ない。歯磨きは社長室でやって、顔の仕上げはまた車内でするしかないな。」
「香織は学校に行ったのかしら。」
つい、口に出てしまった。
「まだ香織ちゃんとは話していないんですか、社長。」
副社長の紗耶香が美穂に話しかけた。
美穂は「しまった」という顔で紗耶香に目を向けた。
紗耶香はフレームレスの眼鏡で美穂に微笑む。
長い髪を後ろで束ねているのが実務にはいいのだろうけど、いまだ結婚できないことがその容姿になんの努力をしていない結果ではあろうと美穂は思った。
少しいじれば、そこそこいい女に慣れそうなのに…。
こんな私についてきてくれて、実務処理の大半を請け負ってくれている。
性格はかなりいと思うのだけど…。
美穂は軽くため息をついた。
だが、このため息が娘に対してと紗耶香は思う事だろう。
「もう、私にはお手上げ。ここ最近では顔も合わせてないわ。家には一度は帰ってきてるみたいだけど、それだけでいい、とは思ってるけど…。」
「会ってないの!それ、全然大丈夫じゃないよ!社長、というか美穂さん!ちゃんと一度話し合わなきゃ。半年もすれば卒業でしょう?」
紗耶香は心配そうに10歳ほど上の社長に言った。
「それは分かってるけど…。高校に何とか受かったあたりから、もう私の言う事を聞かなくなっちゃって。あの娘、父親が好きだったから…。あいつがほかに子供を作ったて言っても聞かなくてね。中3の初めの時だったかしら。」
「それでもあなたの所にいるんだからさ。話くらいは出来るでしょう?」
「私も疲れちゃって。化粧品を扱っている会社の社長をやってるくせに肌がどんどん衰えてきてるし。」
その言葉に、紗耶香は大きくため息をついた。
いくら言っても聞いてもらえないんだろうと思ったのかもしれない。そう美穂は思った。
「そういう事だから評判のお医者さん、紹介したんですよ、社長。」
「そうだったわね。もう2年くらい通ってるわ。」
最初に美穂が紗耶香に愚痴をこぼし、紹介してくれたのは、娘の香織が高校1年の夏休み明けだった。
もともと勉強嫌いであったが、夏休みに悪い仲間と付き合うようになった。
おそらく、男を知ったのもその頃じゃないだろうか。全く根拠はないのだが。
「効果はあったんでしょう。」
「最初はね…。」
紗耶香の紹介してくれた美容整形は口コミで評判がいいところだった。
「確かK国は気軽に整形するとか言って、唆してきたのよね、紗耶香が。」
「まあ、そうだけどさ、いい先生でしょう。腕も確かだし。」
「それはそうだったけど…。」
そう、最初に紹介されて行った時に会ったそこの医院長は、優しいイケメンだった。
保険がきかない美容整形だから、優しいのは当然だろうし、ここでブサメンか不細工の女医が出てきたらそれだけでUターンだったけどね。
効果はてきめんだった。
シワ消しとシミ消しだけで顔が10歳は若返ったようだ。
コラーゲン注射なんかでさらに5歳は若返ったようだ。
こんなに簡単に綺麗になれるなら確かにK国のように外面しか気にしない国民はこぞってやるわけだ。
体に負担がかかっても。
荒川美穂は美少女だった。
娘の香織は不細工という事はなかった。自分のいいところも遺伝しているのだが、元旦那の悪いところも遺伝したようで、その悪いところが先に目が行ってしまう。
娘の香織はそれが不満だったようだ。
だから美穂の高校生の時の写真を見つけた時から、羨ましさと恨みが混ぜ合わせたような表情で美穂を見ることがあった。
美穂は自分が美しいことを自覚していた。
そして、さらに綺麗になることが好きだった。
高校の頃から親に隠れて化粧の練習をしていた。
その頃の流行はK国の化粧品だった。
日本の化粧品メーカーの者は高額なものが多かった中で、K国の化粧品は安価で、しかも結構綺麗なモデルたちがSNSなどで盛んにアピールしていた。
美穂の小遣いでも手が届くもので、色のバリエーションも豊富だった。
将来、そう言った化粧品関係の会社に入りたいという思いもあり、薬学部に入学した。
当時はまだ4年生で、私立の大学でも両親が何とか出せる授業料だったというのもあるし、薬剤師の国家資格もあるため、そこそこ人気ではあったが、懸命に勉強して中堅大学の薬学部に進学できた。
研究室に配属された先で、そのK国の化粧品を分析して驚いた。
まがい物、と言ってしまうのは憚れるが、決して質のいいものではなかった。
だからこそ金額も低かったわけだ。
それから、K国ではやってるというモノには猜疑心を持つようになった。
その経験もあり、質が良く、その中でも小売価格を抑える努力をした化粧品の販売をしようと決めたのだ。
大手の化粧品会社に入社し、そこでノウハウを培った。
さらに事務能力の高い片山紗耶香と意気投合してこの会社を作ってそろそろ20年になる。
最初の5年は販路獲得のために出来る限りのことをした。
その時に営業の専門家として紹介された男性を雇った。
その男性が美穂の元夫である。
その口のうまさは営業で如何なく発揮された。
だが、会社が軌道に乗ってしばらくすると、ほとんど仕事をせずに、遊び惚けるようになった。
だが娘の香織はそんな元夫を慕っていた。
おそらく元夫は天性の女たらしなのだろう。娘すら惚れさせるほどの…。
だからこそ、娘のために分かれたはずだった。
だが、結果的にはその離婚が原因で、母娘の関係は破綻した。
紗耶香に愚痴をこぼしているうちに、関係企業の担当が面会のために到着したことを秘書から伝えられた。
「さてと、仕事しますか。」
「頑張ってください、社長。」
その紗耶香の声を後ろに聞きながら、美穂は社長室を出た。
「本日は目立つシミ消しという事でよろしいでしょうか、荒川様。」
「そうね、目立つ、というか顔から首にかけてあるシミは全部消してほしいのよね。」
美穂は鏡を見るたびに気になっていたシミの数が、最近増えてる気がしてならなかった。
最初の感動はもうかなり薄れてしまった。
確かにシミを消して、皺も目立たなくすれば若返ったようには見える。
だが、元の年齢も増えているので、結局施術した後の顔も最初程は若々しくは見えない。
「承知いたしました。本日は院長が施術を担当されますが、よろしいでしょうか?」
受付の大きなマスクでその下の大半を隠している女性が美穂に告げた。
「それは有り難いわ。いつも院長に見てもらいたいんだけど、お忙しそうで、諦めてたのよ。出来ればいつも、という訳にはいかないのかしら?多少色を付けてもよくてよ。」
受付の女性はそういう申し出に慣れているのだろう。にっこりと笑った。
「皆様、そうおっしゃるのですが、やはり医院長は人気がるもので。また、他の場所にもいかれたりしていました、なかなか患者様全ての方の要望を聞くことが出来ず、申し訳ありません。今回は運が良いと思っていただければ幸いなのですが。」
如才ない答えが返ってきた。
自由診療の美容整形である。
ある意味裕福な女性が多く訪れてるわけで、多少料金を多くしても、いい返事が返ってくるわけがなかった。
「ちょっと言ってみただけよ。では、今日は院長の腕を実感させてもらうわね。」
「そう言っていただけると、こちらもありがたいです。医院長には荒川様の言葉を伝えておきますね。第1診察室でお待ちください。」
受付の女性に微笑みを返して美穂は診察室に入った。
「荒川様の肌は何時もいい状態ですね。こうやって診療していても気持ちがいいですよ。」
施術用のベッドに寝かされた美穂の顔の皮膚を触診しながら、この医院の理事長でもある医師が美穂を誉めた。
それがお世辞とはよく解っている。
それでも院長にそう言われると悪い気はしない。
「さすがとしか言えませんね。荒川様の経営する会社の製品の質の良さがよく解りますよ。実際よく売れているようで、こちらにお越しになるセレブの奥様達も結構の方が使われているようですよ。」
非常に耳障りがいい。
声も内容も。
美穂はうっとりとその声を聴いていた。
「それでも歳には勝てないわ。先生のお陰で実年齢よりはかなり若くは見られますけど…。今日もシャワーを浴びた後に全身を鏡で見てしまって、いやというほど自分の「歳」というモノを思い知らされちゃって。仕事や家庭のことでストレスが大きいという事もあるんでしょうけどね……。ああ、ごめんなさい。若い先生にこんなお婆ちゃんの愚痴をこぼしてしまって。先生には本当に良くして頂いております。先生の施術を悪く言っているわけではないんですよ。」
美穂は自分の愚痴が理事長の施術の腕を貶めているような発言になっていることに気付き、慌てて謝罪と言い訳を織り込んだ。
「こういう仕事をして、わたくし、変に美貌を売りにしてしまって来たでしょう?見えるところの肌に関しては、充分以上に先生のこの医院さんで良くしてもらって満足なんですけれども……。さすがに全身を見てしまうと、肌のたるみや胸やお腹の醜さについ目が行ってしまうんですよ。これでも週に2度ほどジムには通って、エステもしてるんですけれども。」
「とんでもございません。確かに当院での施術はお顔と首まわりのみではありますが、荒川様はもともとお美しい方ですから、それほど卑下される必要もないとは思いますが……。そうですね、全身美容となると、額もかなりになりますしね。ジムにエステとは、さすがは荒川様です。美への探求に飽きることのない姿勢、素晴らしいというしかありませんが……。」
「どうされましたか、先生?何か気に障ることを、わたくし、言ってしまったかしら?」
ベッドに横たわる美穂の横に立つ理事長が少し考え込むようにしているのが、視界に入ってきた。
少し不安になる。
これからレーザーによるシミ取りを行うのだ。
変にこの医師の機嫌を損ねるといい結果が得られないかと思ってしまう。
「先ほど荒川様が私を若いと言っていただけましたが、もう今年で50を超えるんですよ。」
「えっ!」
今までこの理事長の年を考えた事はなかった。
甘いマスクにはシミも皺もない。
美容整形をしている医師がシミだらけ、皺だらけでは話にならないが、男性の皺は逆に味のある顔を作る場合もある。
そう考えれば、この異常に見える顔はやはりかなりの手を加えているという事なのだろうか。
この医院は都内に数店舗を構えている。
だからこそ理事長でもある医師に診てもらえるだけでも運がいいという事になるのだ。
当然のことながら、この医院に勤める医師も数名いた。
誰もが美男美女ぞろいだが、とりわけこの理事長は若く美しい。
多少顔は整形できるのだろうが、長年化粧品に携わってきた美穂にはその皮膚から大体の年齢は予測できた。
その経験から年齢はいっても30代後半だと思っていた。
「とてもそのようなお歳には見えません。35歳くらいなのかと思っていました。」
「肌のプロの方にそう言ってもらうと嬉しいですね。ですが、実はこれには秘訣というか、からくりと言えばいいか…。理由はあるんですよ。で、荒川様にそのお話をしようかと思ったのですが……。荒川様、この施術の後はお時間はありませんか?」
かなり迷った末に、そんなことを理事が美穂に提案した。
「ああ、ええ、時間を作ることは、出来ます、が…。」
「それはよかった。荒川様にとってもいい話だとは思いますが、ただ、その時に私が言う話は上得意の荒川様だからお話しする内容になります。どうか、他言無用でお長居したいのですが、如何ですか?」
かなり真剣な院長の顔が、美穂を覗き込むように向けられた。
美穂の自尊心をくすぐるような言葉に、少しときめきながら美穂はかすかに首を縦に動かした。
「ええ、了解しました。そのお話には興味があります。是非聞かせてください。決して誰にも喋ったりはしませんから。」
その言葉に明らかに安堵したように微笑み、美穂に近づいていたその甘いマスクを離した。
「ご理解していただきありがとうございます、荒川様。それではこの施術の後、院長室までお越しください。受付の者が案内しますので。」
「よろしくお願いします。」
「では、施術に入りますね。」
痛み止めの局所麻酔が美穂の皮下に打たれた。
理事長室は美穂が思ったより広かった。
深めの絨毯が敷かれ、ソファも美穂の会社の応接室よりも高価と思われるセットである。
そして、院長と呼ばれていたこの医師が全店舗の医療法人の代表の理事長であり、「院長」と呼ばれていたのは、初期の頃からの愛称のようなものだと説明された。
つまりこの美容整形の院長は別にいるとの事で、このフロアには理事長室のほかに院長室と医師、看護師、事務員用の部屋も用意されたスタッフ専用フロアである。
その半分くらいをこの理事長室が占めている。
というか、この部屋と理事長室と書かれた扉の間に秘書たちの居るスペースがあって、さらに扉が開かれて美穂はこのソファに招かれた。
座るとすぐにスタイルのいい若いスーツ姿の女性が紅茶と焼き菓子を美穂の前のテーブルに置いた。
続いて美穂の前の椅子に理事長が座ると、音も無く今の女性がコーヒーの入ったマグカップをテーブルに置いた。
「紅茶でよろしかったですか?」
そう理事長が確認してきた。
「ええ、覚えて下さって光栄です。コーヒーよりも紅茶の方が性に合ってるようで。」
しかもアールグレイである。
最初のインタヴューの時に結構細かく嗜好品に書かされたことが、こういうところで出てくるわけか。
ある意味便利と言えなくもない。
美穂は、新規の企業や小売店に営業をかける際に、そこのスタッフの嗜好品や、好きなもの嫌いなものの情報を集めるのに、結構苦労したことを思い出していた。
この好みがうまくヒットすると、それだけで相手からの好感度がかなり上がるという事を知っている。
「それで、秘密の話というのは?私、院長のような方から内密の話などと言われて、少々胸がときめいていますの。」
美穂は内密の話がそう言った事でないことは十分に理解していた。
それでも、こういう言い方の方が、相手の油断を誘えるという事も知っていた。
今回は商談ではないのだから、こんな小技を入れる必要はないはずだが、癖と緊張の緩和という理由からこう切り出してみたのだ。
10歳くらい若ければ、男性相手にこういった恋愛をにおわせることで、こちらに有利な条件を飲ませることもできたが、今の自分には無理だという事も理解している。
「ハハハ、これはまた荒川様もご冗談が好きな方と見えますね。今回、荒川様に秘密のお話をするという事が、そう言った方面ではないことを知っていらっしゃるくせに。」
そう言って手元のコーヒーを持ち上げ一口すする。
美穂もそのタイミングでいい香りの紅茶を口元に運んだ。
「このお話は荒川様の最大の関心事、「美」についてのことです。」
「それは、今してもらった施術とは別の方法、という事ですね。」
だが、理事長はそれには応えず、美穂の顔を見つめた。
「荒川様は「美」、美しさとはどういったものとお考えですか?」
「そうですね。その「美」がどの方面に関してか、という事にもよりますが…、一般的には「調和」、ではないかと考えております。」
美穂は無難な答えをまず口にした。
その答えに理事長は軽く頷いた。
「それも一つの考えだと思います。ただ、単純な調和という事だと、「整った」といことでしょう。今、これから話題にするものは私たち共通の「美」、女性の美しさという事です。先ほど言った「整った」という単語に、「顔」と私たち美容というフィールドでは繋がります。」
「ああ、そうですね。「整った顔」というのは、必ずしも誉め言葉にならないことではないですね。」
この問答がどういった終着点に辿り着くのだろう、と美穂は思った。
なるほど、「美」を「調和」というと、今のような「整った顔」となる。
よくバラエティー番組出左右対称の顔を鏡や合成写真で見せられるが、それがもとに比べた時に美しいとなることは少ない。
「荒川様は今もお美しいですが、きっと20歳ころの美しさは今の比ではなかったのではないですか?失礼なことを申し上げているとは思ってはいますが。」
「フフフ、本当に失礼なことをおっしゃいますね。もっとも、そう思っていなければ先生のこの医院には来ていませんが。そうですね、自分で言うのもちょっと恥ずかしいのですが、今に比べればその頃はかなりモテておりました。年齢という事もあるのでしょうが、当時はそれが当たり前と思っておりましたが。」
理事長は「うん、うん」という感じで頷いている。
その頷き無性に苛立つものがあった。
「こればかりはどうしようもないと思われています。ヒトは年齢とともにその体の細胞が衰えていきます。皮膚だけではなく、五感や内臓、筋肉、骨、人を形作るものは皆、ある意味、生まれてから死に向かっているという事もあながち間違ってはいないでしょう。」
「それは先生のおっしゃる通りだとは思いますが…、それでも、女性はいつまでも美しく居たいと思うものです。男性はその生きざまが皺で刻まれる、というように加工良さに用いられたりもするとは思うんですけど。」
「まさにその通りですね。本当に、一昔前は美容に関して男性はほとんど何もせずに済みましたから。動物たちの中にはオスのほうがよっぽど派手なものは多いんですがね。」
「そうですね。でも、醜く老いていくという恐怖は確かにあります。それとは別に、若い頃の化粧というのは、自分の素顔を隠すという防御的な面もありますが、それ以上に自分のテクニックでより美しくなるという楽しさも確かにありました。だから、私は今、化粧品の会社を興して、生計を立てておりますのよ。でも、実際にこの年になってくると、その老いという恐怖は直に感じて、先生にお世話になっているんですけどもね。」
美穂の言葉が切れるのを待っていたかのように、上半身を美穂に向かって乗り出してきた。
「そう、全くそうですね。美しかった方で人生の成功者である荒川様であれば、特に醜く老いていくことなど、恐怖以外の何物でもない。わかります、その気持ち。」
「あはは、分かってもらえると嬉しいんですが、先生、ちょっと近い、です。」
「ああ、これはまた失礼なことをしてしまいましたね。」
理事長は慌ててソファに腰を沈めた。
コホン、と軽く咳払いをしたのは照れを誤魔化したようだ。
「ここからが本題です。もう一度念を押しますが、この話は荒川様の胸の内に仕舞っていて頂きたい。」
「は、はい。」
急に真剣な眼差しで見つめられ、反射的に美穂は答えた。
理事長の背がピンと張りつめたような気がした。
かなり重要できわどい話が想像された。
そのことに美穂の背筋も伸びる。
間違いなく、自分の容姿にとって重要な話だと、美穂は理事長の言葉を聞き漏らすまいと身構えた。
「そんなに緊張なさらなくとも大丈夫ですよ、荒川様。そして、荒川様なら、この話は実現可能だと思います。」
そう言いながら、マグカップに残ったコーヒーを飲み切った。
緊張しているのは美穂だけではなく、理事長も一緒であった。
それは語ることが出来ない秘密を抱えているからでもあるのだが、美穂がそこまでわかるわけもなかった。
「私の年齢は先程も述べたように、今年50を迎えました。私も荒川様同様ジムに通い身体は鍛えております。エステという訳ではありませんが、コラーゲンやプラセンタといったような肌に言い施術も、この医院に勤める医師や看護師に施してもらっているのも事実です。だが、それもこれからお話しするある技術にはとてもかないません。
技術というか、正確には発見と言っていいでしょう。私の友人に天才と言っていいものがいます。彼自身も医師免許は持ってはおりますが、研究を生業にしている者です。実名を伝えることはできないので仮にAとしておきましょう。Aとは、ある学会で知り合いました。彼の研究内容はかなり先進的であり、そして異端でもありました。そのため彼が務めていた研究職を辞めなければならない事態になったようです。
知り合った学会から3年ほど過ぎたころ、Aから連絡を貰い合う事になりました。荒川様も経験があるかと思いますが、ほとんど連絡のない知人が連絡をよこすとき、どういう要件か予想できますか?」
「そうですね。大抵は借金か詐欺、と言ったところですか。」
「全くその通り。そして、そのAはその両方であったと言っていいでしょう。「自分はある発見をした。だが、それを精査するには金がかかる。出資してくれないか」と。」
「典型的な詐欺のお話ですね。でも先生のような聡明な方なら、そんな話はすぐにも断ったのでは?」
自嘲気味に理事長が笑った。
美穂はその話が、この秘匿情報なのだと察した。
「普通なら断ります。幸いにも、私の病院は経営もうまくいっている。わざわざそんな話に乗る必要はないのです。彼が凡人であればね。」
「ついさっき、先生はその肩を天才、と称してましたよね。」
「ええ、覚えていてくれてよかった。そう、Aは天才でした。そして、本当の天才には凡人にその内容を通訳する仲介人を必要としていました。先鋭過ぎる考えは、凡人では理解できないんですよ。そして、私はこのように医師としても経営者としても成功できた素地があった。彼の研究内容を充分に理解できてしまったのです。そして、その結果がこの私の若さの秘密です。」
そう言いながら理事長は自分の顔がよく見えるように美穂に近づけた。
それが、理事長のこれから語られる話の核となる部分の証拠という訳だ。
確かに50歳という年から想像できないほどに、綺麗な肌をしており、若さがあふれ出ているような気がした。
「荒川様はips細胞というモノをご存じですね。」
「さすがにノーベル賞を取るような発見ですから、存じ上げております。確かどのような臓器にもなる受精卵のような性質を持つ細胞のことで、その生物の細胞から作られると聞いております。」
「そうです。そのips細胞により、欠損した臓器を自分の細胞から作ることが出来る。今は臓器移植でまかなわれている病気も、自分の身体からの複製なら拒否反応もないというものです。だが彼は、そう言った複製技術で細胞を作るというものではなく、その細胞自体がその個体の老化を遅らせる、いえ、後退させる細胞を発見したんです。彼はその細胞を「乙女細胞」と名付けています。」
「「乙女細胞」、ですか?」
「ええ。これは20歳前後の女性が一番輝いてるという事でAが名付けました。まあ、いい年して少し恥ずかしいネーミングセンスですが、それは発見者の持ち権利と思ってください。「乙女細胞」は老化を止めるというだけではなく、老化を後退させる。つまり若替えさせることのできる細胞と言うわけです。」
美穂の顔に半信半疑という文字が見えるくらいに不信気な表情が出ていた。
「そういう顔になると思ってました。ただ、この研究は先鋭的すぎて、誰にも受け入れられなかった。Aはとある資産家の息子だったのですが、親が死んで受け継いだ資産をすべて使ってこの「乙女細胞」を発見、増殖させました。が、そこで資産がなくなり、私に泣きついて来た、という事です。この発見を利用しようとする輩は多いと踏んだAはある程度の経済的余裕を持ち、この若返ることのできる「乙女細胞」に興味のある人間で、口の堅いものを懸命に探したようです。そこで私を見つけた。」
「でも、そんな研究、ガセと思う方が普通では?」
「普通はばかげているので、誰も話を聞こうともしないでしょう。ですが、彼は増殖はさせたものの、そこで資金がそこをついたため、ごくわずかのサンプルでしたがその「乙女細胞」を持って来ていました。決して量は多いものではなかったのですが、私は自身の身体でその効果を見た、という訳です。」
もう一度自分の顔を美穂に突き出してきた。
何度見ても、そこには若々しい肌艶をした理事長の甘いマスクがあった。
「本当なんですか、先生?」
「だからこそ、内密にと。使ってみる気はありませんか、この「乙女細胞」を、荒川様?」
これは悪魔の誘惑だ。
美穂は直感した。
確かに「乙女細胞」は存在するのではあろう。
ただし、その安全性は保障されていない。
これは体のいい人体実験なのだと気付いた。
だが、この目の前にサンプルとして微笑んでいる理事長の若さは、今まさに美穂が喉から手が出るほど欲しいものだった。
だからこそ、この決して安いとは言えない美容整形に通っているのだ。
「ちなみに教えて欲しいのですが、先生以外にも使われている方はいらっしゃるのですよね?」
「はい、少ないですが…。皆、私の様に若々しくなっていらっしゃいますよ。顔だけではなく、胸やお腹のたるみに限らず、内臓の衰えも急速に良くなっております。ただ、先ほどもお伝えしたと思いますが、このAが私のもとに訪れたのは金策のためです。この先進の細胞「乙女細胞」の抽出と増殖にはかなりな金額がかかる。ですので、うちに通われている裕福な女性全てには声を掛けられないんです。裕福と言っても、大抵は配偶者や、親御さんのお金なもので、自分の自由になる経済的な基礎を持たれている方、そうです、荒川様のような方は少ないんです。それがお声をかけさせてもらった理由でもあります。」
「皆さん、命などに別状はないのですね。」
「それは安心してください。今まで「乙女細胞」を使われて重篤な副作用が出た方はいません。」
「分かりました。」
この時には、心の中の悪魔の囁きに美穂は完全に負けていた。
「いかほどかかるのでしょうか?」
理事長の提示した額は、美穂の考えていた金額より更に桁が一つ多かった。
だが、出せない金額ではなかった。
「お願いします。」
施術は1週間後となった。
相変わらず、娘の香織とは全く会わない生活が続いていた。
昔、無断で娘の部屋に入った時に、恐ろしい形相で暴力を振るわれたことがあったため、それ以降怖くて香織の部屋に美穂が入ることはなかった。
テーブルの下に張った封筒が剥がされないこともたまにあったが、次の日にはなくなっているので、生きていることは確認できていた。
理事長から要求された金額は、少し大きな額だったこともあり、数か所に預けている銀行から引き出し、家にある一部の貴金属を買い取り業者で換金して、理事長の指定口座に入れた。
これも10ほどの口座に、分散して違う日に入金するよう指示されていた。
施術前に指定金額に半分以上は入金をするように指示されていた。
これが詐欺であった場合にはかなり痛い出費ではあったが、流石に都内の一等地に数店舗構えた美容整形医院でそのようなことをする必要はないだろうと思える。
逆に半分より少し多い額のみを入れたのは、万が一の場合であった。
半額を超えた入金の後すぐに連絡があり、施術は予定通り行われることになった。
「乙女細胞」の施術はすぐに終わった。
何のことはない、点滴を2時間ほど行って終了。施術自体は大したことはなかった。
そしてその効果は1週間もすると現れた。
まず睡眠の質が良くなった。あまり夢を見ることがなくなったのだ。
さらに化粧品の肌の塗りがよくなっていることに気付いた。
美容整形で行っていたリフトアップの効果が落ち始めていたと思っていたのが、そのたるみがどんどん消えていくのもわかった。
1週間後、社長室に出勤した時、先に来ていた紗耶香が目を見張るほどだった。
「社長、一体何が起こったんですか?」
「今回、あの美容整形の特別プログラムというのをやってもらったの。べらぼうな金額を吹っ掛けられたけど、その効果が出てきたみたい。」
べらぼうな額という言葉に、紗耶香ちょっと引いていた。
だが、これは理事長から言われていた指示である。
でないと、あの病院に人が殺到してしまう。
この美穂の変貌は、確実に噂になってしまうのだから。
3か月も過ぎると、美穂は昔の輝いていた頃の自分に戻ったようであった。
副社長の片山紗耶香には、あの美容整形を紹介してもらった手前、ああいう言い方をしたが、取引先や他の従業員から聞かれた時には、今回開発中の化粧品と美容サプリメントの効果と言っている。
さすがに化粧品の会社の代表が、美容整形に通ってるという事は秘密にしているからである。
その日、美穂は仕事での取引先との打ち合わせがキャンセルとなり、急遽家に帰った。
だがそこには、テーブルの下に張ってある封筒を自分のポケットにしまおうとしている家政婦の姿があった。
「あんた、何やってんの!」
「ああ、こ、これは…。」
そう言った後、この三か月ほどの間、そこに張ってある封筒を見つけ、こっそり盗んぢることを白状した。
そう、封筒が残っている日は、この家政婦が休みの時であったことを思い出した。
では、娘の香織はどうやって生きているのか?
慌てて、その泥棒家政婦を連れて香織の部屋を開けた。
肉の腐ったような臭いはなかったが、誇りとカビの臭いがした。
ベッドから崩れた布団を捲ると、そこには黒いカビのようなものがあった。
つまり、最低でもこの家政婦が盗みを働いていた3か月の間には、この家には帰っていないという事だった。
「わ、私は、この部屋には入らないように言われていましたので。」
家政婦は、美穂の形相に慌ててそんな言い訳をした。
家出?
だが、それであれば、それなりのモノは持って行くはずだ。
美穂はもう家政婦を警察に突き出すどころではなかった。
「とっととうせろ!」
そう言って家政婦を追い出す。
この事実は後で家政婦を紹介した事務所に抗議すればいい。
100万近い金額になるが、それよりも今は娘の香織の所在を突き止めなければならない。
香織の部屋を探して、目的の貯金通帳を見つけた。
最終は1年ほど前になっているが、どうせカードでおろしている筈だった。
そのまま近くの銀行で通帳記入をした。
最終の日付は3か月以上前。
つまり、全くお金を降ろしていない?
その足で、交番に駆け込んだ。
「今回は、定期健診という事でしたが、どうかされましたか、荒川様?」
理事長が美穂に聞いてきた。
場所はまた理事長室である。
「えっ?」
「いえ、あまりすぐれない顔をしていますので。「乙女細胞」の効果はよく出ているように感じるのですが…。何か不満な点でも?」
「私の顔はそんな風に見えますか?」
美穂は自分を見つめる理事長に、何か心の奥の方を覗かれている気がした。
「なんというのでしょうか…。明らかに「乙女細胞」の効果が表れ、既に20歳以上若返って見えるはずなのに、何か浮かない顔をしておられますので。もしかしたら鏡で自分の顔を見て、何か納得できないことでもおありなのかと。」
そう言われて、ここのところ鏡を見るたびに思い知らされていることがあった。
間違いなく肌も弾けるような質感になり、顔に限らず、全身の肉のたるみがほぼなくなった。
胸の張りもとても40後半のモノとは思えないほどだ。
さらに久方ぶりに生理があった。
油断していて、自分のベッドが赤く汚れてしまい、慌てて買い替えたくらいだ。
だがそれ以上に……。
「いえ、決してその、「乙女細胞」の効果に不満があるという訳ではないんですよ、先生。ただ、鏡で自分の顔を見るたびに、確かに若い頃の私ではあるんですけど、娘にも似てきたような気がして…。」
「娘さん、ですか……。う~ん、そうですか、娘さんに似てきたと。では、その当の娘さんは何といってらっしゃるんですか。荒川様がそう感じるのであれば、娘さんの反応も当然あるでしょう?」
理事長の言葉に、急に胸の奥が掴まれたように言葉を無くす。呼吸も苦しい。
「大丈夫ですか、荒川様。」
理事長が心配そうに美穂の顔を覗き込んだ。
その時、携帯電話の振動が美穂の体を揺らす。
マナーモードにしてあるので理事長は気付いていないようだった。
思いがけない振動に、胸の苦しさが少し緩んだ。
「こんなことを先生に言う事ではないんですが、……うちの娘の行方が分からなくなってしまったんです。」
少し驚いたような顔をして理事長が、美穂から少し顔を離した。
「正直、いつから家に帰っていないのか、母親でありながらわからないんです。夫とは離婚していて、連絡先も解らないので聞くこともできず。今は、警察に届けたんですけど、女子高生の家でなんかは結構ある話だとかで、事件とか事故でもないとわからないと、冷たく言われてしまったんです……。」
「ああ、それは、…大変ですね。ふーん、そうか、やっぱりそうだったのか。」
後半の理事長の言葉は美穂の耳には入ってきたが、その意味が解らない。
「先生、今のやっぱりって……。何か娘のこと、ご存じなんですか?」
美穂の質問に、苦笑いを返してきた理事長の顔は、今までの甘いマスクの優し気な男の顔ではなかった。
何か、得体のしれない笑みを浮かべている。
「荒川さんには特にいつもこの医院を使っていただき、さらに「乙女細胞」の資金援助もしていただきました。既に残金が口座に入金されていることも確認しましたので、「乙女細胞」、あまり言っていると照れてしまいますね、このネーミングセンス。その細胞なのですが、それを発見した「天才」はね、その先進性ゆえに学会を追放されたわけではないんですよ。」
「急に何をおっしゃっているのですか、先生?」
その理知的とはお世辞にも言えない下卑た笑みを顔に張り付けたまま、青ざめていく美穂の顔を見ている。
「モノには順番というモノがあるんですよ、荒川様。そいつはね、動物から「乙女細胞」に似た細胞の抽出に成功したものだから、医学部に献体された遺体から勝手にその細胞が集まっている「あるモノ」を抜き取ったんですよ。」
そう言うと立ち上がって、近くにあるテレビのスイッチを入れた。
そしてリモコンを操作し、美穂に向き直る。
「そいつは、その「あるモノ」から「乙女細胞」の抽出に成功した。荒川様にはあいつから、ああそういえばAとか言ってましたね、僕。そのAは、医学部の同期だったんですよ。あまり知り合いだと思われると、後々厄介かなと思ってそう言ったんですが。その死体に対してそんなことをしたっていう噂はすぐに僕の所にも来ました。医学部にとって死体解剖は重要な実習なんですよ。そのほとんど無傷の死体から、まあ鮮度がよくないとそのものの採集は難しいというモノも会ったんですが…。そのAが天才なのは間違いありません。ただし行き過ぎたことをやることで有名でした。よく冗談ごととして言われる「壁に耳あり」ってのがあって、死体解剖中にその耳を切って、実習室の壁に貼るなんてことをやっちまう奴です。まあ、学校側も稀代の天才、優秀なそいつを庇ったというか、そのことはなかったことにされたんですが…。」
聞いているだけで美穂は気分が悪くなった。
「ただ、この献体を損傷させたことは、研究室の教授も庇いきれなかったという事です。辞めさせざるを得なかった。ですが、その話は私にとってチャンスだ、と思ったんですよ。」
いったい「あるモノ」とは何か。
不意に美穂は数か月前のニュースを思い出した。
クマに食い荒らされた死体。
だが本当は殺されて埋められていた。
そして体内に一滴の血もない状態。他にも2件あった血のない死体……。
「おや、何か気付かれましたか。今日の昼に会ったテレビのニュースなんですが、ちょっとお見せしますね。」
テレビをつけることのなかったこの部屋。違う。3か月前ここに通された時、テレビはなかった。
今から映される映像を私に見せるために、ここに運び込まれたのだ。
美穂はそのことが分かり、胃が波打つ気がした。
吐きそうだ。
何故、私はそう思うのか。
これからこのテレビに映される映像が何か、私は解っているのだ。
美穂は慌ててバッグにしまってあったスマホを取り出し、その表記を見た。
警察署!
「おや、電話ですか?出来ればこのニュースを見てからにしませんか?」
「先日起った土砂崩れから発見された4体の死体の中で最後までその身元が分からなかったご遺体の身元が判明しました。遺体は女性で、都内の高校に通う荒川香織さん18歳であることが判明しました。ただ、この土砂崩れに会った家の関係者ではなく、さらに死亡推定が少なくとも3か月以上、半年は立っていると推測されました。これはこの土砂崩れで亡くなったのではなく、この崖近辺に殺されて埋められていた公算が強いと警察が発表しました。この遺体には一滴も血の後がないという、ここ最近起こっている一連の状況と極めて酷似しており、連続殺人事件と関わっている者と思われます。」
アナウンサーの言葉が、どこか別の世界で起こっているかのように、現実感がなかった。
「一人はクマが掘り起こして食べたために発見され、今度は土砂崩れですか。はあー、本当に腕の悪い業者を雇うと碌なことはないですね。まあ、その業者さんも既に海に車ごと飛び込んで、我々に被害をもたらすことはないかと思ったのですが…。まさかこんな形で荒川様の娘さんの亡骸が発見されるとは…。まあ、荒川様には娘さん、香織さんでしたっけ、の行方が分かって何よりですね。」
「あ、あなたは、一体何者なの?」
「この美容整形を営む医師、ですよ、荒川様。貴方の望みを相応の対価で実現できる医師、とした方がより近いですか。」
「なんで、なんで娘を殺したの?なんで、こんなに人を殺しているの?」
美穂の身体が硬直していた。
それでも、その言葉だけを、懸命に吐き出す。
そんな美穂を冷酷な目と笑みが迎える。
「そう言えば話が途中でした。荒川様がその「あるモノ」に気付いたようですので脱線しちゃいました。この「あるモノ」、変にもったいぶるのはやめましょう。その通り、生き血です。新鮮な状態じゃないと固まってしまいますのでね。Aも慌てたようですよ。あんないい形で死後すぐに医学部に運ばれた献体などそうそうあることじゃなかったのでね。しかも、18歳で女性。条件に適ってるんですよ。ああ、荒川様、この話は娘さんとは関係ないですからね、安心してください。Aはすぐに抗凝固剤入りの保管用試験管にその生き血を収集した。その後すぐにばれて大学は辞めさせられたんですが、私はすぐにAを匿った。彼はそこで自分の研究に没頭してくれましたよ。「乙女細胞」というネーミング、意味は解ってくれますよね、荒川様。」
「なんで、娘を…。」
美穂は頭を抱えて、その言葉を何度も何度も呟いている。
そんな美穂を意別した後、理事長はまた話し始めた。
「「乙女細胞」という、その名前はいわゆる若い、それでも既に受胎可能年齢である少女にしか存在しないことをAが突き止めていたからです。彼は一人分の血液から僅か1㏄程からとれないのですが、その「乙女細胞」の抽出技術を持ち、さらに培養まで成功させました。もう10年くらい前の話ですよ。前にも荒川様にもお話ししましたが、その「乙女細胞」の最初の被験者が私です。運のいいことに型が会いましてね。ああ、この話はしてませんでしたね。この「乙女細胞」には型が存在します。血液型を示すABO式やRh式は型が合わないと輸血できないでしょう?骨髄移植も型が合わないと移植ができないのは有名ですよね。「乙女細胞」にもその型があるんですよ。でもその判定法が複雑でね、DNAの型があるんですね。普通はDNAを採取してその型を調べ、ストックの「乙女細胞」と型を詳細に見るんですよ。でも、荒川様にはその必要がなかった。わかりますか、この意味?」
その質問は俯いていた美穂の顔を引き上げることに成功した。
「まさか…。」
「ああッと、そこは勘違いしないでください。荒川様のために採取したわけではないんですよ。単なる偶然です。ただ、身元を調べると「荒川香織」と名前が分かった。顔もよく似てらっしゃる。極めつけは、片山紗耶香の情報です。社長とその娘が一ヶ月以上、顔を合わせていないという。」
「さ、紗耶香も、このことを、知っているの?」
震える声で美穂が理事長に向かって言った。
「あなたは誰の紹介で、ここに来たんですか?」
ああ、とくもぐった声でうめいた。
「彼女はかなり前から私の親密な友人の一人ですよ。いろいろ買わされてますが、ね。化粧品会社の機密に触れる箇所にいてくれると、美を求める裕福な女性の情報が入ってきますから。」
有能な事務上がりの彼女が、まさかこんな殺人鬼の愛人だったとは。
美穂は恐怖のあまり、身体を縮めて、いくらかでも理事長から離れようとした。
気付かないうちに失禁までしていた。
「勘弁してくださいよ、荒川様。このソファも絨毯も結構するんですから。まあ、あなたから頂いた料金でいくらでも替えることは出来ますが。ただ、勘違いはしないでくださいね、荒川様。私は今までに人を殺したことなんかありませんよ?それはプロの方に依頼していますから。ただ処理をちゃんとしたプロに頼まなかったのはこちらの落ち度でした。ですので、処理はもっとちゃんとしたところに頼んでありますので、今後こういう事は起きないと思います。ああ、そうだ、話はまだ終わってないんですよ。この「乙女細胞」の型は、その親・兄弟・子どもは今の所、型が完全に合致します。ですので、荒川様は精密な調査は必要なかったんですよ。幸運でしたね。」
「幸運?」
「ええ。気の合わない娘が自分の手を汚すことなくいなくなったんですよ。ああいう形でご遺体は発見され、ここ数か月は大変でしょうが、肉体的にも娘さんのお陰で疲れにくくなってるはずですし。娘さんの「乙女細胞」なら、きっとよく働いてくれますよ。諸々の処理が終われば若々しい体に、その美貌。経済的には化粧品会社は安定しています。これからはバラ色の人生が待っているんじゃないですか。こんな素晴らしいことはないですよ、荒川様。」
美穂の耳元で、メフィストフェレスが囁く。
完
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