第70話 今日はバレンタインデーです
優芽が飲み物を取って部屋に戻ると、小夜はベッドに寄りかかり足を伸ばしていた。背中の預け方も崩れきったもので、さながら我が家、我が部屋といった寛ぎっぷりだ。
「制服、皺んなっちゃうよ」
「いいよー別に。帰ったらアイロンかけてもらうから」
「リラックスしすぎじゃない? てこと」
小夜は「ふぅん」と鼻を鳴らす。言われなくてもわかっているし、言われても居住まいを正すつもりはない。
「このぬいぐるみだけ、新しめだね」
ベッドの上にいくつか散らばった内の一つを無造作に掴む。優芽の眉がぴくりと痙攣したのを小夜は見ていなかったが、あまり関係なかった。
「……まぁ、新しいし」
「知ってるけどね。これが幕張君がクレーンゲーで取ったやつだって」
「……出てけよ」
「いやでーす」
優芽に奪い返されたぬいぐるみの代わりにコップに手を伸ばした。対面に見る服装が変わっていることに言及する。
「着替えてきたんだ」
「ん、ちょうど下に替えがあったから。自分ちだしいいでしょ?」
もちろん構わない。スマホのカメラを向けたのには手を翳された上に思い切り睨まれたが、それも構わない。
「なんで知ってるわけ? これ、この前……貰ったやつで誰にも言ってないんだけど」
一週間ほど前、一緒に芽衣の迎えに行った時にゲームセンターに立ち寄った。同じものの色違いが、芽衣の生活拠点にも置いてある。
「幕張君が言ってたよ。あのさぁ、勉強の休憩時間とかさぁ、芽衣ちゃんが芽衣ちゃんがって自慢されるんだよねぇ、あとたまについでに優芽の話とか。迷惑」
「迷惑って、そんなこと言われても」
「それはどうでもいいとして」
優芽の言葉を遮って小夜はまた部屋をぐるりと見回す。特に意味もない行為。
「たぶん、優芽が知らないことも、ちょっと知ってると思う」
最終的に目線は自分の足先に落ち着いた。
「だからそういうこととか……」
「……とか? ……うっわ、心底いやそうな顔」
「いちおう、教えてあげる。いちおう」
「お詫びかなんかのつもりですかぁ?」
「はいはいなんとでもどうぞ」
「てか勉強とか『先輩』に教えて貰えばいいじゃん。それこそ先輩なんだし」
「それが出来たら苦労しないんですけど? 三年ものの奥手を舐めないでくれる?」
「いやバカじゃないの?」
「そうですけど?」
「認められるとやりづらぁ」
優芽が渋い顔で顔を逸らす。
「とりあえず、うーん……私も応援してあげるからさ、小夜と『先輩』のこと。だからまぁ、お、教えて貰おうかな、琴樹のこ、こと」
「……なに? じゃあ認める感じ? 幕張君のこと好き好き大好き愛してる! ってことを」
「もっかい水掛けたろうか」
「残念オレンジジュースでしたぁ」
そう言って小夜が傾けるコップにも優芽の前のコップにも橙色が満たされている。
「す……」
「す?」
「好き、なのは……」
「なのは?」
「あぁもう! 認める! 認めます! 私、琴樹のことっ……好きなのっ! 好き……なの。……だから、だからっ……好きって、ちゃんと……伝えたい」
小夜は目を細めて、朱に染まる頬、耳、首筋を見ていた。たぶんこの世で一等、綺麗な横顔。
かつては自分もそうだったはずのものだ。
「でもまだ、怖いから、だからその、もっと仲良くなりたくって、もっといっぱい、琴樹のこと知りたくて」
どんどん濃くなる赤が愉快で仕方ない。
なんだ。こっちの方が、ずっとずっと、心地よく苦しくなくなれるじゃないか。
小夜は伸ばしていた足を横に揃えて、ローテーブルに肘をかけた。
どんどん小さくなる声が愉快で仕方ない。
「出掛けるのとかも、芽衣と一緒でばっかだから、二人で……デート、したいし。たまに、たまにね、髪とか服とか褒めてくれるからね、もっとオシャレがんばって、そしたらもっと褒めてくれるかもだし。勉強なんかも、教えてくれるのに応えたい。それでそれで、よく頑張ったなって言ってもらいたいなぁって」
「犬なの? あんた」
小夜のぼやきは届いていないようで、優芽はテーブルのどこを見ているんだかわからない様子のまま一人の世界に入ってしまっているらしかった。小夜としては呆れてこれ以上ものを言えない。
こんこん、という控えめなノックにも気が付かない部屋主に代わって勝手に入室を許可する。
「お邪魔します。こんばんは優芽、小夜。……それで、優芽はなにをぶつぶつと言ってるんですか?」
「涼……と、芽衣ちゃん?」
思いがけない来訪者に目を瞬かせる小夜に向かって、小さなお客様はずびっと人差し指を突き付ける。
「さやちゃんさん! こときおにいちゃんは、おねえちゃんとごけっこんすぅから、さやちゃんさんは、だめー、です!」
「……おおう?」
これっぽっちも怖くない糾弾を受けて、小夜は疑問符の海で泳ぐ羽目になった。
〇
「はぁ、なるほど。それで芽衣ちゃんは、わたしのことお姉ちゃんの恋敵と思ったわけか」
「こぉがたき、ってなんですかぁ?」
「ライバルだよー……で」
「ライバル!」
「通じるっぽいね」
姉の膝の上でご機嫌な妹様は、サイダーをくぴくぴと飲むとケプッ、と小さく上半身を跳ねさせる。
幼女、曰くに。
近頃の琴樹がする話には、相当な頻度で『さや』という人が登場するらしい。
「にしても『水着のお姉さん』に似てる、ねぇ。……なんというか……なんて言えばいいのかわかんない気分」
好きでもない人のスマホに保存されている水着姿のどなたかに似てると言われて、普通なら不快感を抱くところだろう。とはいえ言ったのはまだ四歳の幼女だし、どなたかの画像データを持つのは人物評としては好感度の高い相手。
加えて「きえーなひとー」とのことでもあり、マイナスの感情ばかりでもない。
それに、似ているのは自分だけではない、らしい。
小夜はもう一人の似ている人物が妹の口元を拭うのをぼんやり眺める。
似せようとした事実があるから、悪い感情ばかりを抱く資格もないなと思うのだ。
「記憶力いいんだね芽衣ちゃん。三か月も前にちょっと見たくらいのこと、よく覚えてるものだね」
「『しょーげきてき』だったかぁねぇ、めいね、おぼえてた! おっぱいおっきかった! おっぱいは、さやちゃんとにてない」
「なんだぁ? 喧嘩売ってるのか芽衣ちゃぁん?」
「いまのはあんたが悪い。ごめんなさいしなさい芽衣」
「冗談だって! やめてよ! こんなちっちゃい子にこんな下らないことで謝られるとか、気分悪いって!」
優芽と小夜のやり取りに困惑した芽衣は姉に助けを求める。不安そうな顔を頭を撫でてあやし「ごめんごめん。いいよ、芽衣はわるくないからね」とほほ笑む。
小夜にも「ごめん」だ。
「なんか、優芽と芽衣ちゃんとは相性悪いのかも」
遺伝的、はそれこそ冗談としても、なにかしら白木家の姉妹と反発する何かがあるように思える小夜だった。たぶん、いい意味で。
「ところで先ほど、ドア越しに聞こえていたのですが」
間を置くことで注目を集めてから涼は続けた。
「とうとう認めたんですね、優芽」
何を、まで口にしないのは、さくらんぼ色の頬を痙攣させる優芽に対する情けである。変に拗れても面倒という計算もある。
優芽が「き、聞こえて」くらいまで動揺を吐き出したところで芽衣が笑顔を咲かせる。
「めい! めいもね、きいてた! よかったぁ、おねえちゃんがこときおにいちゃんのことすきー、でねぇ、めいよかったんだぁ」
ふらふらと体を揺らして柔らかな声で喜びを伝える。
「おねえちゃん、すきーっていわないからね? めいね、ちょっとね、しんぱいしてたの! ごけっこんすぅときはねぇ、すきーがいっしょじゃないとねー、だめっていってたかぁ」
テレビの中の『ごけっこん』について、芽衣が母の早智子から聞いたことだった。
「結婚? まだずいぶん早い話だけど……。そうねぇ。……好きな人とするのよ。世界で一番好きな人と」
「おねえちゃんは、こときおにいちゃんのこと、せかいでいちばんすきー?」
「……うん。世界で一番、大好きだよ」
小夜は涼と顔を見合わせて苦笑し合う。
ようやく世界で一番好きな人を追いはじめた人がいる。
世界で一番好きな人が、はるかに遠い自分がいる。
誰も彼もみんなの好きが余すところなく伝わればいいのにと思う。伝わらなかった故に、なお強く。
だって今日は、バレンタインデーなのだから。
「はぁ。……辛いね」
「そうですね」




