第68話 ハイカード
玄関ドアを開けた優芽は開口一番の「ただいまぁ!」に返事が返ってくる前に父の不在を確認した。
三日ほど職場に泊まり込みのはずで、その二日目だったはずという記憶が正しかったことにうんうんと頷く。
「てことで、お母さんと、妹の芽衣。たぶん、学祭でちょっと見たかもだけど」
「ようこそ。優芽の母の早智子です」
「め、めい、ですっ。よんさいになりましたっ」
「それでこっちは、友達の小夜。宇津木小夜。クラスメイトなんだ」
「小夜さんね。どうぞよろしく」
玄関入ってすぐに色々と、というか今更ながらになんで優芽の家に伺ってるのかと根本のところで疑問符が百個くらい、小夜の頭の中を埋め尽くす。
「宇津木、小夜、です。お邪魔します?」
「はい、いらっっしゃい。……優芽」
「うん。私の部屋で……遊ぶから。て、小夜、ほら上がって上がって」
緩慢に脱いだ靴を揃える小夜の横から、芽衣がひょっこり顔を覗かせた。
「さやちゃん?」
「え……あ、うん、小夜で合ってるよ」
じっと見つめてくる幼女に気圧され、小夜はあまり上手とは言えない笑みを浮かべる羽目になった。
「なにしてんのー? とりま手ぇ洗うでしょ?」
「あ、えと、今行く! じゃ、じゃあね芽衣ちゃん、ばいばい」
「ふぅうう」
芽衣の唸るような吐息の意味は全くわからないまま、小夜はひとまず優芽についていく。ついでに、アウェイ、という単語が脳裏を過った。
ドライヤーも順番に使った後、階段を上がって優芽の部屋に女子二人。
これといった特徴もないいかにも女子高生といった可愛らしい部屋だ、とは遠慮しつつも見回した小夜の忌憚ない感想だった。
「あ」
ただ一点、それももしかしたら女子高生然としたものではあるのかもしれないが。
「あ? あっ!」
優芽が瞬発力を発揮して倒した写真立ては、特徴と言ってよいものだった。部屋というか部屋の主の特徴だし、特徴というか嗜好ではある。
いつもなら事前に机の引き出しの奥の奥に仕舞い込むが、急な来客とあって失念していたのだった。
「み、みみ、見た?」
手を伸ばした体勢のまま顔だけ振り返った優芽がどもりがちに問う。小夜ははじめ目を瞬かせ、その後、笑い出したのだった。
「くっ……あは、ふふ……あはははは」
「そんな笑うことないじゃん!」
「だって……あー……お腹痛い。……おんなじことしてるんだもんなぁ」
白い天井を見上げる。小夜の家、小夜の部屋にも、似たような写真が飾ってある。写っているのは、もちろん全然違う人だけど。
そのまま暫くは静寂が満ちる。それがなんだか、嫌じゃないなと小夜は思った。
「さっき話したことだけど」
「うん」
「わたし、中学からずっと『先輩』に片思いしてるんだよね。三年、四年近いのか、もう」
些細な切っ掛けだった。大会の会場で迷ったところを、助けてもらって、そんな小さな切っ掛け。
思い出はそれなりにある。優芽を見遣る。
「優芽には、関係ないけどね」
「ないけど……狡くない? それは。つまりさ、巻き込まれたんじゃん私……と琴樹」
また天井の白に目を細める。後ろについた両手に小夜は体重を預けた。
「嫉妬した。狡いって思った。わたしは全然、『先輩』と、『先輩』に意識してもらえなくて……『先輩』も……優芽には振られて」
「……うん」
「なのに、優芽は、幕張君と楽しそうに……恋、しててさ」
「……うん」
優芽の相槌に心が落ち着くのを感じた。
「なんていうか……優芽の恋だけキラキラしてるのが許せなくって、イライラして、それで邪魔してやろうって思って……ごめん、ほんとに」
「いいけど、もう。……もうやんないんでしょ?」
「どうしよっかなぁ。幕張君、良い奴だし、普通に。勉強めちゃくちゃできるし、運動も。割と普通に悪くないからなぁ。『先輩』には「妹とか女友達とかとしか見れない」って言われちゃったし、乗り換えよっかなぁ」
「……そういうとこ、良くないと思うけど。小夜、全然まだ邪魔しようとしてくるじゃん、好きでもないのにさ」
「ぐっ……はぁ……馬鹿だよね、そんなことしてる場合じゃないのに。琴樹にも、何度も言われた、それ。あぁ、うん、だから、琴樹はちゃんと気付いてたよ、わたしがあいつのこと好きで……変なことしてるわけじゃないって。……あ、でも仲良くはなったし、それはほんとだけど」
「……ま、まぁ、いいんじゃない? それは? うん。別に。ち、ちなみになんで名前呼び、なのかなって、思うんだけど?」
「自分の名前、結構好きだし。名前で呼んでって言ったらあっさり呼んでくれるから、じゃあこっちもって。優芽はたまにだよねぇ、琴樹って呼ぶの」
幕張君、に改めるのは諦める。小夜からすれば利用したようなもので、申し訳なさだってあるが、それはそれとしてクラスメイト、友人として距離を置くには勿体ないと思える相手なのだった。あと一か月は前後席に毎日顔を合わせるわけでもあるし。
「そう、それで、そう、バレンタイン……バレンタイン……もしかして今日すっごい邪魔しちゃった……?」
「ぶん殴ってやりたいくらい邪魔された」
にっこりと、優芽は笑顔を浮かべた。
ぴしりと、小夜の全身の筋肉が硬直する。
小夜の背筋は寒いし、優芽は背筋を伸ばす。ぐっと伸びをして「ん……はぁ」と脱力した。
「なんか、ふふ、すごい話してるよね、私たち」
「あ、え、う、うん、それは、うん、かなり……明け透けというかさらけ出しちゃったというか、わたしは」
堰が切れたというやつだろうかと小夜は考える。溜め込んでいたもの、膿んでいたものが、溢れてしまえば一挙だった。小出しになんて無理。頭で考える前に口から勝手に飛び出した言葉ばかりだ。
今となっては、それで良かったとも思えるけれども。
「バレンタイン、なんか琴樹に協力させてたんでしょ? 細かいことは訊かないけどさ」
ラインはある。琴樹が絡んでいることだが、これは小夜と『先輩』のことだから、優芽が踏み込んでいけないラインはあるはずなのだ。
「えーと、まぁ。……頼りになるよね、琴樹」
「まだ言うか」
「いちおわたし、振られたばっかなんだよね、それも手痛く。身近ないい感じの男子に心揺れるのって仕方なくない?」
「はぁ? まだ」
「邪魔とかじゃなくて。いやほんとにね。もうほんと邪魔してやろうみたいなことは全然考えてない。ほんと。そうじゃなくって、純粋に……わたしのことはさ、もういいんだ、少なくとも今は。てか、考えたくないってのもあるし」
後半は切実な思いで、優芽にも伝わるものがある。こんな奇怪な状況に陥ってはいるものの、小夜が痛烈な失恋をしたばかりというのは事実なのだ。そこは、優芽が遠慮しなければいけないラインだった。
「だから……そう、今日邪魔しちゃったお詫び、ってほどにも、ならないけど……優芽の、優芽とこ……幕張君のこと、を……」
話す筋合いが、優芽にあるだろうか? 小夜は思い至る。優芽と琴樹のことを、優芽が小夜に話す道理が、あるだろうか。
いやない。
小夜が傷心に触れられたくないように、優芽の問題に小夜が踏み入っていいわけがなかった。
それはそれとして、優芽はこの際、語る気でいる。
「それねぇ。今日はさ、なんてーの? 私の気持ちを確かめてみましょうみたいなつもりだったんだよね」
ローテーブルに常備のお菓子を口に放り込んで優芽はもぐもぐと口を動かす。
「気持ちを、確かめる? 琴樹の、じゃなくって?」
「そ。私が琴樹のことどう思ってるのかなってとこをさ、こう、チョコあげてみてその反応? 感想? みたいなのでどう思うのか、ていうか、好きかどうか」
「いや、好きじゃん。めっちゃ好きじゃん」
それは優芽には少しおもしろくない。自分が色々諸々思い悩んで悶々として右往左往したというのに、小夜も希美も随分あっさりと言ってくれる。優芽は琴樹を好きなのだと、まるで至極明白な事実であるかのように言っちゃってくれるのだ。
おもしろくない。が顔にも出ている優芽を見て小夜にも一つわかったことがある。
「なるほど。優芽も馬鹿だったんだね」
「ムカつくんですけど?」
「馬鹿でしょ。馬鹿以外に言い様がないって。えぇ、なんかすごい徒労感。こんなやつのためにあれこれ頑張った自分が虚しい」
「なんか小夜、変わった?」
「そりゃ変わるでしょ。変わるってか、優芽にはもう遠慮とかする必要ないし」
最低で最悪なことをした。最低で最悪を告解もした。そしてそれは、水に流された。
なれば、小夜は優芽の大事じゃない大事な友人であるべきではなかろうか。
ずけずけと、気安く、仲を違えたって構わない、大切な存在。
小夜にとっての優芽も同じことだ。
こんな時に、と思いつつ、得難いものを得た充実に小夜は瞑目したのだった。




