第65話 誰が誰に、どんな思いを
校舎には朝から少し、浮ついた空気が漂っているように思われた。それは誰彼の視線が彷徨うから、それはかすかに鼻をつく甘い匂いのせい、それは何気ないはずの挨拶のぎこちなさ。
どれも僅かな変化ではある。そして確かな違和感でも。
「小学生かってんだよな」
琴樹の机に片手を乗せ、仁はやれやれと肩を竦めて見せる。
「まぁ? オレくらいになると? 今日という日も何の変哲もないただの火曜日なのであって? なぁ琴樹、そうよな」
「いや、その言い方は虚しいタイプじゃないか? 変哲はあっていいだろ」
「つまりま、いつもどおり過ごしてればいいみたいな? そんなニュアンスだよ」
「言いたいことはわかる」
いつもより身振りが大袈裟な仁がどれほどいつも通りなのかという問題からは目を逸らし、琴樹は登校してきた隣人が目についたから手振りにだけ挨拶を交わす。
「そもそもだな、本命以外のチョコに価値などあろうかいやない。数ではなく質。戦いは質だよおにいちゃん」
「なるほどたしかに。義理とかほんと……ほんと面白くないからな」
ほんとに、苦い思い出ばかりだ。味覚的に苦い年もあればチョコ一つの恩を楯に取られた時もあった。そのすべてが義理の上にあった。
「また思い出に浸りやがって」
「ほっとけ。それで? 勝算のほどは?」
「ほっとけ」
琴樹にも仁にも勝ちにつながる当てがない。
「お話し中のところ失礼しますね。聞き耳立たせてもらっていたのですけど……どうします? これ?」
「「ください!」」
つながらない当てはある。
琴樹の席の隣には、数を配ってくれると言っていた隣人がいる。
頭を下げて差し出した二人の手だが、片方だけに小さなラッピング袋が乗せられる。
「面白くない。でしたか?」
「まさか。義理でもなんでも今日という日にチョコをくれるのは女神。天使。神。涼様」
「ま、いいでしょう」
あまり長々とやり取りを続けては友情に陰が差すことになりかねない。そういった計算も込みで涼は琴樹の手の平にも小包を乗せた。
「十倍返しでお願いしますね」
「等倍で、おなしゃす」
琴樹の返事に仁も深く頷いた。同じ包みを頂戴して「あとで食べてくださいね」と言われたから琴樹は小袋を鞄に仕舞い仁は手の中に持て余す。
頃合いとしても丁度よく、仁が琴樹の席を離れて自席に戻る。
そのすぐ後に、琴樹は背中をトントンと突かれたのだった。
「はいこれ」
後ろを振り返って一声の間もない。こちらは市販のチョコ菓子だった。遠慮なく受け取る。
「手作りが良かった?」
小夜は、涼がいつものグループに交じるのを横目に見遣る。たぶん、数を配り終えたのだろうと思っている。
「手作りだったら突っ返してるところだよ」
もちろん実際にそんなことがあれば有難く頂戴するが、こうでも言って焚き付けた方が相手のためと琴樹は思う。今日に至ってさえ日和るなら、いよいよ琴樹にも考えがあるというものだ。
「ま、頑張れ」
応援はする。顔見知り程度の先輩に声を掛けもする。それとなく中学からの後輩女子に対する好感度なんてものを聞き出しもする。
けれどそれは本人が正しく努力するならばだ。当てつけや心にもない媚びにかまける余裕はないはずだった。
琴樹は正面に向き直り三つ目の義理を仕舞いこんで、教壇に立った担任教師を見上げた。
日直の号令に「ありがと」は溶けて誰にも届かない。
〇
感謝や友愛、義理が溶かし込められているものばかりではない。
本気の結果を昼休みに見届けた優芽と希美は、クラスメイトの嬉し涙に感化されて鏡と向かい合うことになった。
「うぅ、よかったぁ」
「もーさー、優芽まで泣くことないのに」
「希美だって泣いてたじゃん」
「わたしのはほら、もらい泣きのもらい泣きだから」
一人じゃ怖いと言うから付き添った後であり、校舎の外れの洗面所に感嘆を吐き出す。
つい今しがた、勇気ある少女が一人、一人じゃなくなった。振り返った彼女に、いいよいいよ、と。気にしないで、と手振りに示して場を離れてきたわけだ。
「あーーー青春んーーー」
「アーオーハールー……んで、優芽さんの青春んーはいつなんでしょか? ん?」
「あーーー……」
目元は整え終わっているが狭い空間から出ることはせず、優芽は見慣れた間取りの見慣れない小奇麗な床に視線を落とした。
「放課後、に……や、約束だけは一応、しておいたけど……」
「え? デート?」
てっきり今日のところはチョコを手渡して終わりと思っていた希美だから、優芽の返答には素で瞠目する。
「ちがう! デート、では、ないからっ。なんか、なんか、な、流れで?」
「いつのことよそれ」
「き、昨日。夜に。電話で」
「はいはいはい、はーいはい。夜に電話でね。いつものね。ほんとさぁ、もうさぁ……なんなん君ら?」
「そんな怒んないでよ」
「怒ってませぇん」
煮え切らない優芽に腹が立っているだけだ。琴樹にも。こんなことでこんな気持ちになりたくなんてないのに。
「とにかく、もう、早くくっついちゃってよ。早く」
「だからまだ、そういうのを確認しようって話、じゃん?」
たぶん、「そうだったね」が、平静な人には冷たく聞こえてしまったのだろうと希美は思う。そんな人、この場にはいないけれど。




