第51話 幼女はおねえちゃんとおにいちゃんが楽しそうにお喋りする夢のようなものを見ていた
スーパーの駐輪場に自転車を置いて、店内に駆け込んだ琴樹は適当に目についた店員に事情を話した。
返ってきたのは、そういった話は聞いていないという哀れむ目と「大丈夫ですか?」という心配で、後者は琴樹自身に向けられたものだった。
「大丈夫です。すみません。大丈夫です」
呼吸を落ち着けた後に連絡先を置いて店を後にする。
スーパー、それと付近の道路には人が多い。交通もそれなりだからそれは不安だが、芽衣が誰かの目に触れる可能性は高く、そうであればひとまずの安全は確保されるはずだ。それならいい。その後に多少、琴樹や優芽が芽衣の発見を知るのが遅れても、無事でさえいてくれれば。
悪意の可能性は考慮しつつも、それはない、と無理やり頭の中から追い出す。ない根拠なんてない。ただそれは今、考えていられるようなことではなかった。
であるならば、不慮の危険でありそうなのは、車をはじめとした乗り物。
それと、池なんかの自然。緑地公園は、幼子一人で歩くには危なすぎると、琴樹には思えるのだった。
それともどこかへ、迷子になっているだろうか。琴樹の中にはそうなってしまった苦い経験もある。苦いのは、それが山の中で、見つけてくれた人が、手にも顔にも傷を負ってしまっていたから。
こんな時になにを思い出してるんだ、と歯を食いしばる。
自分に向かって手を差し出すその人の笑顔の眩しさを覚えている。
〇
公園まで戻ったところでスマホを確認し、なんの着信もないから、琴樹はメッセージで優芽に集まる場所を指定しておいた。少し考えて思い浮かべた近隣の地理から、花屋に近い公園出入口を。
着いたら今度は電話しようと思いながら、琴樹は自転車を押して歩く。先頃は自転車に乗ったまま走行コースを一周したが、そのコースは公園の外周に沿っている。今はおおよそ公園の中を突っ切るような道を、人目も憚らず左右に頻繁に顔を振りながら歩いていく。
公園は広く、整備された道の上ならばまだしも、自由に歩く事を前提とした芝地には木々も多く死角は多い。
背筋を思い切り伸ばしたり、逆に丸めたり。
歩き進むより早く首を伸ばしてみたり、目を眇めて遠くを見たり。
そんなことをしながら歩いていた琴樹は、それを見つけた時、一瞬は思考が止まった。
道から外れた芝の上、奥の方に、今、黄色がなかったか?
自然にあるようなものではない、真っ黄色。
花より大きく、花壇より小さく。
寄り集まったのではなく、一つの丸い黄色の。
知らず止まっていた足が一歩、動く。
自転車が倒れる音が遠くに聞こえる気がした。
走っていると自覚したのは、踏む感触の違いに少し躓きそうになったからだった。
〇
「芽衣ちゃん!」
近づくにつれ確信になった思いは、不安に取って代わられる。
大きな木の幹の傍に、倒れているのは間違いなく白木芽衣で。
なんで倒れている? なんで倒れている? なんで倒れている!?
走る勢いはなんとか膝で地面に逃がし、琴樹は芽衣の顔を窺う。
ぱっと見、着衣に乱れはなく、大きな汚れもない。黄色の服と黒い髪に芝が付いているのは、横になっているからだろうと思われた。
顔色も、しっかりとしている。
ん?
と、琴樹は眉間に皺を寄せた。
あれ?
格好も、倒れていると言えば倒れているが、これはむしろ、寝転んでいると言った方が適切な、横向きの安穏とした姿勢で。
「んー」
漏れ聞こえたのは可愛らしい吐息。
「芽衣ちゃん?」
小さな声で呼びかけて、ほんの少しだけ体を揺する。
そうすると芽衣は身動ぎし、薄っっっすらと目を開けた。
「こ……にぃちゃん……おーじさまだー……すぅ」
すぐまた目を閉じて、聞こえてくるのは、どう聞いたって穏やかな寝息だった。
琴樹は、木の幹に背中を預けた。それは芽衣が少し前にしたのと同じ行為だったが、そのまま陽気に負けてカクリと地面に転がることはない。
「はあぁぁぁぁああああ」
長く長く息を吐き出す。膝を立てて肘を乗せた。組んだ手には額を。
「よかった……」
他に何もない。ただ。
「よかった」
それだけでいい。そう思える事実だけあれば。
〇
起こすべきか否か数瞬悩んで、琴樹は制服のジャケットを優芽の体にかける選択をした。
それからスマホを取り出して優芽に連絡をする。
場所は、というところで目印を探して、大きめの木と言ったら伝わった。
耳にうるさい「すぐ行く!」にスマホを顔から遠ざけ、耳に当て直した時には通話は切れていた。
「すぐ来るってさ」
眠る芽衣に伝わらないと知って言う。
セーターを丸めて頭の下に差し入れたからか、芽衣の表情は更に緩々としたものになっている。それが全く、憎らしくない。
今、琴樹はあまり頭が回っていなかった。ぼんやりと空を眺め、優芽を待つ。
〇
琴樹からのメッセージを優芽が確認したのは、公園のほど近くに居る時だった。
花屋からここまでの間、芽衣本人、あるいはその痕跡、目撃情報、何一つ得られなかった。
芽衣がいなくなってからもう、一時間以上経っている。
警察には、いつ頃連絡するのが適切なのだろう。探す範囲を広げないと。いやまず園の先生たちに一度連絡して。お母さんにも。お父さんには、どうしているのだろう、母から伝えてあるのだろうか。それとも仕事の邪魔をしないために今はまだしていないのか。
考えることはたくさんあって、そのどれもに答えが出ない。
「大丈夫、大丈夫」
琴樹から伝えられた待ち合わせの場所は、あの日と同じ場所だった。今日は飲み物を買っておくなんて心配りはできない。
「大丈夫だよねー……うん」
大丈夫を繰り返しながら一分ほど待っていると、琴樹から電話が掛かってきた。
そのあとのことは、ただ嬉しさと急く心に塗り尽くされていたから、後になっても優芽はあまり思い出せないのだった。
人生で一番ってくらい、走ったことだけ覚えている。
〇
白いシャツの姿が見えて、そのすぐ隣にこんもりとした何かがあった。
優芽は走り寄るにつれ、まずは「琴樹!」と大きく呼ばわる。
手を上げる琴樹の姿がなんだか暢気に見えて、電話口で聞いた声も合わせれば、優芽にはもうこの時には不安はなかった。
「琴樹! 芽衣は?」
言いながら、わかっている。見つけている。琴樹の横ですやすやと穏やかな寝顔をしている芽衣をだ。
瞬間、力が抜けて、優芽はぺたりと芝生の上に座り込んでしまった。
「よ……よかったぁーーー」
目尻に涙を浮かべるほどの安堵が優芽を包む。
「大丈夫か?」
琴樹が差し出してくれた手を掴むが、腰に力が入らなかった。
「駄目みたい。腰抜けちゃった」
あはは、と笑えることのなんと幸福なことか。もう一度、芽衣の寝姿を目に収めて、優芽はまた長く息を吐き出した。
「お……ぇちゃん、と……ぃちゃん……だー……」
芽衣の声に琴樹も優芽も目をしばたたかせ、小さく小さく笑い合う。
ぼんやりとした芽衣の瞼はまたすぐ下がり、すやーっと夢に旅立っていったのだった。
「芽衣は……もう」
「起きるんだか起きないんだか」
「ん。まぁここじゃね」
「ぐっすりとはいかないか」
琴樹と優芽は見つめ合い、優芽が恥ずかしそうに笑む。
「琴樹が、起こしてあげて。私まだ、動けないから」
「……そうか」
芽衣の方に体を寄せる琴樹を、優芽はずっと見守っていた。




