第34話 ひとつラインの向こう側
「幕張ってなんかじゃね?」
「……意味が分からないんだが」
購買でパンを買ってきたという仁が琴樹の前の席に、主人不在だからと勝手に座り込んだと思えばこの発言だった。
「琴樹でいいか? 幕張って、幕張じゃんやっぱ、千葉県幕張。メッセ。つーことで琴樹呼びにすっから。で、オレのことは仁で」
「爆速で詰めてくるのな」
「思いタッタラーってやつだ」
「……いいよ名前呼びで。前はそっちのが多かったし」
「だよなだよな! ついでに訊くけど前ってやっぱ中学ん時?」
琴樹は「ああ」と答えて、仁が小耳に挟んだというバレー部の話だとか逆に琴樹が噂に聞いたバンドの話だとか、いつになく騒がしい昼食を摂ることになった。分けたおかずの卵焼きが好評だったから琴樹としては満足だ。
昼休みいっぱいを仁との時間には使えない。弁当箱を仕舞って多少は雑談するが、途中で「わるい。ちょっと用事あるんだ」と琴樹は立ち上がった。そうか、くらいで惜しまない仁を置いて教室を出る。
大事な用事は、本当にある。
一年一組の教室と食堂を結ぶ最短経路、をいくらか外れたところにある階段、の前。
あんま人が通らないらしいから、と指定された場所だった。
(告白されたとこの使い回し、てのは……逞しいことで)
なんでそんなこと知ってるんだと琴樹がチャットに投げた質問への回答に関して、思うところがないでもない。見ず知らずの男子生徒に妙な同情心を抱く。
「お。おそいぞー」
「ごめん……」
待たせた、とは続けるのを止めた琴樹である。約束の時刻には間に合っているはずであるし、この場の情報をくれた誰かに申し訳ないような気がしたから。
そんな安い情けこそ侮辱だと、誰かが知れば怒るわけだが。
いまこの時には誰かは居らず、琴樹と優芽の二人だけだ。
「このまえの、公園で遊んだ帰りの」
「待って」
優芽が言葉でも手でも制したのは、琴樹がいきなり本題に入りそうだと察したからだった。
「幕張はさ、私に言いたいことあるんだよね?」
「あ、ああ。言いたいことっていうか……言っておきたいこと、かな?」
「チャットのメッセージじゃいやだって思ってくれて、だよね?」
琴樹は頷く。優芽の言う通りに、昨日に再開したメッセージのやり取りにスクロールで遡るのが面倒なくらいに指を動かし、日が変わる頃に琴樹から伝えたことだ。
ちゃんと、話しておきたいことがある。
「別にそんなに時間取らせる気はないから安心してくれ」
優芽は唇が尖りそうになるのを頭を振って押しとどめる。
「そういうことじゃなくって。てか時間なんていくらでも取ってっちゃってくれればいいし……ま、まぁちょっとくらいは、うん。別にいいし」
一歩、琴樹から距離をとって優芽は続ける。
「ねぇ、昨日の話を聞かせてよ」
「昨日? 昨日の話は……もうしたよな?」
「それはそれ。文字だけじゃわかんないことだってあるでしょ?」
「それはそうだけど、かなり……」
(事細かに送ったけどな……まぁ、白木さんが不足ってんなら、不足なんだろうが)
昨日の夜にメッセージアプリに流した長いスクロールの何割かは、優芽が細部に亘って投げかけた問い掛けに因るものだ。
「いや、わかった。あんま大した話じゃないけど、それなら最初から」
言いながら、以前にもそんな前置きをしたなと琴樹は思ったし、優芽はそれがまた聞けることに笑みを浮かべるのだった。
〇
「うん、で、昼休み終わりそうなんだけど」
「ごめんごめん。私はいろいろ聞けてよかったよ?」
「俺が話したかったこととはちげぇんだよ……」
「んふー」
「笑うところじゃないけどな」
芽衣の成長とか、芽衣の好物とか、琴樹の好きなグミはどれだとか、優芽はラムネ派だとか、芽衣の最近の様子、琴樹の友人関係、優芽の対人問題、etcetc……脱線に次ぐ脱線のために、昼休みの時間はすっかり消化されてしまった。
眉間に皺を寄せる琴樹と口元に弧を描いた優芽という対照的な二人は、教室に戻るために廊下を歩いている。
「白木さんって、門限あったりするのか?」
「……たまにさぁ……幕張って考えなしだよね」
「急にディスられるし」
「あるよ。ちゃんと。夜九時。九時までなら、会えるよ?」
「じゃあ、二十時にあの公園で。いいか?」
「やっっっぱ、考えなし。自己中、自己中野郎。最低なんだ」
「なん……あ、待った! やっぱなし! 今の取り消しで! ああ、そうか、そうだよな。……て、白木さんもわかってるよな?」
疑問符を浮かべて、少し慌てて、それから琴樹は目を細めて優芽を睨む。
対して優芽はずっと、ずっと笑顔のままだ。
「二十時ね。おっけー」
わかってるかどうかは答えない。どうせ答える必要もない。
優芽はもう一段、笑みを深めて下から琴樹の困り顔をしっかり見上げて、それからトントンと軽やかに先を行く。
「その時はちゃんと聞くから」
(だから今は、ちょっと合わせてあげよっかな)
きっとまだ一緒に教室に戻ることを内心では良く思っていないだろう男子に合わせて、優芽は何もなかった顔で友人の名を呼んで小走りに駆け寄っていく。
離れていく背の意味をたしかに受け取って、琴樹は表情を苦笑に変えた。自分の気質のせいで変な気を使わせた。それを申し訳なく思う。ありがとう、と思う。
窓の外は青空。吹き込む風は、また少し肌寒さを増している。
夏はもうずっと遠い過去のこと。




