第29話 友人
人生でも有数の憂鬱な月曜日に、幕張琴樹の足取りは重い。教室に近づくほどに重くなる気分だった。
登校時間はいつも通り。半々くらいの確率で雨に変わるらしい曇り空に対して、折り畳みの対策も今日は万端整えてある。
開けっ放しのドアを潜り、慣れ親しんだ教室内を自席に向かう間、そろりと白木優芽の姿を探す。
定位置に集まったグループの中にその横顔はあった。優芽は先週までと変わらない笑顔で友人たちと歓談に興じていた。
琴樹の目には本当に全く変わりなく見える。隣の女子と顔を寄せ合って笑っていて、話題は部活のことらしい。優芽が一年生の辛さを語れば数人が同調する。バドミントン部もどこの部も、多かれ少なかれ下級生は先輩に使われるのが世の常のようだ。
一見は何も変わっていないことに安堵し、琴樹は文庫の文字列を追うのに集中しようとした。
「なに読んでんだ?」
珍しく声を掛けられたから、顔を上げることになったが。
クラスメイトの男子で、比較的話をする相手だった。無視するようなことはせずタイトルを教えたものの、見るからに『?』を表情に浮かべるから琴樹も本を閉じる。
「浦部はあんま、小説読むタイプじゃなさそうだもんな」
「そういうこと言っちゃいます?」
「本読むよりやりたいことがあるんだろうなって、そういうことだよ。今日も大荷物だな」
「なんじゃそりゃ。素直に言えよなぁ? バンド頑張ってるな、って」
「頑張れよ、『紀字の天才ギタリスト』」
「……やっぱダセェかな」
「ダセェな。正直に言っちゃうと」
文化祭のライブで名乗った肩書について、浦部仁は今になって自分のセンスを疑いだしていた。
通称に高校名とありふれた形容を乗っけただけだから、実際そこは評判がよろしくない。体育館中を歓声に震わせた演奏とは天地の差だ。
「なにか用事でもあるのか?」
「幕張そういうとこ幕張よな。用がなくてもいいだろ? てかギターおろしていい?」
「自分の席行ってからにしてくれ。どうせ用はあるんじゃないのか? ホームルームまでもう2,3分だぞ」
「せっかちさんめ」
ビッと両手の人差し指を突き出す仁は正直少しウザい、というのが琴樹の偽らざる感想だった。
「最近よく話してるだろ? 幕張。女子の、特に白木とか涼と」
秘密の会話だというように声を顰めて、顰めた分だけ仁は琴樹に寄っていく。
「なんとなくわかったわ。涼の勧誘に使えるような情報は知らない。わるいな」
「話が早すぎるっ。でもま、そうだよなぁ」
仁には悪いと思うが、琴樹には涼がバンド、軽音部に入ることに繋がるような何らかは思い浮かばない。
文化祭で催されたライブステージ。そこでパフォーマンスを披露した幾つかのグループ。その内のあるグループのメンバーに黒浜涼が含まれていたのは、一年一組に多大な衝撃をもたらした事件だった。
とりわけ仁の受けたショックは大きく、文化祭後の数週間は名物化するほどに涼に話を持ち掛け、ことごとく失敗に終わったのだ。以来、機を待つスタイルに切り替えることにした仁だった。
「ちな今日の放課後は?」
「知るわけないだろ」
「幕張が。幕張は今日の放課後はまたバイトか?」
「あぁ。今週は休みなし」
「そりゃ残念。いつか空いたら教えろよ」
言い残して仁が琴樹の席を離れていくのは、チャイムが鳴ったからだった。
〇
火曜日になっても、琴樹と優芽が言葉を交わすことはなかった。かといって目に見えて避けているということもない。さりげなく、機会を事前に察しては巧みに逃れていく。それはもちろん琴樹がしていることではあるが、優芽の方も追ったり、自分から近づくような様子はない。
そしてそれがもう、少しばかりは奇妙に映ってしまうくらいには、このところの優芽は事あるごとに琴樹に話しかけていたのだ。
「優芽ぇー……やめたの? 幕張にかまちょすんの」
「やめたも何も、別にいつもどおりでしょ。あぁ、そっか、まぁ最近はたまに話してたかもね幕張と」
「いやいやいやいやなに言っちゃってんの? めっちゃ話しかけまくりだったじゃん! ふらふら~ってなにかとすぐ幕張の方寄ってくから、優芽探す時はとりま幕張探してたからね、わたしレベルになると」
ふらふら、を体で表現していた友人はそのまま腕を組んで、うんうん、と首を縦に振り「背ぇ高めだし。目印ですな」と自分の頭の上に手を翳す。
優芽はギクシャクと否定を手振りにも表す。
「ん、や、ぜんぜん。そんなわけないって。ないない。うん、ないから」
ただ意味もなく忙しないだけのジェスチャーと言葉が通じるわけもない。
「おめぇ、ポンコツ属性にまで手を出す気か?」
「バカ言ってないで」
じっとりと目を細めた友人の肩を、別の友人がペシリと叩く。三人で他愛ない雑談をしていた最中の、友人の問いかけだったのだ。
優芽と親しい、なんなら親しくなくとも、優芽が短い期間に変わって、戻って、そういう変化には気付いている。
戻ったけれど、少し背中を丸めがちにしているというのは、特別に親しい友人くらいしか気付いていない。親しい友人ならば、篠原希美や西畑文ならば気付くのだ。
「実際んとこ、どうなの? 優芽の恋バナとか初だし、ちょー気になりすぎて授業中しか寝られないんだけど」
「だからそういうんじゃないってば。てか授業中に寝ちゃ駄目でしょ」
「余計なこと言うから……」
「ごめんち」
希美の軽薄はいつものことで、優芽と文からの冷めた目線に片目を瞑って手のひらを合わせる。
「恋バナじゃないにしても、優芽が近頃、幕張君によく話しかけに行ってたのは事実だよね? なにかあった?」
「う……うぅん。あったと言えば……会ったというか」
「へいへい。あんまちんたらしてると涼呼ぶぞ? 涼に訊いちゃうぞ? ん?」
チンピラみたいんな顔をする希美に文のチョップが降ったのは無言のうちだった。
「……希美も文も、今日の放課後空いてる?」
「おぉーついに」
「私は大丈夫。希美は?」
「大丈夫にする!」
ぐっとサムズアップする希美に、今日の放課後の予定は最初からなかった。




