第128話 不確かな未来に私を送り出す
琴樹と優芽にとってそれは遠い単語だ。ずっとずっと先、未来に起こる現象じみたこと。なにか自分が起こすものではなくポンと発生するイベントみたいな感覚ですらある。
同時に意識の最外縁でちらつく影でもある。踏み出した関係の先、未来にあるべき姿として確かに遥か彼方に、あることだけは知っている。
優芽には今も感じる母と父の仲睦まじさとして。
琴樹には古い記憶として。
ごけっこん。
だなんて、そんな純心にすぐに応えられるわけもなかった。
「ご」
琴樹は一文字分の音を吐き出して固まった。ごけっこん、できる。出来る出来ないなどとそんな揚げ足取りをしてはいけないことは理解できる。
ただじゃあなんて答えるか。それを琴樹一人では導き出せない。
「えっと、ごけっこんかぁ、それはさすがに」
優芽はもっとシンプルに保留を選択した。
それはさすがにわからない、と。ごく当たり前の高校生の回答を言いかけた。
掻き消したのは、琴樹が逡巡し優芽が留めようとしたものをずっと昔に選んだ人だった。
「芽衣ぃ、ごめんね、ちょっとママのこと手伝ってくれる? ママにもおねえちゃんたちから聞いたお話を教えてちょうだい?」
「ママにぃ?」
「あ……芽衣、行っといで。ママのお手伝いね」
優芽が促せば、芽衣はこくりと頷いて台所の母親のもとに駆けていく。
「ママっ。ママ、たいへん、おねえちゃんとおにいちゃんね、ごけっこんするの!」
聞こえてくる事実の改変に苦笑を交わして琴樹と優芽は同じ思考に逃げる。
今日はとりあえず、帰ろう。帰ってもらおう。
「そろそろ……帰るよ。わるい、なんか、微妙な感じになっちまって。なんてーか、やっぱ……ちょっとびっくりしたというか、な」
「あは、私も。でも、そういえば芽衣は前から言ってたもんね、ごけっこん」
そうなのだ、芽衣は以前から度々口にしていた。それを無知からくるものだとして軽視していたことは否めない。事実、無知からくるものではある。だからこそどんな場面にもその単語に行き着く可能性があるのだと、それを考えられなかったのは自分たちの浅慮だったと琴樹も優芽も反省する。
「……ごめん」
「や、やめてよ。なんだかそれじゃ、ほんとに……そういうことには、ならないみたいじゃん……」
「あ、ごめん! いや、違くて。あ、いや……」
付き合って間もない二人にそれに纏わる意見の交換は早すぎた。そもそも高校生である。よほどの事情がなければ殊更に意識することもないはずの年齢。
琴樹が言葉に詰まりに詰まり、優芽は頭では何も具体的な話ではないと理解しているのに不安が募る。
いまここで、顔を合わせていることすら、よくない。
「とりあえず、帰るわ。遅いし」
「う、うん」
台所の二人にも声を掛け、琴樹は姉妹に見送られて玄関を潜った。
琴樹が帰り、芽衣を寝かしつけ、父は今日もまた夜勤。
母と二人だけのリビングで優芽は温かいミルクティーをちびりちびりと飲む。
テレビから聞こえるのはニュースで、どこそこの事故がと伝えていた。
「お母さん、さぁ」
「……なぁに?」
「お父さんと……結婚してよかった?」
「あら、よくなく見える?」
「全然」
顔は見ないまま、目線はテレビを向いたままの会話だ。
「あまり気にしなくていいのよ。芽衣はわかってないから色々言うでしょうけど、それを全部正直に受け止めていたら大変でしょう」
「……わかってる」
今日のことばかりではない。芽衣の言うことに一々すべて真正面から対応していたら身が持たない。それは単に事実として、妹の重ねた月日と経験の少なさとしてそうであるだけのもの。
いままでだってそうしてきたもの。
優芽は手の平に伝わる温かさに、琴樹の熱を思い出す。もしかしたら自分の熱だったのかもしれないけれど。
「優芽、私はね、よかったって思ったわよ。あなたから琴樹君と付き合うことになったって聞いた時」
今日ではなく、もっと前、両親には伝えてあった。どうせ秘密には出来ないと思ったし、たくさんの愛をくれる両親への誠意として伝えなければいけないと思った。あとアドバイス欲しいなぁ、とか思ったり。今みたいに。
「お父さんなんか特にね」
「そうかなぁ? お父さんなんかやっぱりすごい渋い感じの顔してたけど」
「それはまぁ、愛娘ですもの。男親としては色々思うところもあるみたい」
くすりと微笑みを零す母親を優芽はちらっと見た。
「わかってはいるの。優芽も年頃だし、好きな男の子の一人や二人くらい出来るってね。むしろのんびりしてるから心配してたくらいだもの」
微笑みが笑みに変わり優芽はミルクティーの甘さに不満を和らげる。
「二人なんて、出来ないもん」
「そうかしら? ね、優芽、もっと周りを見てみなさい」
「周り? ……友達とか?」
「そう。優芽の友達とか。いるでしょ? たまに話してくれるものね。彼氏、彼女とか、恋人がいる子。いた子。ずっと誰かに一筋で他に目もくれない子の方が少ないんじゃないかしら」
「それは、まぁ、そうかもだけど」
優芽は背中を丸めて下から睨むように母を見る。
言う通り、優芽の周囲でもたくさんある。恋とか好きとか。付き合うとか、別れたとか。
それと、希美の顔も思い浮かぶ。
「私……恵まれてるのかも」
「一応、不自由はさせていないつもりよ。親として出来るところまでは。芽衣の面倒はちょっとしてもらったりしてるけどね」
「そうじゃなくて」
そうじゃないことを、母もわかっているのだと優芽は合わせた目線の柔らかさに知る。
「優芽。私たちとあなたは違うわ。そしてきっと……私たちより大きなものを優芽はもういくつも知って、持っているでしょう。優芽は今、学生なんだから」
「お、母さん……」
慈しみと確信と寂しさに似たもの。注がれる視線の意味を優芽は全部理解したわけじゃない。
愛されていることに疑いはない。
「私、お母さんのこともお父さんのことも、芽衣も、おじいちゃんやおばあちゃんも、大好きだよ」
「ええ、私たちも優芽を愛しているわ。それと、信じてる」
昔みたいに髪を撫でてくれるのは一体いつぶりだろう。
「話が逸れたかしらね」
心地よい温かさに目を閉じて、優芽は思う。
「ううん。なんとなくわかった」
たぶん私は、私たちは、まだ答えを出せないのだ。遅すぎた分を取り戻すみたいに急ぎすぎた。答えをまだ、出せなくていい。
それがわかっただけで充分だと優芽は思った。