第127話 幼女さん、それ以上はいけない
数日しても琴樹の傷は治らなかった。赤みはその日の内に消えて青くなることもなかったが、擦った跡みたいな傷はまだ頬から顎にかけて残っている。
それを理由、言い訳にはしない。
ビデオ通話の向こうから「いたそう」と落ち込んだ声を、体のいい理屈に落としてはいけない。
単純な決意を胸に金曜放課後、琴樹は優芽と一緒に帰っている。
芽衣ちゃんに会うためだ。
会って、伝えるため。
とはいえ道中は優芽との時間であって、それはそれこれはこれで琴樹は存分に楽しむ。
「優芽」
住宅街の歩道を歩きながら名前を呼んで右頬を差し出す。
「はいはい」
そこに優芽が手を添える。琴樹が掴んで固定する。
「ねぇ、歩きにくい」
「我慢我慢」
「や、琴樹が我慢してよね」
「無理だ」
ここ数日、琴樹はこの温かさを大層気に入っていた。
「甘えんぼさんだなぁ」
なんとでも言ってくれていい。文句や呆れに本気が滲まない内は、傷が消えない内は、琴樹にやめるつもりは毛頭なかった。
優芽が呆れ笑いこそすれ手は琴樹の頬を撫でたまま、いくらも歩かない内に見慣れ切った赤茶の屋根が見えてくる。
優芽がカギを取り出すために手を離したから琴樹は眉間に皺を刻んだ。優芽の視線は手元に忙しいから幸い、琴樹は高3男子としては非常に嘆かわしい顔を見られずに済んだ。
優芽の「ただいま」と琴樹の「お邪魔します」の後にいつもの元気な「おかえりなさい!」が響いて、まずは腹を満たさなければ何事もはじまらない。
そろそろ食事代を払った方がいいかと琴樹が考えるほど繰り返された食卓に、今日は四人。優芽の父、白木俊次は多忙を極めている。
「いただきます」
を唱和して伸ばす琴樹の箸に遠慮はもう一切ない。そういう気の使い方はやめた。金銭で、というのもひと月後、早智子に割と本気のお叱りを受けることになるわけだが。
兎にも角にも食事は進み、琴樹は芽衣と一緒に空の食器を流しに運んだ。
今日も美味しかったねと琴樹が言った言葉に芽衣が反応する。
「めい、おりょうりおしえてもらうの!」
「お料理を。へぇ。ママのお手伝いをするの?」
「そう! えっと、おやさいだして、おさらだして、あとあと……ママぁ! めい、おてつだいなにするのぉ?」
「ハンバーグを捏ねましょうね。あとはサラダにドレッシングもかけてもらっちゃおうかな」
「ハンバーグは涼ちゃんのこうぶつ!」
楽しそうな芽衣に琴樹も笑顔をお裾分けしてもらう。
「そっか。がんばってね、芽衣ちゃん」
「おまかせください!」
遅くなるつもりはなく、リビングで少しの間、早智子が家事をこなす間だけ芽衣の相手をし、そうして帰る前に琴樹は優芽と共に芽衣の前に正座した。
「芽衣ちゃん。俺……おにいちゃんと優芽おねえちゃんからご報告があります」
「ごほうこく?」
「うん。芽衣にね、聞いて欲しいの」
真剣は真剣である。さりとて空気が張り詰めるようなものではなくあくまで朗らかな歓談の中に。
「おにいちゃんと、優芽おねえちゃんは、お付き合いをはじめました。恋人ってやつだね。ドラマで見たことあるでしょ?」
「ほぇー……うん。めい、おつきあい知ってる……」
「うんうん。それに私と琴樹もなったの。私と、琴樹おにいちゃんが、お付き合い」
「おねえちゃんとぉ……おにいちゃん」
優芽が指したのと同じ順番で芽衣が顔を向ける。大きなお目目がぱちくりと。
やがて見開かれ。
「おねえちゃんと!? おにいちゃんが!?」
おそらくは過去一番の大声だった。琴樹からすると間違いなくと思うほどのだ。
「おねえちゃんと、おにいちゃんが、おつきあい……おつきあいするの!?」
「そう」
「うん」
「やたぁあああああ!!!」
過去一が更新されて、芽衣はその場に跳ねたり謎に回ったり喜びを全身に表現する。
「おねえちゃんとっ、おにいちゃんがっ……ずっといっしょ! ずっといっしょ!?」
「そうだよ」
「うん。ずっと一緒。芽衣もね」
「わぁああああ、めい……すっっっごく、うれしいです! うれしいなぁ。よかったなぁ。めいはよかったなぁ。あのね、これっくらい」
両手を目いっぱいに広げて、それでも足りなくて芽衣はもっともっと大きく手を伸ばす。伸びて届かない先にだって、想いは届いて、この部屋より大きなものを芽衣は抱えてみせる。
「もっと、もっとね、めいはもっといっぱい、これっっっくらい……いっぱいうれしいなんだよ!」
いつだったか、芽衣の記憶にあるわだかまりのようなもの。
それは琴樹おにいちゃんが長くお仕事に行ってしまう少し前に友達から聞いたこと。
あの頃お気に入りだったドラマのお話。
お姫様と王子様の恋のお話。
むすばれない、と友達から聞いてしまったお話。
それでもと見続けて、その先に知っている結末が訪れた悲恋のお話。
ずっと、心にしこりを残していた、おねえちゃんとおにいちゃんのお話。
それをいま、芽衣は覆してもらうのだ。
両手に収まらないほどの幸福と共に。
「おねえちゃんとおにいちゃんは、ごけっこん、できるんだね!」
白木芽衣はまだ五歳。
無垢に過ぎた。