第114話 どこかで誰かがクソデカため息を吐いた
抱き寄せて、離さないように。
離れてしまわないように。
琴樹は優芽の体を全部包んでしまいたい。心安らぐ温もりを余すことなく包み込んで、決して失われないように。
優芽は琴樹の背中に腕を回す。何も感じることはない。五感の全てを上回って、心から溢れる幸福だけが優芽という存在を満たしていく。
抱き合ったまま、二人はしばらく動かずにいた。言葉もいらない。
少し、琴樹の力が強くなる。我知らず込めてしまったそれは感情の大きさそのままで、優芽は小さく息を吐き出した。
「あ、わるい。痛かったか?」
「だいじょぶ。……痛くしてくれても、いいから」
「しないよ、痛くなんて、したくない」
力強さが優しさに変わって、感じるだけでは足りなくなる。互いの存在を感じるだけでは、足りない。
「ほんとは、もっとずっと前から、俺はずっと、優芽が好きだった。好きだ。ずっと」
優芽の肩口に額を寄せても、心の内は全然、言葉にならなかった。琴樹にはもっと言いたいことがあって、伝えたいことがあって、それを、言葉にしなければ意味はないと知っているはずなのに。
「好きなんだ」
他に何も出てこない。
「うん。私も。好き。大好き。きっとほんとは」
何も言葉にならない琴樹に、優芽はいま確信したばかりのことを言葉に伝える。
「あの日、芽衣を連れてきてくれたあの日から……好きだった」
一年以上も前のことを今も、今は、鮮明に思い出せる。
調子が悪くて、頭は痛くて、高熱は思考の全てを鈍くさせていたけれど。
あの時感じた胸の痛みを、今ははっきりと思い出せるのだ。
きっとそのうち『ビビッとくる』なんて、とっくに出会っていた。
「あの日? 芽衣ちゃんをって」
「うん、そう、琴樹が芽衣を最初に助けてくれた日、琴樹が芽衣を見つけてくれて……芽衣が、琴樹を見つけて連れてきてくれた、あの日。あの日から……あの時、玄関で……一目惚れ、かな」
優芽ははにかんで琴樹を見上げた。
何か月も同じクラスで過ごしたクラスメイトに、というのはいかにも胡散臭いけれど、あの瞬間に間違いなく優芽は幕張琴樹に惹かれたのだ。それを今ならわかる。
そうやって、少し困ったみたいな顔。思い出と一致する表情に優芽は確信を深くする。
「そんな素振り、なかっただろ」
「私だって今、気付いたんだもん。今だから。好き、っていう、100%のそういう感情じゃなかったかもだけど……うん、やっぱりあの時が、最初の切っ掛けだから」
「最初か。前にも言ったけど、俺はほんとは、入学式の日には優芽に惚れてたんだぞ? ほんとのほんとに、はじめて見たその日にさ」
少し離れたところで、妙齢の女性は空に雲の多いことに気が付いて庭を後にすることにした。
「惚れたって、惚れてはなくない? 琴樹、その頃はずっと舞さんの事しか好きじゃなかったでしょ」
「いやいや。切っ掛けとしては十分以上だって。なんてったって、マジで俺が色をまたわかるようになったその切っ掛けだからな。俺は入学式から優芽のことが好きだった。間違いない」
「なんかずるい」
琴樹の誇らしげな顔に優芽は唇を尖らせた。
「ずるいずるいずるい。大体、素振りって言うなら琴樹こそ素振りなかったっていうか、そうだよ、最初なんて拒否しようとしてた。お礼とか、芽衣のことだって! 好きな人にする態度じゃないすぎるっ」
「それはまぁ、そこを言われるとなんも言えねぇけど……」
「私の方がちゃんと好きーってしてたね」
「……優芽は、誰とだってそこそこ仲良いじゃないか。クラスとか部活の、男子たちと」
「それ、琴樹が言うぅ?」
「なんだよ。俺はそんなに誰とも親しくなんてできてないだろ。たぶん、俺が多少は親しい相手って、ほとんど優芽の知ってる奴だからな。修学旅行の時の動画みたいに……知らない奴と仲良くしてるとか、ねぇもん俺は」
「嘘だ。私知ってるもん。バイト先、前バイトしてた本屋さん。そこの店員の女の人と仲良いって。てかなに? なんでバイトない日に会うとか……ありえなくない? バイトじゃないじゃん、それもう」
「どっからその話聞いたんだよ」
「……浦部から聞いた」
あと文から、というのはなんとなく秘密にしておいた優芽だった。
「それは、だって誘われたから」
「誘われたからぁ? なにそれなにそれっ。浮気っ、浮気だっ。最低!」
「待てよあれってずっと前の話だろ。浮気ではっないだろっ浮気では。てかなんもねーし! お茶して映画観ただけだぞ!」
「デートじゃんっ!!! この浮気者っ!!!」
外に出ていた宿泊客たちは空模様を考慮して館内に退避を済ませている。よって誰も琴樹と優芽の声を聞きつけることはない。
「で……まぁ落ち着けよ。そんなちょっと遊ぶくらいなら、じゃあ優芽だって何回もあるだろ、男子と。映画とかカラオケとか」
「二人きりで行ったこととか、琴樹以外にないけど」
優芽は眦を上げて琴樹を睨んでいる。至近で。
二人の距離は、好きだを言い合っていた頃と全く変わっていない。
「ぐっ……いや、でも、優芽の方が……モテる。告白なんか数え切れないほどされてるし」
「関係ないでしょそれ。私は、うん、ちゃんと琴樹に好きだって……琴樹を好きだってぇ……うん。が、頑張った、し?」
「ん? なんか急に、自信なさげじゃないか?」
「そんなこと、ないし?」
「ほら! 自信なさそうだ! 俺はちゃんとデートに誘ったし……デートに誘ったからな! ちゃんと行動にしてたね、優芽が好きだ、って」
「んんっ……んー。やっ、行動は私の方がしてた! バレンタインチョコあげたし、てかてか、だ、抱き着いたりっとかっ……したし!」
こうやって。と更にぎゅっと琴樹の体にしがみつく。胸に頬を押し付ける。
「どうっ、わかった!?」
琴樹からの反論が降ってこないから優芽は自分が優勢だと思って琴樹の顔を見上げた。
優勢は、一応、合ってはいる。
優芽は琴樹のなんとも言い表し難い複雑な表情の意味を理解できずに首を傾げた。
ムッとしてるような喜んでるような悔しそうなニヤけてるような。と不思議に思う優芽は意外と理解しているのかもしれなかった。
「琴樹?」
「そ、れは、卑怯だろ」
隙間もないほどの密着を解かないままきょとんと見詰めてくる優芽に、琴樹はさきほどまでの言い合いのすべてがどうでもよくなる。ぶっちゃけると元からどうでもいいとどこかで思いながら楽しさに興が乗っていた面が強いし。
そんなことより。この白木優芽をどうしたらいいのか、それが問題だ。
とりあえずもう一度、抱き締め返そう。
「わ、わ」
雰囲気はとっくに軽いから、優芽は素のまま驚いた声を上げた。
琴樹に思いきり抱き締められて、痛いくらいで、心地いい。自分のものだと言われているようで、どうしようもなく心浮き立つ。
「えっ、と」
驚いた拍子に抜けていた力を入れ直して、そうするとつい数分前以上に固く抱き合う形となる。
「もっかい言っとくけど、俺は、優芽が大好きだ。世界で一番だ。一生だ」
「……私は、琴樹が好き。大大大好き。私も、一生、世界で一番、琴樹が大好き」
「俺は大大大大好きだけどな」
「私は大大大大大好きだし」
「大大大大大大好きだよ」
「大大大大大大、だ、い、す、き」
「……こっぱずかしいな」
「……うん。やめよっか、さすがに」
そうして笑い合って、でもまだ離れがたくて。
いい加減にしろと天に怒られたのだった。
「うわ、雨降ってきた」
「戻ろ戻ろっ」