第113話
何気ないことのどれほどが、何気ない風を装っているだけなのか。
何気なく、3センチ、近くに寄って歩く時に。
何気なく、横顔を見上げる時に。
それらはきっと本当に何気なく、何の気なしに、してしまったこと。そうしたいと思うことすらないほどの自然に湧いてくる欲求がそうさせた。
何気なく、その人の名を、口にする時に。
それはどうしようもなく、何気ない風を装った。
歩かないかと誘われて、優芽は実のところ断る選択肢を天秤に載せた。
もちろん歩きたい。何時間だっていいし何回だっていい。並んで、歩いて、話をしたり黙ったり。……手を繋いだりも、したいけど。
自身を含め、偽ることはやめたから。想いはあと、伝えるだけのはずなのだ。
それが一番、竦むわけだけれども。
恐怖と呼ぶほど震えあがりはしない。不安と呼ぶほど信じていないわけじゃない。ただそれでも、非日常的な雰囲気が、空気が、何気ないような口振りが、真っ直ぐな目が、優芽の想いに囁いた。
ねぇ、ぜんぶ変わっちゃうよ?
それはいつの時代にも誰にでも、心の前に立ち塞がる兆し。
「うん。涼しくて気持ちいいもんね」
何気ない風を、装った。
庭園内には歩行用の路が整備されており、それらは蜘蛛の巣のように交差し、合流し、分かれてはまた同じ道になる。
メインの経路は幅広だから、琴樹と優芽が横に並んでいたって他の人とすれ違うのに支障はない。美しい庭園だから、人影が増えることはなんとなく嬉しかった。
「ふふ」
笑みとして溢れもした。優芽は擦れ違った人をちょっとだけ振り返って見る。大浴場でも見かけた妙齢の女性だ。淑やかな印象の人。
「知り合い?」
「まさか。ぜんぜん知らない人だよ」
琴樹にはきっと、いや間違いなくわからない。道の端に膝を曲げ、花に指を添える人のことなど。その表情がお風呂場で見たより、ささやかにだけれど明るく見えることなんて。
姿形の他に知ることなど何一つない。名前も年齢も、声だって知らないから、もしかしたらその唇は馴染みのない響きを紡ぎ出すのかもしれない。
「そうか……」
「難しいことないよ。知ってるとか知らないとか、そんなどっちかだけじゃないと思う」
一瞬の自虐的な思考を見透かされて琴樹は頭を掻いた。バツが悪いが、悪い心地ではない。
「わかっちゃいるんだけど……時々には、な。根っこのとこで悪い方に考えがちなのは俺の悪いとこだ、と、自覚だけはある」
「改善の余地は?」
「……ある。たぶん」
それは人との関わりの中でだと琴樹は思っている。人というか、いまこうして隣に居てくれている優芽にならば、という話だが。
「まぁでも、よくないパターンっていうのを考えるのも大事らしいよね」
「良い方に言い換えありがとう」
「思ってないでしょぉ?」
「気を遣わせた、と悪く考えてみたりな」
「ネガティブっ」
何気ない会話の間にも歩みは進む。目指す先はない。交わり合う道を今は共に歩いていく。
だから大丈夫なはずだと優芽は深く心に深呼吸する。
同じ道を歩いていけるように。
「舞さんのこと……今も好き?」
それは誰にでもは訪れない、震えてしまうひとつの決着。
「……大好きだよ。きっと一生」
何気ない風を装ったのはどちらだったか。
間違っている。現在進行形でだ。琴樹は強く思ってやまない。
今、俺は、間違っている。
優芽の肩が震えた理由を自意識過剰とはもう考えない。自信や自負ではなく、こんなところにさえ一緒に居てくれる少女に対し、これ以上の疑念は失礼を通り越して冒涜だろう。
なればこそ嘘などは絶対につけない。いつか言ったことだ。整理したと。琴樹はたしかに、心の内を整理して、思い出をひとつずつ箱に詰めた。それらすべてが幕張琴樹であり生涯、手放すことなどない。
それがなんだというのか。
そんなことがなんの言い訳になろうか。理由になろうか。
琴樹が躊躇う内、優芽が先に踏み出した。それも二回も。その事実に対する弁明に、なるわけがない。
「優芽」
と呼びかけて、ありがとうには逃げない。
「俺はたしかに舞おねえちゃんが好きだ。それが……過去形になるか、もうなってるのか、それももうわからない。消える気はしない。消したくも……ない」
だから。と、選択の権利は優芽にと、そんな逃げ腰はダサいよな?
「でも」
を続けよう。だけど、を伝えよう。
じゃなきゃ一生、後悔する。
「俺は、優芽が好きだ」
だからはその後に。
「優芽のことをもっと知りたい。俺のことを……知って欲しい。全部。……俺の全部、優芽が……優芽に、覚えていて欲しいんだ」
「やだ」
そんな拒絶で、優芽は琴樹を心胆寒からしめる。
「覚えていて、なんて、そんなのはやだ。覚えて……思い出になんてならないで」
振り返って、泣き笑いは照らされる。月と星と、屋外灯と――。
「私も、琴樹のこと……大好きです。ずっと、一緒に居たい」
「っ。あぁ! ずっと……一緒に居てくれっ」
二人分の一つの影だけを照らす光は、柔らかに笑むような色をしていた。